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2012年 読んでおいてよかった本のまとめ

カテゴリ:読書の記録

2011年に比べ、2012年の読書量はだいぶ減ってしまいました。
Amazonの購入履歴やWeb本棚を見る限りでは、今年読んだ本の数は20冊ちょっと。

それでも、数少ない中で気に入った本がいろいろありましたので、5冊ほど時系列でまとめてみます。
堅い本が多いですが、じっくり読むだけ印象に残っているようです。

来年はもう少し読書量を増やしたいところですね。

1.現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

日本の社会学者では高名と聞く著者による一冊。
年末年始の帰省の際に実家の本棚を漁っていたところ発見しました。
どうも兄が購入していたもののようですね。

これが非常に面白い。
小室直樹氏の書籍を読んで市場原理というものに興味を持つようになりましたが、本書も社会学のアプローチで「情報化/消費化社会」を切り取ろうとするものであり、似たような興奮を覚えながら読むことができました。

まだ内容を咀嚼できていませんが、21世紀のあるべき姿を考える上で「資本主義からの脱却」という言葉の安易さに怪しみを覚えていた身として、本書の指摘にこそ希望があるように思えます。
どう見ても大きな流れとしてグローバル化と資本主義が浸透しているのですから、そこから目を背けるわけにはいきません。
資本主義は欠陥のある不完全なものなのか、それとも何らかの妨害があって未だ完全に機能していないものなのか。
まずはその点を整理することで、大きな方針が見えてくるのではないでしょうか。

2.ヤノマミ

ヤノマミ、それは人間という意味だ。ヤノマミはアマゾン最深部で独自の文化と風習を一万年以上守り続ける民族。シャーマンの祈祷、放埓な性、狩りへの帯同、衝撃的な出産シーン。150日に及んだ同居生活は、正に打ちのめされる体験の連続。「人間」とは何か、「文明」とは何か。我々の価値観を揺るがす剥き出しの生と死を綴ったルポルタージュ。

Amazon.co.jp: ヤノマミ: 国分 拓: 本

実際にアマゾンの奥地で暮らす民族「ヤノマミ」を追ったノンフィクション。

グローバル化が進み、「地球人としての倫理」と呼ぶべきものまでが少しずつ僕たちの生活になじんできている昨今。
僕たちが「理性的」と思っている価値観とは、全く異なる”倫理”に従う人たちの暮らしが問いかけるもの。

ヤノマミの営みを通して、僕らの当たり前をもう一度疑う。
正しい・正しくないの一元論に区別できない混沌の中に身を投じることで、「何か」が確実に僕たちの心に刻まれる。
これまで生きてきた中でも相当に不思議な読書体験となりました。

なお、著者はもともとNHKのドキュメンタリーの取材・撮影が目的でした。
その映像作品もDVDとして販売されていますが、こちらも非常におすすめです。
書籍の方も、映像では表現できない部分がまざまざと記述されています。

表現力が乏しくて恐縮ですが、とにかくすごい!の一言です。

3.日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

地元の歴史を調べるにつけ、日本史自体を学びたいと感じ、手に取った一冊。
Amazonの評価も相当高いものでしたが、高校で日本史をろくに学ばなかった私でも非常に面白く読めました。

表題に「よみなおす」とあるとおり、「日本史のジョーシキ」をひとつひとつ丁寧に整理しているのが本書です。
日本は古くから本当に農民が大多数を占めていたのか。船を用いた交流がどれだけ行われていたのか。
「士農工商」とあるように、商工業者の社会的地位が低いのはなぜか。
目からウロコとはまさにこのことで、本書を読むだけで日本史の捉え方が変わってくるように思います。

なお、著者はこれとは別に「日本社会の歴史〈上〉 (岩波新書)」をはじめとする「日本社会の歴史」シリーズを上中下巻で発表しており、こちらは時系列で日本史を追うことができます。
私は古代に特に関心を持っていたので中巻の途中で挫折していますが、日本史を一度学んだことがあるなら苦もなく読み薦められると思います。
こちらも併せておすすめです。

