Top Page » 読書の記録 » This Page

古代の蝦夷と城柵-蝦夷文化の形成をたどる(3)

カテゴリ:読書の記録

1つ目の記事はこちら:蝦夷観念について
2つ目の記事はこちら:蝦夷文化の形成について

倭王権の対蝦夷政策

倭王権の蝦夷政策は、大きく大化の改新以前/以後で区別することができます。

大化の改新以前について、東北において関東系土器が出現した点について著者は注目しています。
関東系土器というのは文字通り関東地方でつくられた土器です。
それが東北に伝わっていたのであれば、関東から関東系土器が持ち込まれたか、技術が伝来したか、いずれかが考えられます。

六世紀~七世紀初頭の仙台平野の遺跡で関東系土器がまとまって出土した事実があります。
これから著者は王権が移民政策のターゲットとして仙台平野を設定し、そこに移民の居住区を築いたと見ています。
仙台平野には蝦夷の拠点集落と見られる南小泉遺跡があり、ここでも関東系土器が多数出土しました。
拠点集落は蝦夷の南北交流の中心でもあり、そこには各地との交易ネットワークがあったはずです。
おそらく、倭王権は蝦夷の拠点集落を政治的におさえることで、交易ネットワークの掌握を目指したのでしょう。
それに連動して蝦夷の王権に対する朝貢の痕跡が確認されており、王権と蝦夷との緩やかな支配-隷属の関係が築かれていたのです。

著者は関東系土器出現期の王権の対蝦夷政策を以下のように整理しています。

1.植民と周辺地域の支配
2.交易ネットワークの掌握と蝦夷集団の服属、および朝貢関係の設定
3.1,2の目的実現のための武力保持と、集落の防御

まもなく大化の改新が起こり、時の政権は国造(地方を治める官職で、その地域の豪族が任命された)支配を解体しました。
続いて全国一斉に評(こおり・後の郡に相当)を設置し、王権の地方に対する一元的な支配体制の構築を目指します。
そして大化三年(六四七)、大化四年(六四八)に相次いで新潟市付近に渟足柵を、新潟県村上市付近に磐舟柵を設置しています。
これらは柵戸(きのへ・さっこ)と呼ばれる関東地方などから東北地方へ送られてきた移民を伴ったものでありました。
つまり、大化の改新以降、柵戸を付属させた城柵の造営が開始された、というわけです。

さて、城柵とはなんでしょうか。
「柵」とは「キ」と読まれ、この「キ」はもともと施設の外囲いの呼称であったそうです。
「城柵」は「キカキ」と読まれ、著者は「木を立て並べてカキ=垣根上にめぐらした施設の意と解される」と記しています。
つまり、もともとの城柵とは防御施設そのものを指していましたが、転じてその防御施設を周囲または一部にともなった施設全体をも「キ」(城・柵)と呼ぶようになったと見られています。

七世紀中葉~八世紀初頭には宮城県中北部の各地で囲郭集落がいっせいに造営され、在地の土器と関東系土器が並存していました。
このことから著者は関東からの移民と在地住民(=)とがともに居住していたとみています。
囲郭集落には王権の蝦夷支配を前提とした住民の政治的な編成があった可能性を著者は見抜いたわけです。

この囲郭集落が初現期の柵でありますが、改新以降はこの城柵が明らかに増えています。
また、考古学の成果を整理しつつ、特に改新以降の城柵について以下のような機能があると著者は考えます。

軍事的機能:防御施設としての機能のみならず、有事の兵力の供給源の機能も備えていた
移民政策の受け皿:「柵戸」は軍事力だけでなく農業の労働力としても期待されており、城柵は彼らの受け皿となっていた
交易センター:南北両世界の交流・交易の場となった
官衙としての行政機能:柵造(さくのみやつこ)が置かれ、移民集団と在地の蝦夷がともに居住する地域の行政機能を司っていた
朝貢センター:蝦夷から王朝に対しての基本的、恒常的な朝貢を受け入れた

城柵といってもその存在形態は多様であったようですが、多機能であることが伺えます。
この城柵も10世紀半ばには相次いで消滅したとのことです。

著者による城柵のまとめのページもありますので、こちらも参考にしてください。

蝦夷の社会性と移配

さて、ここからは蝦夷社会について簡単にまとめます。
本書の論点となるのは狩猟。実は研究者の間では蝦夷の生業としての狩猟の可能性に否定的だそうです。
この原因について、著者は狩猟の証拠となる鏃などの出土品は、戦闘の道具でもあることに由来すると指摘します。
また、八~九世紀ごろには東北北部でも稲作農耕を行っていた蝦夷が多数いたという研究結果もあるそう。

その上で著者は、蝦夷が狩猟を主な生業の一つとしていたと主張しています。
文献資料に注目すると「弓馬の戦闘は、夷獠の生習」(『続日本後紀』)という記述があります。
ここから、蝦夷の戦闘能力が生活文化と結びついたものであると読めます。
日常生活で食料を得るために弓を使用しているのですから、戦闘においても自在に活用できるということです。
「弓馬」とありますが、蝦夷は馬飼もまた生業としていて馬の扱いに優れていました。
蝦夷はこの両者を用いた高度な戦闘技術で官軍を苦しめたわけです。

面白いのが、遊牧民の優れた集団戦法を引き合いに出し、蝦夷も同様に移動性の高い暮らしをしていたのではないかという著者の考察。
実際、東北北部の日本海側では蝦夷の存在が早くから倭王権が把握していたにもかかわらず、蝦夷の暮らした痕跡を確認できる遺跡があまり見つかっていません。
これは、蝦夷が遺跡として後世に残らないような、移動性の高い生活を営んでいた可能性を示唆しています。

ところで、蝦夷は元来そう大きくない規模(五十戸程度の「村」)で生活をしていたとされています。
しかし、ひとたび蝦夷の集落で反乱が起こると、短期間で広範囲の蝦夷が反乱に呼応するという記録が残っています。
これを素直に受け止めると、蝦夷は大きな集団として生活するほどには社会的統合が未熟でありながら、一方で独立した複数の「村」を相互に結びつけるネットワークが形成されていたと考えられます。
このネットワークは、平時はヒトやモノの交流に活用され、有事には緊急の連絡網として機能したのではないか、そう著者は主張します。
蝦夷支配を目論む王権にしてみれば、このネットワークは厄介です。

ちょうど三八年戦争(七七四~八一一)における征夷ではじめて目ぼしい戦果があがった延暦十三年ごろからはじまったのが、蝦夷の諸国への移配でした。
この目的は王権との戦闘に参加した蝦夷に対する懲罰的な意味も含め、抵抗分子の勢力を分散することにありました。
逆に言えば、それだけ蝦夷の抵抗が激しく、朝廷は苦戦を強いられていたとも読めます。

移配蝦夷は諸国に少数ずつ分散され、一般公民に囲まれた土地でさまざまな差別を受けていたと言われています。
当然強い抵抗感を覚える蝦夷もいたようです。
移配されてなお狩猟に従事し、一ヶ所に定住しようとしなかったり、実際に反抗に及んだりした蝦夷がいたことが記録にあります。
が、実際には短期間のうちに多くの蝦夷が国家の「教喩」にしたがい、同化していったようです。
移配蝦夷は法制によって公民と同列に扱わないと定められたものの、調庸が免除され、夷禄と呼ばれる経済的な援助も受け取っていたとする記述が文献に見られます。

 

以上、3回にわたって本書の内容を自分なりにまとめてみました。
端折った部分が多いですが、その点についてはぜひみなさまご自身で調べていただけたらと思います。

関連する記事