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「資本主義から市民主義へ」の読後メモ(前編)

カテゴリ:読書の記録


同著者の「ヴェニスの商人の資本論 」を読んでから気になっていた本書。
この年末年始にかけてようやく読破しました。

本書の議論を自分なりに引き受けて論ずる力がないので、
とりあえずの読後メモとして記事を残しておきたいと思います。

本書は岩井克人氏へ三浦雅士氏がインタビューする形式で進められており、
文体としては読みやすく、しかし拡散する話題を追うには幅広い教養が求められる、
という初心者にとって易しいのかどうかよくわからない仕上がりになっています。

僕のように一般教養が欠如している人間にとっては、
わからない知識は一旦保留して読み飛ばし、わかりそうな部分だけ拾っていくのが良さそうです。

「資本主義」の原則と三つの形態

本書はそのタイトル通り、岩井氏が自身の資本主義と貨幣の探究を法人論に展開させ、
ついには市民主義なるものへの言及に着手するまでの経緯を紹介しています。

ではそもそも本書で語られるところの資本主義とは何か。
これは「ヴェニスの商人の資本論」から紹介した方が早いでしょう。

資本の絶えざる自己増殖、それが資本主義の絶対的な目的にほかならない。蓄積のためにはもちろん利潤が必要だ。だが、この利潤は一体どこから生まれてくるのか。(中略)
利潤は資本が二つの価値体系の間の差異を仲介することから創り出される。利潤はすなわち差異から生まれる。
しかしながら、遠隔地貿易の拡大発展は地域間の価格体系の差異を縮め、商業資本そのものの存立基盤を切り崩す。産業資本の規模拡大と、それに伴う過剰労働人口の相対的な減少は、労働力の価値と労働生産物の価値との差異を縮め、産業資本そのものの存立基盤を切り崩す。差異を搾取するとは、すなわち差異そのものを解消することなのである。

ヴェニスの商人の資本論

これを前提にしつつ、資本主義が利潤を生みだす仕組みについて、
本書では「商人資本主義」、「産業資本主義」、「ポスト産業資本主義」という区別をつけています。

「商人資本主義」は「重商主義」と同一視できます。
「地理的に離れた二つの土地の価値体系のあいだの差異性を利潤に転化する経済活動」である遠隔地貿易がその代表です。
コショウがインドとヨーロッパとで価値が異なるからこそ貿易によって利潤を生み出すことができる、というわけです。

「産業資本主義」は国民国家の成立と並行して発生しました。
国民国家の成立とは、(遠隔地貿易のような異なる価値体系を自国―他国間に求めるのでなく)
自国内に共存している異なる価値体系―都市と農村―をベースに自国内で利潤を生み出すシステムの成立に等しい。
農村から都市へと賃金を安くおさえられる労働者が集まれば、それだけ利潤を上げることは容易になります。
日本でいえば高度経済成長期までがこの構造に当てはまります。
いわゆる「金の卵」というやつですね。賃金の安い労働者を雇って経済活動すればそれだけで利潤が上がる。

カール・マルクスは著書『資本論』の中で「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」として「資本主義」と定義した。

資本主義 – Wikipedia

本書に従えば、カール・マルクスの「資本主義」の定義は「産業資本主義」の範囲でしかない、ということがわかります。

ところが、日本全体が豊かになると、都市と農村の価値体系の差異性が解消されていきます。
利潤を求める資本主義が次に要求したのは、高度情報化とグローバル化でした。
つまり「イノベーション」と呼ばれるような商品やサービスそのものの差異性の追求、
そして賃金の安い労働者を国外に求める流れにつながるわけです。
このような特徴を持つ経済の形態について岩井氏は「ポスト産業資本主義」と呼んでいます。

岩井 (中略)ただ、流れと言っても、これを歴史的発展法則と見なすと間違えます。後戻りもあるし、共存もある。ポスト産業資本主義というのは商人資本主義への意識的な先祖返りと見なすこともできますし、また現代のグローバル化のなかでは、先進資本主義国におけるポスト産業資本主義と途上国における産業資本主義が共存している。その意味で、商人資本主義、産業資本主義、ポスト産業資本主義とは、資本主義の三つの基本的な形態であると理解した方が正しい。

