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「カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法」を読んで

カテゴリ:読書の記録

カウンセリングというものには以前から興味を持っていました。
カウンセリングという言葉には、心に何らかの問題を抱えている人を救うことができる、というイメージをもっていたのですが、それがどのような理論や手法に基づいて実践されているのか、気になっていたからです。

先に僕の感想を述べると、カウンセリングは手法というよりも、カウンセラーとクライアントの「あり方」の問題である、と本書を読んで感じました。
そして、誰もがこのカウンセリングの当事者になりうるということ。
クライアントであるということ、カウンセラー(的なかかわり方・立場)であるということ、それぞれが僕ら一人ひとりの日常とは切っても切れないものだと考えることも、決して極端な見方ではないはずです。

 自己の物語の不在

本書の冒頭、第2章のタイトルは
「カウンセリングと物語-生きるとは自分の物語をつくること」。

著者は「ありのままの自分」を抑圧し、周囲から期待される「よい子」の像を演じる子どもたちの事例に触れながら、こう述べています。

「よい子」という仮面のなかに自分を閉じ込めてしまって、「よい子」としての感情や気持ちをつくっているうちに、いつの間にか、本当の自分の気持ちや感情がわからなくなってしまっている子どもたち。自分のなかには、それこそとてもいろいろな面があり、いろいろな感情をもったとしても不思議ではないのに、「よい子」の枠にはまらない感情は、全部自分から押し出され抑圧されているのです。そうして、息苦しく、生きづらくなってしまった人たちが、カウンセリングに来ることは少なくありません。

そういう場合、私たちカウンセラーの仕事は、「よい子」の枠からその人の心を解放するのを手伝うことになります。 そして「ありのままの自分」というものにもう一度触れなおし、「よい子」のなかに閉じ込めていた自分を解放して、新しい自分の物語を生きられるように援助することです。言い換えれば、カウンセリングは「ありのままの自分」のなかに「本当の自分」を見つけ出すことを援助する仕事だということです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

「新しい自分の物語」という言葉がここに紹介されています。ありのままの自分のなかに飛びこみ、本当の自分を見つけ、自らの物語をつむぎだすこと。
それがカウンセラーの役割であり、クライアントの治療のプロセスとなります。

私たち人間は意味を経験する前提として、世界のなかに自分のやっていることを意味づけるような「物語の枠組み」が必要です。それがないと、自分の経験していることを、意味ある経験として物語のなかに編みこめず、経験がバラバラに断片化してしまいます。そうならないためには、自分をとりあえず騙しながら生きるのではなく、自分とまともに向き合わないといけません。自分とまともに向き合ったら、自分の物語がないことによる暇つぶしや、ただ楽しいことに時間を費やすこととは違う毎日を創っていかざるをえません。でも、自分と向き合うと、その空虚な自分とも、まともに向き合わないといけませんから、とてもつらいです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

著者はカウンセリングが求められる背景、そしてカウンセリングそのものの説明のための前提として、自己と世界の間に”意味”を見いだせるような「物語」が必要であると言っています。

僕が、その必要性について考えるために、本書から見いだしたキーワードは、「生涯学習社会」と「自己実現」。

生涯学習審議会(1997年)は、生涯学習社会を「人びとが学習を通じて自己の能力と可能性を最大限に伸ばし、自己実現を図っていく社会」というふうに表現しています。生涯学習社会とは、その時その時に学習をしながら自分の可能性を花開かせていくような、そういう自己実現を追及する社会だというわけです。(中略)

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

自己実現というのは、マズローの欲求階層説にある言葉。
「自己実現の欲求」はその下位層にある「生理的な欲求」、「安全の欲求」、「所属と愛の欲求」、「承認の欲求」が満たされた上で出てくる最高次の欲求です。

ちょっと意地の悪い見方かもしれませんけれども、私は、こんなふうに問いかけてみたいと思います。つまり、「自己実現社会」というのは、一皮むけば、人材として要求される能力を次から次へと学んで身に付けていかないと見捨てられてしまう社会。だから、生涯にわたって見捨てられないために、次から次へと勉強していないといけないような社会なのではないでしょうか?