4.「他者」を発見する国語の授業 (大修館国語教育ライブラリー)

池袋のジュンク堂書店で購入。
国語の関連本は、近年話題になっている論理的思考力とかPISA型学力とか、そういった流行を追っている書籍が多かった中、異彩を放っていたのが本書でした。

個人的にも「言語化」という切り口で、あるいは「農村型/都市型コミュニティ」という切り口で、個人が自立し、個人と個人とで関係性を築く方法を模索しているところで、大当たりの本でした。

そもそも本というのは読み方が人それぞれ異なるものです。
そこに「他者」に触れる機会を見出すというのは至極真っ当な発想でしょう。
ところが、国語の授業の現場ではその点は軽視されている印象があります。

入試においては採点の問題から唯一の解が設定されますが、これは客観的な読みを前提として成り立っています。
これはこれで論理的に詰める力を問うものとして一定の意義がありますが、授業としての国語はもう少し可能性があっていいかもしれません。

「私」を意識するのは「私でない人たち」との出会いがその契機になるように思います。
「私」と「他者」が触れ合うことで順次境界線が引かれ、ある部分では交わったり、ある部分では対極をなす。
この繰り返しで「個人」が自覚されるというのは、「言語化」の力を鍛える上で僕自身が重要視している点と一致します。

もっと深く読み込んだ上で、来年の早いうちに書評記事を掲載できればと思っております。

5.日本文化の形成 (講談社学術文庫)

「蝦夷」とは何かを自分なりに調べる上で、一番に手にとったのが本書。
ここには宮本常一氏の真摯さと幅広い知識とが凝縮されているように感じました。

蝦夷の話についてはすでに書いた記事を見ていただくとして

僕が個人的に感銘を受けたのは、この論を書き上げた著者の力量です。
僕自身、さまざまな本を通して知識がつながり、よりいっそう理解が深められ、自分の問題意識が明確されるという経験がよくあります。
宮本常一氏のすごさはその膨大な知識量と積み重ねられたフィールドワークの知見にあります。
知識を持つだけでなく、かといって知識を軽視しない。
前提知識があるからこそ現場で得る情報量は尋常ではなく、さらにそこからアブダクションにつなげることができる。
僕自身も地元の歴史を探究していく上でも、日ごろの読書活動においても、このスタンスをとっていきたいと感じました。

「知識の蓄積はデータベースがしてくれる、人間は検索できればよい」
そんな風潮もありますが、知識と知識をつなげる根本は人間が担うものです。
それすらもコンピュータに取って代わられるのかもしれませんが、僕は人間だからできること、その能力をもっと伸ばしていきたい。
本書はそんな僕の背中を押してくれたように思います。

 

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日本文化の形成(宮本常一著)(1)-蝦夷について

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東北学 忘れられた東北 」を読み、「蝦夷」に関心を持ち始めて早2年。
宮本常一の遺稿である本書の冒頭でも、「蝦夷」が語られていました。

膨大な知識とフィールドワークによって積み重ねられた知見が織り成す独自の論考。
発想の豊かさ、自由度に驚かされるばかりです。

エミシという言葉

冒頭。

エビスという言葉がある。夷の字を書くことが多いが、蝦夷とも書いた。そして、古くはエミシとよぶことが多かったようで、蘇我蝦夷という人の名はソガノエミシとよんでいる。蘇我蝦夷は蘇我氏の氏長で大和の飛鳥のあたりにいて大きな勢力を持ち、紀元六四五年に中大兄皇子、中臣鎌足らに攻められて、その邸で自殺しているが、それまで大和地方で最も大きい勢力を持っていた。その人がどうして蝦夷と名乗っていたのであろうか。

日本文化の形成

日本史の教科書に蝦夷が初めて登場するのは恐らく坂上田村麻呂の件でしょう。
中央国家から見れば、制圧され、支配されるべき存在であった「蝦夷」という言葉を以って、蘇我入鹿の父であるほどの人物がなぜ蝦夷と名乗ったのか。

