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「コミュニティ 安全と自由の戦場」中編:ペグ・コミュニティをどう捉えるか?

カテゴリ:読書の記録


前編では、資本主義の浸透とグローバル化による社会の変遷と、日本社会でも顕著に見られる「自己責任社会」の到来について本書の内容に沿ってまとめてみました。
それは同時にコミュニティが幻想に成り下がる経緯でもあり、本書の表題として掲げられているコミュニティの要素が薄いじゃないか、という印象をもたれた方もいらっしゃるかもしれません。
実は「安全をもたらすものがコミュニティである」という前提があるからこそ、この議論がコミュニティという切り口のおかげで一貫性を維持できていると思っているのですが、それが伝わらないとすれば僕の文章力不足の問題です。

中編では、前編でも言及された「グローバル化」によって引き起こされる社会やコミュニティの課題について整理します。
この部分に関する著者の論述は迫力があり、示唆に富んだものでした。

現実的に考えて、グローバル化そのものを悪とみなすことは、ナンセンスです。
グローバル化の荒波を乗り切るためには、複雑に絡み合う因子を丁寧に紐解きながら、波に乗るべきところは乗り、負担の特に大きい部分について適切に処置を施すことが必要です。
グローバリゼーションが何をもたらすのかについてできる限り正確に把握するという第一歩を踏み出すために、本書から学ぶことも少なくないと思います。

二つのコミュニティの混同

第5章で、「美的コミュニティ」という言葉が登場します。
これはまた、グローバル社会の到来にしたがって現代社会に出現したものであり、安全と等価であり、自由を代償にして参加することのできる(従来の)コミュニティとは異なる特徴を持っています。

二つのまったく異なる型のコミュニティは、目下流行中の「コミュナリズムの言説」において、あまりにもしばしば一まとめにされ、混同されている。いったん一まとめにされると、二つを引き離していた明らかな矛盾が、哲学的問題として、あるいは洗練された哲学的な議論によって解決できる難局として、誤って伝えられるようになる。つまりは、この矛盾は、現実にある正真正銘の社会的衝突の産物としては描かれなくなるのである。

コミュニティ 安全と自由の戦場

第5章の最後に、著者はこう言い残しています。
この結論を検討するための材料をそろえるために、まずは「美的コミュニティ」が出現した背景を整理します。

人々は次から次へと危険な選択をし(結局のところ、わたしたちはみなリスク社会で暮らしており、そのような世界での生活はリスク生活なのである)、その選択で自分が願う有益な結果が得られるか必ずしも確信がもてずにいる以上、多少の安心材料が不都合であるとは、よもや思わないであろう。

(中略)

このような時代に、さまざまな判断を示して―言葉にされるか、行為を通じて明らかにされる判断によって―人々を安心させることのできる権威は、二つある。いや、二つ残っているだけである。一つは専門家、すなわち「人よりもよく知っている」(その能力の範囲が広いために、素人が調査したり検証したりすることができない)人々の権威である。そしていま一つは、数の権威である(数が多ければ多いほど間違っている可能性は低い、という仮定に基づく)。前者の権威は、リスク社会の脱領域者たちを、「カウンセリング・ブーム」のうってつけの市場にする。後者の権威は、かれらにコミュニティの夢を見させ、夢想のコミュニティに形を与える。
(下線は引用者追加)

コミュニティ 安全と自由の戦場

リスク社会(グローバル社会)到来
→個人が自ら判断しなければならない時代へ
→判断を保証する安心材料が希求される
→「専門家の権威」と「数の権威」だけが頼りとなる

著者の言う二つの権威のうち、「数の権威」が「美的コミュニティ」の形成を助ける形となりました。
「美的コミュニティ」とは、「同じ意見をもち、同じ行動をする人々」の 「同一性のコミュニティ」であり、「個人が選択したアイデンティティにしっかりとした基礎を与えてくれる」ものです。

「美的コミュニティ」の一つの例として、本書では「偶像(アイドル)」が紹介されています。
偶像とは、本書内ではテレビなどメディアに顔を出す”有名人”のことで、数の権威が信頼できる手本とする「大衆がいつも目にする人々」です。