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

この著者の問いを、今の社会だからこそ丁寧に受け止める必要がある、と個人的には思っています。

どんどん変化していく社会に必死になってついていかないといけない。置いてけぼりをくったら、見放され、見捨てられてしまうから、必死になって社会の変化にあわせて自分も変身していく。そういう生き方を強いられているとき、二通りの心の問題が起こってきます。それは「過剰適応の問題」と「不適応の問題」です。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

僕が最近気になっている言葉、「Learn, or Die」。
学び続けることを奨励する構造の裏側には、「自己責任」の論理が染み付いているように思います。
変化し続ける社会に個人ができることの一つとして、「学ぶ主体」であること、を掲げることに問題があるとは思いませんが、例えば「キャリア教育」や「総合的な学習の時間」など、学ぶ主体であれという要求を個人に出し続けることに偏重しすぎてはいないか、という不安を抱くことを禁じえません。
フィンランドでは、それと同時に、学びたいものはいつでも学ぶことのできる環境づくりも並行して行っている印象を受けます。
僕が、日本は、社会全体として「自己責任」を推奨していると感じるのは、この辺りが要因となっています。

自己の物語は、直感的には内発的動機づけにつながるものであり、それは学ぶ主体の必須要件でもあります。
キャリア教育は自己の物語の構成をすべての子どもに対して実施させるという意気込みを感じますが、同時に社会に適応しろ、という社会からの要請を突きつけられる中で、子どもたちが”安全に”自己の物語づくりに集中できるのか、という疑問を感じてしまいます。

自己の物語の構成に成功した人たち

著者の主張を多少乱暴にまとめると、「自己肯定感を高めるためには、自己の物語を構成する必要がある」ということになります。
ということは、「自己の物語を構成することができている人は、自己肯定感が高い」と言っていいはずです。
(論理的には逆が必ずしも成り立つわけではありませんが)

では、具体的にどのような人が「自己の物語の構成に成功した人」なのでしょうか。

今の若者は、私のような古い時代に若者だった者と、自分の定義の仕方、自分の語り方が変わってきているのではないか、と言われています。では、どういうふうに変わってきているのでしょうか。荒っぽい言い方をすると、昔の若者は「大きな物語」のなかに自分を位置づけえたのに対して、今の若者は「小さな物語」のなかに自分を位置づける、ということです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

僕は、この部分に着目しました。
今の若者には「大きな物語」が不在である、という著者の主張。
それは、いったい何を意味するでしょうか。

最近、「社会貢献」を自分が将来解決すべき課題として熱く語る、あるいは実際に取り組んでいる人が増えていると感じます。
地域活性化、貧困の撲滅、教育の改革、国際支援、ジェンダー…。
これは、自分自身の経験と地域や社会、日本や世界が抱える課題を自己の物語に統合している、という見方ができるのではないでしょうか。
政治への関心、地域活動への参加。あるいは、会社全体の課題、将来の発展を見据えた仕事への取り組み。
自分と自分が暮らしている世界とのつながりを捉えている場合、自己の物語は空間的な(物理的な)”大きさ”を獲得することができると考えることができるはずです。

また、「自分が将来解決すべき課題」という言葉には、物理的な広がりだけでなく、時間的な広がりを見ることができるのではないでしょうか。
いくら未来が予測不可能な時代だとしても、将来の自分と今の自分を接続することができる。
将来を語れる、あるいは過去を語れる人の物語には、時間的な”大きさ”があります。

もう一つ、考えられるとすれば、それは“密度”かなと思っています。
つまり、より「自分らしい」物語であるかどうか、物語と自己とが深く連動しているかどうかという点です。
単にその地域出身だから、興味があるから、だけではなく、なぜその対象が自己の物語に統合されているのかを語れるかどうか。
それは自己と物語との統合度合い、物語の密度と呼んで良いでしょう。

例として「立派」なものばかり挙げてしまいましたが、家族や友人と幸せに暮らしたい、好きなことをやっていきたい、地元が好きだからここに住んでいるだけで幸せ、でも全然構わないと思います。
要は、上に挙げた3要素によって物語の大きさを支えているわけですから。

実際のところ、僕自身は大きさと密度とをバランスしながら自己の物語をつむぐということが重要であると考えています。
いずれにせよ、大きな物語が不在となる中で、より物語を大きくしていこうという流れは確実にあるでしょう。
その流れが、まだまだ社会の中ではマイノリティであるとしても。

とはいえ、社会全体の変化のスピードが増し、”正解”と”不正解”の境界が曖昧になっている現代においては、自己の物語を拡大し、かつ密度を上げるという作業は困難なものがあります。
その作業を自力で行わなければならないという現状までも、社会構造の不備として捉えるべきか、時代の要請として抗えないものとして捉えるべきか。

ここは、個人的に、もう少し慎重になって考えて行きたいところですね。

あり方を考える

幾分脱線気味に話を展開してしまいましたが、このように自己の物語を構成するという事態にはすべての人が直面するはずです。
自己の物語への統合という問題は、単にカウンセラー-クライアントという特殊な状況のみならず、すぐ隣にいる家族や友人も抱えていることです。
この状況を認識することが、自分自身のあり方を変えるきっかけとなりうるのではないか。
僕自身は、本書を読みながら、明確にそう思うことができました。

本書を誰にでもおすすめするつもりはありませんが、自己のあり方、特に他者とのかかわり方について深く考えている人にとって、カウンセリングの概念は何らかの示唆を与えてくれる、そんな可能性を感じています。

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