資本主義から市民主義へ

貨幣から読み解く、資本主義が抱える不安定性

岩井 (中略)ぼくの『不均衡動学の理論』の基本テーゼとは、資本主義経済とは本来的に不安定的なシステムであり、それがまがりなりにもなんらかの安定性をもっているのは、そのなかに市場原理にしたがわない制度や機関が存在しているからだということです。アダム・スミスは夜警国家を理想としたけれど、それとは逆に、不均衡動学はそうした固い石のような異物が資本主義には必要だということを主張する。

資本主義から市民主義へ

岩井氏は資本主義経済が不安定であるということを前提に話を進めています。
そのためには岩井氏の「貨幣論」をまず押さえる必要がありそうです。

岩井 僕は、しかし、生産や消費こそ本源的な経済活動であり、金融活動をそのたんなる派生と見なすこのような伝統的な考え方こそ、経済の本質を見損なっていると考えています。なぜならば、実体経済の根源にまさにデリバティブがあるからです。それは、もちろん、「貨幣」のことです。貨幣とはまさに元祖デリバティブつまり「派生物」なんです。貨幣そのものにはなんの実体的な価値もない。それは実体的なモノを買うためのたんなる手段でしかないのです。貨幣をもつことは、実体的なモノを手に入れるための派生的な活動にすぎない。だが、いうまでもなく、その貨幣の存在によって、生産や消費といった実体的な経済活動が可能になっている。貨幣がなければ資本主義経済など存在しえない。その意味で、資本主義経済とはまさにデリバティブによって支えられていることになる。

資本主義から市民主義へ

岩井 (中略)貨幣がない世界であったら、マルセル・モースの描いた贈与論の世界のように、基本的にはお互いに顔の見知った共同体の中だけでしか交換が可能でない。だが、貨幣が存在していれば、それを媒介にして、お互いに顔を知らなくても、性別、年齢、宗教、民族を問わず、いわば抽象的な意味での人間としてお互いに交換が可能となるわけです。

資本主義から市民主義へ

貨幣という物理的実体のないものが、社会的実体を持って資本主義経済を可能としている。

岩井 (中略)貨幣とは、金や銀のかたちをもとうと、紙切れでつくられていようと、それをすべての人が貨幣として使うから貨幣として使われるという自己循環論法によってその価値が支えられているのです。
(※下線部は引用者による)

資本主義から市民主義へ

貨幣の捉え方はアクロバティックで面白いです。
貨幣とは、何の根拠も持たないもの。
単にみな使うから貨幣である、つまりデ・ファクト・スタンダードでしかない。

したがって、貨幣が貨幣でなくなることも当然ありえるはずです。
貨幣の自己循環論法の崩壊と同時に、資本主義は本質的なクライシスを迎えます。
つまり、ハイパーインフレーションです。
貨幣として使われなくなった貨幣で物の売り買い(特に買い)ができなくなる。
そういう根源的なリスクを抱えているのが資本主義というシステムになるわけです。

貨幣自体がデリバティブであること。
貨幣による投資効率の向上によって発展した資本主義が、同時に貨幣の投機的性質も同時に受け入れたこと。
貨幣によって「売り」と「買い」が分離してしまい、「売り手」がいるのに「買い手」がいない恐慌、「買い手」がいるのに「売り手」がいないハイパーインフレーションといった、根源的な不安定性を抱え込んでしまったこと。

こうして、貨幣を通して資本主義の不安定性の存在を垣間見ることができる、というわけです。


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【書評】「里山資本主義」は日本の田舎への最後通告か

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話題の本書。
いまさら読んでみましたが、どことなく後味の悪さがありました。

いや、希望は確かにあって、実際わくわくする話ばかりでした。
しかし我に返ると、本書からはもっと深刻なメッセージが読み取れるのではないかと思ったのです。

「里山資本主義」という名の「資本主義」

まず第一に、「里山資本主義」という言葉。

現在の行き過ぎたマッチョさを批判する「マネー資本主義」のカウンターとしての「里山資本主義」。
しかし、このタームもまた「資本主義」の一形態であるということを忘れてはいけません。