“有名人”は常にゴシップの対象とされ、彼・彼女ら本来の人間性を暴露されるリスクにさらされています。
昨今は低俗な芸能ニュースに辟易した声もちらほら挙がっていますが、実際には彼・彼女らの暗い過去や遍歴-孤独と戦う体験-を求めているのは、視聴者でした。
彼・彼女らが望む・望まざるを問わず暴露される過去の情報は、観客に「安心感」や「帰属感」をもたらします。
リスク社会の中では、個々人は孤独な戦いを強いられます。その孤独を埋めるのは、スポットライトを浴びる人々の孤独です。
孤独を共有しているということが、コミュニティ意識、そして安心感を生み出すのです。

もう一つ、偶像には”都合のよい”性質があります。それは、すぐさま「取って代わられる」という”有名人”の典型的な特徴にあります。
常時変化する社会の中で生きている誰もが、安定や永続がないという不安に苛まれることは避けられません。
そこにおいて”有名人”の移り変わりの激しさは、むしろ常に変化する現代社会を体現しており、その不安定性を肯定するという機能を果たしています。
観客は、きらびやかにステージをにぎわせたと思ったらあっという間にお笑い番組やオリコンチャートから消えていく”有名人”を見て、社会の不安定性を容認し、「そう悪いものでもない」という保証を見出しているのです。

著者は、有名人というペグ(杭)を中心とし、擬似的に/表面的に形成されるという美的コミュニティの特徴を強調して、「ペグ・コミュニティ」という言葉も併せて用いています。
この「ペグ・コミュニティ」は、容易にイメージできるように、現代社会において大量に生産され、消費されています。
周辺環境の変化のスピードにより、常時不安定な立場におかれる個人のアイデンティティがその安定性を保つために。

ペグ・コミュニティの捉え方

これまで述べたとおり、「ペグ・コミュニティ」は「長期の関与、譲ることのできない権利と揺るぎない義務から組み立てられる必要」のある「倫理的なコミュニティ」(=安全と等価なコミュニティ)とは全く性質の異なるものです。
形成されるモチベーションは類似していますが、両者を一緒くたに「コミュニティ」として論じることで、社会構造の変遷を誤って捉えることに留意しなければならない、ということが分かります。

個人的に、この分類から共感や共有といった価値観の再評価に至る経緯を深堀りできるのではないかと思います。
著者の定義に従えば、僕が在京時に参加していた「WE LOVE AKITA」も、同じ価値観を共有した者の集まる「ペグ・コミュニティ」の一つと言えるでしょう。
コミュニティ形成の前提には「長期の関与」などなく、「倫理的なコミュニティ」に分類するにはさすがに気が引けます。

このようなコミュニティは(著者の指摘するとおり)近年になって多数生まれているという事態になっています。
多数生まれているのは、著者の言う”都合の良さ”がその背景にあるからです。
一方、その効力としては、個人のアイデンティティを支えるのみならず、(特にローカルな)地域社会に対して、無視できないインパクトを生むに至るコミュニティも表れています。

「地元愛」や「やりがい」、「社会貢献」に関連するキーワードが大量生産・大量消費されているという状況は僕自身も昔のブログで指摘したとおりであり、「大量生産・大量消費」という言葉を用いていることからも分かるとおり、そこにはネガティブな見方が含まれています。
ところが、単に一時的・表面的な安心感や、数の権威を借りたアイデンティティの表明以上の事態が生じていることも、無視できません。
著者の言う「倫理的なコミュニティ」以外のコミュニティのあり方が、評価の対象となる時代が来ているということかもしれません。

端的な例は、「シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略からビジネスを生みだす新戦略」に読み取ることができるでしょう。
所有から利用へと価値観が移行するにつれ、「自己表現」の手段としてのコミュニティが台頭してきていますが、そこでは経済性のとらえ方が変わり、人と人とのつながりが再評価されるようになってきました。
グローバル社会では人々は関与を避けたがるようになり、リスクを個人で請け負うようになるとは著者の指摘するところですが、一部では(本当にごく一部でしょうが)その関与に注目する人々が増えてきているのです。

ペグ・コミュニティの効力については、今世の中で起きているムーブメントについても加味する必要があるでしょう。

あとがき的な

本当はこれが後編になるはずでしたが、思った以上にペグ・コミュニティへの言及に字数を割いてしまいました。
次回が(おそらく)最後になるかと思います。


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