蝦夷は毛人とも書き、いずれも高貴な身分の者が名乗る例があります。
著者は、この毛人という字面から、冒頭の素朴な疑問の答えとして「毛が深かったためではないか」と言っています。
しかしながら、「毛が深い」という認識は「毛が薄い」人との接触、そして比較によってはじめて自覚されるものです。

そういうところへ、朝鮮半島を経由して多くの人々が渡来し、国土統一の上に大きな役割を果たした。朝鮮半島を経由して来た人びとはもともと貧毛の人が多かった。貧毛の人たちからすれば多毛な人はたくましく見えるであろう。毛人と書き、エミシと名乗る人たちの心の中にはそうしたたくましさへのあこがれもあったはずである。そしてその人たちは外から渡来してきた人たちではなく、もともとそこに古くから住んでいた人たちであった。

日本文化の形成

古来から日本に住んでいた人たちは毛深く、大陸から来た人たちは貧毛であった。

著者は、毛深い原住民は「狩猟や漁撈」をその主な生活手段としていたと書いています。
その点で、縄文文化時代においては、北海道・東北は西南日本と比較して食料が豊富であり、人口密度も高く、文化的に優れていたと推測しています。

エミシとは誰か、そして、誰でないのか

ところが、大和の地に国家が成立するにつれて、原住民は異端視されることとなりました。
七二〇年に完成した日本書紀には、「東夷の中に、蝦夷是れ尤だ強し。」と始まって、東国から東北にかけ、身体能力が高く、農耕に従わず、狩猟に従事する人びとが存在し、いかに野蛮であるかが描かれています。

といっても、これに留まらず、蝦夷は東北に限らず西南日本にもいたようであることが指摘されています。
その根拠を著者は「古事記」や「日本書紀」に求めます。

登場するのは、あの「恵比寿様」です。

(中略)このコトシロヌシを、後世の人はエビス神としてまつっている。とくにこれをまつっているのは、古くは漁民仲間が多い。そして漁民たちは日本の沿岸に多数住みすいており、漁民もまたエビスであった。

日本文化の形成

コトシロヌシはもともと出雲の地にいたのが高天原から下ってきた二人の神に国をゆずったという「日本書紀」の記述や、狩猟民から神としてまつられていたことから、エビスは狩猟を生業とする日本古来の原住民を指すのではないか。
地理的な問題で日本列島を統一した大和の国家と接触する機会に乏しい東北の原住民たちは、国家からはいつまでたっても「エビス」のままであって、いつしか「エビス」は未開を意味することとなった。

そう著者は指摘しています。

また、「日本書紀」「風土記」では、土蜘蛛や海人(あま)と呼ばれた人々が描かれており、彼らは関東以西にあって漁撈や狩猟を生業とするものたちでした。
彼らもまた縄文文化の伝統を受け継ぐものではないかと指摘しています。

以上のように、蝦夷とはもともと縄文期から日本にいた人たちであって、統一国家が形成されてなおその文化の影響を受けず、縄文期以来の文化を継続させていた人たちのことであるというのが著者の主張するところでありました。
関東以西にいた土蜘蛛や海人たちは徐々に大陸文化を取り込んだ統一国家に支配され、彼らの生活は大きく変わったものと思われます。
一方、北海道・東北にいた蝦夷たちは、西南日本で形成された統一国家との地理的な関係性の結果によって、つまり原住民とは異なる文化を持つ人たちの繁栄によってはじめて異端視されることとなったのです。

 

では、縄文期から住んでいた毛深い人を野蛮であると書きたてた国家のルーツとはなんなのでしょうか。

これについては次の記事でまとめたいと思います。

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「生活保障-排除しない社会へ」に見る、これからの日本のヒント

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一年以上前に購入したものの、なんとなく消化不良のままだった本書。
最近改めて読み直してみたので、ここにまとめてみたいと思います。