つまり、「マネー資本主義」であろうが「里山資本主義」であろうが、
現代社会の根底にあるのは資本主義だという点においては変わりないということ。

本書を読んだ方なら誰でも気づくことではありますが、
「資本主義」の原理を”正しく”扱う作法を「里山資本主義」と換言していると言っていいでしょう。

「里山資本主義」の神髄

「誰かが『廃棄物をうまくリサイクルしてどうのこうの』と言ったら、いつも叱りあっていた。『廃棄物じゃない、副産物だ』って。全部価値のあるものだって、話し合ったものです。それでも当時はまだ、木くずは副産物だという感覚だったけど、今はさらに進んで、副産物ですらなくて、全部製品なんだと。まるごと木を使おうと。まるごと木を使わないと地域は生き残れないと考えたんです」

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く

こういった発想の中に「里山資本主義」の神髄が隠されています。
つまり、「無価値」であったものを「価値」に変えよう、と。
価値基準を更新し、各ステークホルダーの利益となるモデルを作り出そうと。

シンプルに言えば、これぞまさにイノベーションです。
字面にするとわかりきったことに聞こえますが、改めて「イノベーション」の裾野の広さを考えさせられます。
旧来の考え方による「無価値」というレッテルに疑問を持てるか。
一見価値がないと見えても、そこから「市場」に評価されるモノ、小さくても確かな循環を作り出せるモノを生み出せるか。

逆転の発想で捉えれば、役に立たないと思っていたものも宝物となり、何もないと思っていた地域は、宝物があふれる場所となる。

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く

その点、地域にはイノベーションの種がごろごろ転がっていると見ることができます。
裏を返せば、「無価値」は放置しておけばいつまでたっても「無価値」のままである、ということでもあるのですが。

岩井克人の言葉を借りるならば、イノベーションとは「差異」を生み出す手法です。
これまでの価値体系とは異なる価値体系を生み出し、その二者間の差異を源泉に「利潤」が生まれる。
「里山資本主義」は資本主義の原理原則に従え、というメッセージに思えてなりません。

「里山資本主義」が突きつける最後通告

今、「資本主義の原理原則に従え」とわざわざ言わなければならない理由は何か。
それは単純に日本のいたるところで資本主義が正しく浸透していなかったからでしょう。
「マネー資本主義」のような単一システムへの過剰な信仰が跋扈しているのですから。

日本の田舎の問題はきちんと資本主義が定着していないことだ。 | makilog

残念ながら日本の多くの田舎は単一システムに盲目的に追従するのみです。
たとえば、価格変動の大きいエネルギー資源にのみ依存しているとか。

そうしてみると、本書は日本に対して平然と最後通告を突きつけている印象があります。
(冒頭で記した「後味の悪さ」はここに起因しているのでしょう)

当然ながらイノベーションは簡単なものではありません。
「これまでと異なる価値体系を構築できなければ、日本の田舎に未来はない」
もし本書の裏主張がここにあるとすれば、実に冷酷と言うべきでしょう。

それでも、「里山資本主義」は希望である

里山資本主義は、経済的な意味合いでも、「地域」が復権しようとする時代の象徴と言ってもいい。大都市につながれ、吸い取られる対象としての「地域」と決別し、地域内で完結できるものは完結させようという運動が、里山資本主義である。

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く

そうは言っても「里山資本主義」から学ぶべきことはたくさんあります。
依存から自立へ。「グローバルの一部分」に過ぎなかった田舎から異なる価値体系を持つ「ローカル」な田舎へ。
その道標になりえるのが本書だと考えます。

