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日本文化の形成(宮本常一著)(2)-蝦夷をつくった国家について

カテゴリ:読書の記録


前回の記事では宮本常一の語る蝦夷論を紹介しました。

この記事では、蝦夷という存在をつくりあげた国家のルーツについて宮本常一の論を追いたいと思います。

稲作をもたらしたものと武力国家をもたらしたもの

つまり私のいってみたかったのは弥生式文化と古墳文化はおなじ大陸からの文化でありながら、その渡来の経路が違っていたのではなかったかということである。そして弥生式文化というのは稲作をもたらしたものではあったが、ほとんど武力をともなわない文化であった。
(中略)
しかし朝鮮半島を経由して来た文化は武力的な要素をたぶんに持ち、武力による国家統一を進めていった。『日本書紀』にあっては、神武天皇以後の歴史は武力統一の歴史であるといってよい。

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

著者の結論を先に紹介しました。
僕自身、邪馬台国(=弥生式文化)の誕生から大和政権(=古墳文化)の国家統一までが連続的につながっているという習い方をした記憶はありませんでしたが、著者もその二者のルーツが異なることを主張しています。

先に日本における稲作の起源について整理しましょう。

もともとこの列島の上には稲作は行われていなかった。稲作は大陸から渡来したものであるが、それも華北から朝鮮半島を南下して日本にもたらされたものではなく、中国の沿岸から朝鮮半島の南部を経由して、日本にもたらされたものではないかと見られている。
(中略)
朝鮮北部には今日まで稲作の古い遺跡は発見されていない。

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

本筋ではないのでここでは詳細に触れませんが、稲作は朝鮮半島からではなく、中国大陸から沿岸伝いに朝鮮半島を経由し、日本に伝来したようです。
一旦このような形で稲作が伝来すると、農耕によって土地へ定着するようになり、呪術的支配による国家の形成に至りました。
この時代にも青銅器が大陸から輸入されていたようですが、これらは武器でなく銅鐸や鏡など農耕や祭祀の目的で利用されるものが主だったようです。

では稲作をもたらしたのは何者なのか。

著者はこの人たちこそを「倭人」であるとし、そのルーツは揚子江から南の主として海岸地方に居住した「越人」ではないかと指摘します。
「倭」とは『魏志』「倭人伝」の「倭」、「越」とは『呉越同舟』の越ですね。

越とは中国最初の王朝と呼ばれる「夏」の末裔と言われ、体に入墨をし、米と魚を常食とする海洋民と見られますが、『魏志』の「倭人伝」で描かれる「倭人」もまた、同様の特徴を持っていたようです。
また、江南には古くから鵜を用いた漁法があったとみられ、これは日本でも「鵜飼」として現代にまで引き継がれています。
越人はベトナムまで勢力を広げており、「夏」も東南アジアの原住民をルーツにもつと言われています。
東南アジアが日本の米のルーツであるとする説からも、この越人たちの稲作が日本に伝わったと見るのは筋違いとは言えないでしょう。

面白いのが、『魏志』は西暦290年ごろに書かれたと見られていますが、これはちょうど弥生式文化の時代から古墳文化の時代への移り変わりのタイミングであったということです。
その頃の『魏志』に書かれた「倭人」の姿は越人の影響を強く受けているが、逆に華北や朝鮮半島北部の影響が見受けられないということが読み取れるのです。

倭人は中国の南方から海岸沿いに朝鮮半島南部へと至ったとされていますが、彼らはどのようにして日本と朝鮮半島とを行き来していたのでしょうか。
著者は、『後漢書』の「韓伝」に、朝鮮半島の南部に「倭」があったと記されている記述を頼りに、倭人は朝鮮半島南部に自らの植民地を築いたと推測します。
この植民地を拠点に倭人は日本へ渡り、日本の西部にもまた植民地をつくりました。
これが『魏志』「倭人伝」にある「倭国」でありますが、これは「邪馬台国」とは別種のものであることを匂わす記述が『旧唐書』にも見られるとのことです。

大和政権の成立

日本へ朝鮮半島を経由して大陸の文化が流入しはじめるのは、漢という国家が成立し、東北地方を征服し、紀元前一〇八年に満州(中国東北部)東部から朝鮮半島にかけて楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡をおいた頃からであった。そしてその文化は日本に青銅器をもたらしたし、多くの武器をもたらしている。それは二つの意味があったと思う。まず武器を持って日本へわたって来た人びとのあったこと。いまひとつは青銅器を必要とする人たちが国の中にいたことであったと思う。

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

日本への稲作伝来から500年ほど経って前漢が成立し、ようやく弥生式とルーツの異なる文化の流入が始まります。
武器の流入は軍隊を伴わないものではなかったはず、と著者は指摘します。実際、文献には大陸から進行されたことを記す記述は見当たらないそうです。
この時代で日本と大陸とを積極的に行き来していたのは先述の倭人であって、日本へ渡るには彼らを頼るのが筋であるが、倭人が大陸側から侵略されたような記述も確認できません。
恐らく引き続き倭人が海洋交通を掌握しており、彼らの船を以って武器が流入したと著者は考えます。

さらに、倭人が半島に拠点を持ち、海の交通権を掌握していたと考える根拠も示されていました。
一一四五年に編纂された『三国史記』には、新羅が倭によって63回も侵攻されている記述があります。
かなり時間が経って編纂されたものですから史料としての価値は怪しいものの、日本から侵攻されたという記述がまざまざと残されているところに著者は注目しています。
海を越えて幾度となく朝鮮半島へ軍を送ったということは、倭人が海洋交通を掌握し、さらに半島に拠点を持っていたことを示唆します。

朝鮮海峡の航海権を倭人が握っていたとしても、半島にも倭人の植民地があることによって、大陸の文化は半島倭人の手によって日本にもたらされたであろうし、時には強力な集団が侵攻という形をとらないで日本へ渡航したと見ていい。そういう力が凝集してやがて日本の武力的な統一をおこない、統一国家を形成していったのではなかろうか。

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

倭人のみならず、秦の始皇帝の後裔といられる新羅系秦(はた)氏もまた日本へも多数移動していたことが確認されます。
なお、本書では、この秦氏は日本全国に分布し、焼畑をもたらしたのではないかとされています。
このように、朝鮮半島からは武器のみならず、徐々にではあるが移民が多数入り込んできたようです。
移民は西暦紀元の頃からはじまって一〇世紀の終わり頃まで続いたとされますが、これは弥生式文化の収束する時期とも重なっていますね。

まとめ

というわけで、稲作の伝来と武力の伝来は時期が異なり、前者が弥生式文化に、後者が大和政権の成立に直接的な影響を及ぼしたと考えられるというのが著者の主張です。
大陸からの移民が大和政権のルーツであるという記述は本書にはありませんが、少なくとも前漢成立によって伝来するようになった大陸の文化が、律令国家である大和政権の基盤となっていると考えてよいでしょう。

このような律令国家が、自身の文化に迎合せぬ日本古来の原住民たちを指して「蝦夷」と名づけたということです。

本書はこれ以降、日本の南北の文化形成に言及しつつ、畑作の起源に迫ります。
余力があれば、日本の北方文化と大陸の関係性についてこのブログでも触れたいと思います。

留意点

僕は著者の日本文化形成論が現代においてどれだけ実証されているのかを把握できておりません。
したがって本書にかかわる本ブログ記事の扱いは、読んでいただいた皆様の判断にお任せすることといたします。

個人的には、たとえ内容が現時点で誤りと実証されているとしても、著者の深い教養と鋭い推察は一読の価値があると思っております。


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