生活保障=雇用+社会保障

まずはじめに、「生活保障」とは「生活保護」とイコールではありません。
著者の宮本太郎氏は、生活保障を「雇用」と「社会保障」の組合せの上に成立するものとしています。

本書の中では、雇用をロープ、社会保障をセーフティネットとして綱渡りのように例えていましたね。
基本的にはみなロープをたどって先を行くわけですが、時にはロープが切れたり、誤って落ちてしまうこともありえます。
そんなときは、(もう一度ロープに戻るためにも)セーフティネットに一旦受け止めてもらう必要がある、というわけですね。

これだけだと何のことかあまりよく分からないかもですね。
概念的なところを理解するために、このたとえを用いて各国の生活保障を表現すると次のようになるかなと。

・日本:「一本のロープで全部まかなえばいいじゃん!

日本の雇用慣行として、一つの企業にずっと雇われる終身雇用がベースとしてあります。
また、その対象となるのは基本的に男性で、女性は被扶養者として家族ごと男性の収入に支えられるモデルとなっていました。
つまり、「しっかりしたロープを一本用意すれば家族も含めてみんなゴールまで行けるでしょ?」という発想だったわけです。

ところが、ご存知の通り「しっかりしたロープ」自体が稀有になりつつあります。
ロープが突然切れたり、もともとロープの長さが決まっていたり、渡り切るには細すぎたり。
そんなロープが増えると当然ながらアクシデントでロープから落ちる人も出てくるわけです。

しかしながら、これまでの日本の発想においてはロープから落ちる(あるいは降りる)人のことは想定していません。
(つまり以前からシングルマザーの存在は日本の制度設計の構想外だったわけです)
当然ですよね。しっかりしたロープを張っていれば大丈夫と思っていたわけですから。

・スウェーデン:「古いロープはすぐ切れるから、新しいロープをどんどん張ってこうぜ。

対してスウェーデンはどうなっているかというと、スウェーデンは雇用保護法制が強い。
つまり、簡単には辞めさせられない仕組みになっていますが、一方で労組は個別の労使関係を保護するよりも積極的労働市場政策の下で雇用を流動化させながら完全雇用の実現を目指しています。

この考え方のベースになっているのは「就労原則」という言葉。
スウェーデンでは「皆が働くべき」という価値観が非常に強い。
じゃあどうやってその思想を実現しているかというと、「ハイロードアプローチ」という戦略がその答えです。
つまり、生産性の低い斜陽産業を守ることで雇用を保護するのでなく、失業者も高付加価値産業にどんどんシフトさせ、同時に労働市場外で職業訓練等スキルアップの機会を用意するわけです。

古いロープを修繕するのではなく、新しいロープをどんどん張っていく。
そして新しいロープをみなが掴めるようにセーフティネットのトランポリン(失業者を労働者に戻す)機能を強化する。
日本とはずいぶん異なるアプローチであることがお分かりかと思います。

ところが、高付加価値産業はそもそも雇用収容性が低い(たくさんの人を雇う必要がない)。
それによって徐々に新しいロープにありつけない失業者が増えてきているという問題も出てきています。

デンマーク:「とにかくみんなロープを渡ろうぜ。たとえロープから落ちたとしても何とかするぜ。

デンマークといえば「フレキシキュリティ」という言葉で知られるとおり、労働市場の柔軟性を担保しつつ社会保障を組み合わせた体制によって失業の抑制を試みています。
デンマークは同じ北欧であるスウェーデンと異なり、雇用保護法制は弱い。
その分労働市場が柔軟であり、かつ積極的労働市場政策に基づいて職業訓練プログラムが多数用意され、しかも長期にわたる失業手当がある。
デンマークの労働市場は辞めやすい(し辞めさせやすい)、流動的な環境になっています。
そのため、転職率も非常に高い(年間に労働者の3分の1が転職)。日本とは世界が違う感じがしますね。

