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「地元学からの出発 」の暖かな眼差しに学ぶ

カテゴリ:読書の記録


著者の結城登美雄先生の話は2度拝聴したことがあります。

1度目は2009年早稲田祭での「降りてゆく生き方」の上映会。
同映画プロデューサーの森田さん、上映会主催者で高校・大学の同級生のたくとの対談で、一つ一つの言葉を丁寧に発する結城先生の姿は印象的でした。

2度目は秋田県庁の事業「元気ムラ」のスタートアップイベントでの記念講演。
「自然は寂しい。しかし、人の手が加わると暖かくなる。」という宮本常一の言葉と共に紹介された、棚田を細々と営みつづけている老夫婦の感動的なエピソードは、今も心に残っています。

地域に根ざし暮らす人々に寄り添い、地域にあるものを見つめなおす。

NHK仙台制作のドラマ「おこめのなみだ」のモデルとなった「鳴子の米プロジェクト」など、いわゆる「地域活性化」の施策とはどこか違う、地に足の着いた取り組みを数多く実践されてきた結城先生。雑誌等に寄稿された結城先生の文章が集約されているのが本書「地元学からの出発―この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける 」です。

地元学とは

冒頭から長めに引用。

私は近頃つくづく思うのだが、自分でそれをやろうとしない人間が考えた計画や事業は、たとえそれがどれほどまとこしやかで立派に見えても、暮らしの現場を説得することはできないのではないか。そんな気がしている。そして反対に、たとえ考え方は未熟で計画は手落ちが多くても、そうしようと決めた人々の行動には人を納得させるものがある。為そうとする人びとが為すのであって、そうしようと思わない人びとが何人徒党を組んでも、現実と現場は変わらないのではなかろうか。

地域とはさまざまな思いや考え方、そして多様な生き方と喜怒哀楽を抱える人びとの集まりである。しかし誰もが心のどこかでわが暮らし、わが地域をよくしたいと思っている。だが、その思いや考えを出し合う場がほとんど失われてしまっているのも地域の現実である。

「地元学」とは、そうした異なる人びとの、それぞれの思いや考えを持ち寄る場をつくることを第一のテーマとする。理念の正当性を主張し、押しつけるのではなく、たとえわずらわしくとも、ぐずぐずとさまざまな人びとと考え方につき合うのである。暮らしの現場は一気に変わることはない。ぐずぐずと変わっていくのである。

地元学は理念や抽象の学ではない。地元の暮らしに寄り添う具体の学である。(P.14)

結城登美雄「地元学からの出発―この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける

“暮らしの現場は一気に変わることはない。ぐずぐずと変わっていくのである。”

地域とは人びとの集まり、暮らしの集まりであり、利益や観光客数といった量的な指標でその変化を正確に測れるものではないということに反論する人はまずいないでしょう。
たった数年の「事業」で地域を変えるという発想が思った以上に穴だらけであったこと、”暮らし”というものが粗雑に扱われてきたことの反省がここにあります。
この引用部から、”暮らしの豊かさ”とは何かを真摯に考えた結果として必然的に「地元学」の発想が生まれたということが感じられます。

何かを「変えたい」と思うとき、その変化を目で追い評価することができなければ、たいていの人は不安を覚えます。
「地域」を変えるということは、人びとや暮らし、風土といったものが長い時間をかけて変わることでようやく達成されるもの。
長期的な視野で、複雑に絡み合う要素それぞれに目を配りながら、ぐずぐずと地域が行きつ戻りつしながら歩む姿を見つめる地元学。
そのじれったいプロセスに我慢しきれず、測りやすい指標に頼ってしまった過去を繰り返さないためには、地元学の眼差しから得るべき気付きは少なくありません。

本書では「よい地域」であることの7つの条件が紹介されています。

①よい仕事の場をつくること。
②よい居住環境を整えること。
③よい文化をつくり共有すること。
④よい学びの場をつくること。
⑤よい仲間がいること。
⑥よい自然と風土を大切にすること。
⑦よい行政があること。(P.19)

結城登美雄「地元学からの出発―この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける

地元学の実践

結城先生の取り組みは多岐に渡りますが、本書に掲載されている事例すべてに共通していると感じたのは「暮らし」の観点でした。

食と暮らし、農と暮らし、仕事と暮らし。新しいモノや最新の学問に頼ることなく、その地域にあるもの、人びとの暮らしを見つめることから始める地元学。

自給の畑や山の恵みで素材を生産し(第一次)、それを加工・保存・調理し(第二次)、家族が喜ぶ演出や心遣いを工夫して食事を楽しむ(第三次)。家庭の食卓は生産から消費までの、小さいけれども総合である。(P.155)

結城登美雄「地元学からの出発―この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける

この視点を頭の片隅に置きながら本書を読み進めると、著者のゆるぎない一貫性に感動すら覚えます。

山形県真室町の事例では、地域の伝承文化と暮らしの中に残る食を結びつけたステキな実践が垣間見えます。
それぞれの家庭の味を、一つ一つにこめられた思いやエピソードと共に持ち寄り、味わいあう「食の文化祭」。
後継者不足に悩む民俗芸能「番楽」を地域の食と共に楽しむ冬の祭、「釜渕行灯番楽」。
テーマを決めて伝統の食を集め、さかのぼり、そこから地域の「あがらしゃれ(=どうぞ召し上がれ)」の「器」づくりまで発展した「食べ事会」。

「ないものねだりから、あるもの探しへ」

当事者は地域の住民。
彼らが主体的に事を動かすきっかけづくりとして、彼らの文脈に共通してあるもの=地域資源を活用する。
地域の暮らしに根付いた言葉、食、道具、祭。新しいものを求めるのではなく、地域の中に目を向ける。
そこに暮らす者自身が「為そうとする人」となるために、これほど身近なツールはないかもしれません。

地元学から出発することで、既存のパラダイムを捉えなおすことができることも注目すべき点です。
「鳴子の米プロジェクト」では、農業政策という大きなパラダイムの下で見捨てられた小作農が立ち上がりました。
分業が進み、単一の職業で飯を食うのが当たり前になった今、百姓というあり方や「つくり、加工し、楽しむ」プロセスを地域の暮らしにもう一度取り入れることで、農と地域をつなぐ試み。
スタートは、自らの、そして地域の「豊かさ」を見つめなおすところから。

既存の指標の限界が指摘される中、この21世紀において、「地元学」が答えとなるかまではわかりませんが、間違いなく重要な示唆を与えてくれる。本書を読みながらそんな期待を持たないわけにはいきませんでした。

個人的な問題意識

結城先生の地域に対する眼差しは優しい、と書きましたが、日本の「農村型コミュニティ」が持つ「わずらわしさ」へ馴染むことに挫折した僕としては、その優しさをまっすぐ受け入れることができませんでした。

「よい地域」であることの7つの条件が紹介されていましたが、つまり、「悪い地域」も存在する、とついつい読み取ってしまいます。
よい地域「である」ことと、よい地域「になる」こととはまた別。

あらゆる地域が「よい地域」になれるのか。限られた「よい地域」をできるだけ早く見つけ、地元学の手法を吹き込むのか。
結城先生の意図は、やはり聞いてみたいところです。


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新卒の就職活動に成功する人・失敗する人の唯一の違い

カテゴリ:読書の記録


今日、なんとなく読んでみた「はたらきたい。」が強烈に面白かった。
2008年3月に出版されたみたいだが、リーマンショック以後であっても魅力的な内容だと思う。

なぜか。
僕が就職活動や採用に関わったことを通してなんとなく見えてきたような気がした、 「就職活動がうまくいく人といかない人の違い」 の見分け方を、あっさりと言葉で言い表されたように感じたからだ。

「大切にしてきたことは、何ですか?」

この本は、5つの対談がメインとなっている。
僕の中で特に印象に残ったのは、一つ目と二つ目の対談だった。
一つ目、糸井重里氏と人材紹介会社の河野晴樹氏の対談にて。

河野氏がこう語る。

ですから、本当のことを言っちゃうと、新卒の面接をやる場合、「君がさ、これまで大切にしてきたことって何?」という、ものすごく概念的な質問で十分なんですよ。

糸井氏の返しがまた面白い。

いや、つまり、面接官がそう思ってるんだって知ったとき、「聞いてもらえた!」といううれしさと、「やばい、聞かれた!」というあせりと、どっちかの反応しか、ないですよね。

これだ!と思った。
新卒で就職活動に成功する人、失敗する人を分けるのは、きっとこの違いだけなんだ、と

ここからは僕の考え。
「大切にしてきたこと」は、モノでもいいし、具体的なことでもいいし、ポリシーでもいい。
そこに、ある種の一貫性のようなものが伴えばいいのかな、と僕は感じた。

「大切にしてきたこと」像をもう少し具体的にすると、以下の要素を含んでいるように思う。

他人に言えることか

「言える」というのは、「恥ずかしくて言えない」というのとはちょっと違う。
「人様に伝えて”問題ない”ことか」というくらいの意味だ。
たとえば、「毎晩家族にきちんとメールする」ことを大切にしているなんて他人に言うのは気恥ずかしいが、
「家族想い」と共感を得られるかもしれない。これは「言える」。

しかし「いかに自分ではなく、他人のせいにして事を逃れるか」を大切にしてきていると誰かに伝えたとしても、それを聞いていい反応が返ってくるとはあまり思えない。
問題ある発言だ。

※2010/12/05追記
単に、「言い方」が問題となるときもある。
価値観の話なのだから、絶対的に悪ということはあまりないからだ。逆に言えば、絶対的に善ということもまたない。