スウェーデンと異なるのは、労働力を生産性の高い部門へ誘導していないこと。
労働力の動向は市場に委ねられているのです。

セーフティネット(失業手当と職業訓練)の充実によってロープから落ちることが怖くないという状態を作れれば、確かにロープを渡る恐怖は和らぐでしょう。
雇用のみでなく、社会保障も含めて生活の保障を図るので高負担・高福祉型の社会にならざるを得ませんが、中小企業の多いデンマークにおいては雇用に頼ることの限界が早くから認識されていたのかもしれません。

 

このような比較の仕方ではどうしても日本が見劣りしてしまいますね。
著者も、これまでの日本の「殻の保障(雇用自体を保障)」から北欧型の「翼の保障(労働市場の流動化を前提に新しい雇用への道を切り開く)」への転換を主張しています。

重要なのは、雇用だけで生活を保障することの限界が指摘されている点です。
社会全体でセーフティネットの充実を図らなければ、失業者どころか、被雇用者すらも安心して働くことができない社会がじわじわと到来していることを認識するべきでしょう。

新しい生活保障の4つの観点

 本書の第4章にて、著者は新しい生活保障には以下の4つの視点が必要だと述べています。

柔軟性
男性が稼ぐという従来の日本型雇用は限界を迎えています。
家族構成を見ても核家族化が進み、ひとり親世帯数も昔の比ではありません。
ライフスタイルが多様化する中、一通りのレールを用意するのではなく、各自の状況に柔軟に対応した制度が求められます。

就労を軸とした社会参加の拡大
ここが著者の面白いところで、人は雇用によって「生きる糧」を得るだけでは生きていけない。
他の人とつながり、承認される「生きる場」 もまた必要である、という立場をとっています。
当然ながら、働くことを通じて人は社会参加を果たすことができます。
そのためにも働けない人をサポートする職業訓練や職業紹介、さらには保育サービスなどといった制度の充実が求められます。
また、仕事の人間関係だけで閉じないためにも、地域の自治活動やNPO,ボランティア活動への参加を促す方向も意識するべきでしょう。
実際、このような考え方はソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)と呼ばれ、ヨーロッパでは広く注目されています。

補完的保障
雇用の二極化が進み、すべての人が仕事を通じて大きな見返り(つまり、所得)を期待することが難しくなっています。
その問題は例えば日本においても「ワーキングプア」という形で露呈しています。
最低賃金の引き上げや均等待遇の徹底は当然のことながら、勤労所得以外にも公的な保障を組み合わせることで生活を維持できる状況をつくるが求められるでしょう。

合意可能性
生活保障は広く国民の合意を得られるものでなければなりません。
というのは非常に当たり前のことに聞こえますが、個人化・流動化が進み、人々が個別具体的な課題を抱えている昨今においては、大多数による合意形成は非常に難しくなっています
実際、「格差」問題が叫ばれる中でも、日本の社会保障改革は一向に進まず、むしろ社会保障の引き下げを望む声も大きくなっています。
これは、「格差」の問題が我が事でない人たちが大多数を占めているからです。
(おいおいは自分たちの問題になりうることには気づかずに)

このような状況では政治もポピュリズムに陥りやすくなります。
公務員は日本人の共通の敵としやすく、そのため国家公務員の給与が引き下げられました。
それによって一体誰がハッピーになるのか、浮いたお金でどうするかはさほど問題でなく、敵を引き摺り下ろすことが第一というわけです。

こんな状況で合意形成は非常に難しい。だからこそ合意可能性が問題に挙がるわけです。
そのためにも公正で透明度の高い制度設計が求められるでしょう。

アクティベーションという考え方

 上記4条件を満たすものとして、本書では「アクティベーション」という考え方が紹介されています。

社会保障の目的として、人々の就労や社会参加を実現し継続させることを前面に掲げ、また、就労および積極的な求職活動を、社会保障給付の条件としていこうとする発想である。スウェーデン型生活保障や、イギリス労働党が掲げた「第三の道」がこの議論の系譜に属する。

※太字は引用者による

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

「就労及び積極的な求職活動を、社会保障給付の条件としていこうとする」とはどういうことでしょうか。
具体的には、失業者に対して無条件にではなく、職業訓練を受けることを条件として失業給付による所得保障がなされる、といった具合です。

アクティベーションは、人々がその生涯でさまざまなタイミングで働き始めたり退職したりすることを前提に、就労と社会参加の支援をする。その限りで柔軟な、つまり多様なライフスタイルに対応した生活保障である。また、就労を軸とした参加の拡大については、これこそがアクティベーションの目的であり、職業訓練や教育などに政策の重点が置かれる。
(中略)
さらにアクティベーションは、就労を奨励するために、労働市場の見返りを高める所得保障改革も重視する。たとえば、スウェーデンの社会保険給付が現行所得に強く比例するかたちになっているのはその一例で、所得比例給付は就労意欲を高め た。
(中略)
さらにアクティベーションは、合意可能性の高い生活保障であると言える。なぜならば、「ただ乗り」の可能性があるベーシックインカム型の生活保障に賛同しない人々も、「自助の公助」という観点から就労を支援することには支持をよせるからである。

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

著者はアクティベーションについて4条件に照らし合わせてこのような評価をしています。
では、雇用と社会保障をより密接に連携させた「生活保障」のモデルを見てみましょう。
本書では雇用と直接関わる政策領域に限定し、機能別に4領域にまとめています。

Ⅰ.参加支援…生涯教育、高等教育、職業訓練、保育サービスなど
Ⅱ.働く見返り強化…最低賃金制度、均等待遇、給付付き税額控除など
Ⅲ.持続可能な雇用創出…新産業分野・「第6次産業」、公共事業改革など
Ⅳ.雇用労働の時間短縮・一次休職…ワークシェアリング、ワークライフバランスなど

さらにこのⅠ.参加支援については労働市場のライフステージが、教育、家族、失業、体とこころのよわまり・退職の4つのライフステージとそれぞれ接続され、状況に応じて行き来できるべき、と著者は主張します。

実際のところ、日本の現状は労働市場から他のライフステージに移るのが一方通行になっています。
教育過程が終われば就職するのが当たり前で、卒業後スキルアップのために大学に入り直すにも基本的に本人の努力次第です。
女性の場合は結婚・出産によって労働市場から一旦外れると、ブランクを経て正社員として戻るのは難しい。

この提案にこそ日本の構造的欠陥が見え隠れしています。
日本の雇用と社会保障の課題は、個人化・流動化する現代と既存の社会構造との歪みがもたらしたものです。
成長ではなく、目まぐるしい変化を前提にした「生活保障」を考えるためには、これまでの常識を一新しなければなりません。
「アクティベーション」はそのための手がかりとなるはずです。

まとめ

日本の労働市場は硬直化しており、結婚や出産、あるいは病気などで仕事から一旦離れてしまうと、その後もう一度仕事に就くということが難しくなっている。
日本社会自体も個人化・流動化が進み、これまでの男性稼ぎ主モデルの成立条件が整わず、さらにはそのモデルに当てはまらないひとり親世帯の貧困率はOECD諸国の中でも高い。
様々なライフスタイルに対応するためには、労働市場を流動化し、辞めやすく、かつ再就職しやすい環境整備が求められる。
そのためにも「辞めても安心」な法制度が必要で、失業給付や職業訓練などがそれに当たる。

同時に、今現在働いている人自身の所得もまた保障される必要がある。
ワーキングプアの問題は企業努力のみならず、均等待遇や最低賃金向上といった法制度によるアプローチも必要だ。

今働く人たちはそれなりの見返りを保障され、「辞めても安心」で、働く意思のある人にはきちんと手を差し伸べる。
当たり前のことなのかもしれませんが、それができていないのが今の日本です。
個人でも、企業でも、自治体でも、労組でも、国でも、どんな単位でも良い。
できることをそれぞれが探していかなければならない時代がすでに到来していることを改めて感じた次第です。

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