どんなにいい話でも、必ず共感を得られるとは限らない。
しかし、それが故に自分の「大切にしてきたこと」を人に伝えることに抵抗を覚える人がいる。
否定されたり、受け入れられなかったりしたときのことを危惧して。 これは、残念なことだと思う。

そう不安がる人へのアドバイスはおそらく2パターンある。
まずは表現の仕方を変えてみるということ。
相手に伝わるように言葉を選ぶ。別の言葉で言い換えてみる。
自分の大切にしてきたことのいい面、悪い面を整理してみるとよい。

もう一つは、他人の価値観を受け止めるようにするということ。
別に全肯定しろと言うわけではない。あるがまま受け止める。
その発想がないから、他人が自分の価値観を受け止めてくれるイメージも湧かないのかな、と思う。
そのためには、相手の価値観に対して中立な立場から、いい面、悪い面を抽出する必要がある。
相手の第一印象がよかったら、あえて悪い面に着目する。
逆に印象が悪かったら、あえていい面を強調しようとしてみる。
自分に偏りがあることを自覚し、それでも相手の価値観をまずは整理してみること。
自分が大切にしてきたことも、同じように整理してみるといい。

言っていることとこれまでやってきたことが矛盾していないか

言動が一致していないのなら、どうしても「大切さ」を疑ってしまいたくなる。
どちらかというと、「言葉」よりも、「行動」や「感情」が先立つのではないかと思う。
その後から「言葉」がついてくる。なんとか説明しようと試みる。そんなイメージ。
これが「一貫性」にもつながってくる。

間違っても「私はワークライフバランスが大切だと…」なんて発言はしないはずだ (ちゃんと腑に落ちているのなら別です)。
もはや自分の言葉で説明するしかないのだ。
「大切なこと」を、どこかから借りてきた言葉で ちぐはぐに表現してしまうなんて、大切にしている本人が最も耐えられないのだから。
就活でついついテクニカルな話題に振り回されている人も多くいるみたいだけれど、 「インディペンデントでいられるか」という糸井氏の表現があるが、 「大切にしてきたもの」があれば、それもきっとたやすい事なんじゃないかと思う。

仕事で大切なこと-「幹事のできる人」-

二つ目の対談は、漫画家のしりあがり寿氏と糸井氏。

しりあがり氏は「うちで重用するのは『幹事のできる人』」と話している。
これがまた深い言葉なんじゃないかと感じている。

ここからはまた僕の考えだが、『幹事のできる人』の要素はいくらでも挙げられる。
「いくらでも挙げられる」のがポイントなんじゃないかと思う。

・念入りな準備にエネルギーを割ける
・シナリオどおり、タイムスケジュールどおりに進行できる
・周りに助けてもらえる
・他人を動かすことができる
・参加者の”ツボ”がなんとなく分かる
・失敗しても許される
・一人で盛り上げることができる
・他人を生かして盛り上げることができる
・予想外の事態でもきちんとリカバリーできる

などなど。

これらすべての要素を持っている人はあまりいない。
でも、幹事をうまくやる人はすべからく、 自分自身の何らかの特徴を上手に生かして成功させるということをしているはずだ。
逆に言えば、「幹事をうまくやる」ためのアプローチは一通りではない。様々なアプローチが可能だ。

ここだ。ここにこそ着目すべきではないか。

仕事のやり方は一通りではない。適性なんてやってみないとわからない。
自分で自分が何に向いているか分からなくても、上司や先輩にはたぶん見えている。
彼らを信じ、彼らに従うことがやっぱり正しいのかもしれない。
それが思った以上に面白いなんてことだってたくさんあるはずだ。

就職する前から経験したこともない業種や職種に強い志望を持っている人がいるが、 僕からしたら、それはものすごく不思議なことだった。
(大学で言語を学んでエンジニアになりたい!というのはもちろん別)
やってみなければわからない。 だから、志望動機なんて考える暇があったら、「大切にしてきたこと」を掘り下げたほうがいい。
志望動機が「考えるもの」とも思えない。文章化する作業は必要だとしても。

というわけで激しくおすすめ

こう自分の意見を書いてしまうと、あまりこの本のよさが伝わらなかったかもしれない。

この本のいいところは、対談形式だから、きれいにまとまった言葉があまりないことだ。
だから、こうやって僕も自分の言葉で自由に説明したくなってしまう。
読んだ人それぞれの琴線に触れてくる言葉がいくつかあるはずで、 それは不思議と書かれた言葉以上のボリュームを帯びて自分の中に入ってくる。
この本を読んで救われる就職活動生も多いのではないか。
むしろ、この本を読んでもどうとも思わない人ほど行く末が不安だ。
(それは、すでにハイパーメリトクラシーでの勝負が決していることを意味する)

もちろん、勘違いしてはいけない。この本には、答えなんか書いていないんだから。


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