森林資源の管理と活用の先進地であるオーストリアの取り組みはその一つ。

「(中略)ところが、今日ではエネルギー資源はあまりありませんから、この星にある自然が与えてくれるもので私たちは生活しなければなりません。この思考の大転換こそが真のレボリューション(革命)です。そうした革命に木材産業はうってつけなのです。森林は管理し育てれば無尽蔵にある資源だからです。
その結果、経済は必然的に国家中心から地域中心になっていきます。製材業はたいていファミリー企業です。原料の調達も、せいぜい二〇〇キロ~三〇〇キロ県内でまかなえます。生産には多くの人手がかかります。ようするに、木材は、投資は少なくてすむ一方、地域に多くの雇用が発生する、経済的にもとても優れた資源なのです」

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く

これまでの常識で考えれば価値の低かった木材資源を、異なる視点でとらえ直す。
グローバル経済への依存を断ち切り、自立の道を目指す。

本書で紹介されているような事例が少なくない数あることがすでに希望でもあります。
日本の田舎が人口減少という未来から目をそらさず、これまでの常識に囚われないそれぞれの未来を描く。
前例によって狭められた可能性を自ら開き、資本主義社会に参入していく。
その道標はすでに示されました。後はフォローするか否か。それだけです。


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「世界はひとつの教室」を実現するKhan Academy

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TEDにも出演し話題となったサルマン・カーン氏が著者。
Khan Academyのこれまでとこれからを自身の信念と絡ませながら紹介しています。

論理は簡潔でテキストの端々から情熱が溢れだし、一挙に読み終えてしまいました。
未来の(あるいは現代のあるべき)教育のビジョンをこれだけわくわくさせられるものとして描けるとは。

本記事では僕が気に入ったところをかいつまんでご紹介したいと思います。

「完全習得学習」というシンプルなアイデア

完全習得学習の根っこの部分を一言で言えば、生徒はある学習内容を十分に理解したうえで、もっと高度な内容に進むべきだということです。そんなの当たり前だと言われそうですが、完全習得学習の歴史はけっして平坦なものではありませんでした。

世界はひとつの教室 「学び×テクノロジー」が起こすイノベーション

著者が運営するKhan Academyの重要なコンセプトが「完全習得学習」です。

現在の単元を完全に理解してから次の単元に進む。

このアイデアは学習における自明なプロセスであり、当然のように感じられるでしょう。
しかし、実際に我々が課されてきた学校のテストを思い出してみてください。
我々が学習内容をその都度漏れなく理解していたなら、赤点どころか平均点もありえません。
完璧な理解とは100点がとれるということなのだから。

一般的な教育及びその評価システムは理解度(質)を保障するものではありません。
単に全員に同じ内容を同じ時間だけ指導した(量は担保された)というだけの話なのです。

ある単元の理解が不十分なために、得意教科に突然つまずく生徒は少なからず存在します。
たとえば「三角比」。正弦定理や余弦定理でつまずく生徒は少なくありません。
多くの場合(既に学習したはずの)分数の処理と方程式の理解が曖昧であることが課題になります。

著者がKhan Academyで実現しようとしているのは、まさに質の担保です。
そして、この思想はクリステンセン氏の「教育×破壊的イノベーション」に共通するものです。

これは非常に重要なアイデアです。
一人一人の理解のスピードは違いますから、こちらの方が合理的です。
しかし、(残念ながら)既存の学校制度を前提にすればこの発想に行き着くことはないでしょう。

参考:「教育×破壊的イノベーション」-教育問題の根本原因と解決案

社会的・政治的産物である現行教育制度の正当性

「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」

ウィンストン・チャーチル

(民主主義がそうであるように)教育も現在の姿が最善であるという正当性はどこにもありません。

いまや当たり前になった授業や学期や学年の長さ、一日何時限という区切り、学習内容の「教科」への細分化などは、いったいどのような経緯で誕生したのでしょう?(中略)当時は先鋭的だったK-12教育(初等・中等教育)のイノベーションの数々は、じつは十八世紀のプロイセンに端を発しています。ひげから帽子、行進のしかたまで、何もかもが堅苦しいあのプロイセンで、いまの基本的な教室モデルは発明されたのです。(中略)プロイセンの哲学者にして政治理論学者、この制度整備のキーパーソン、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは、制度の目的を隠そうともしませんでした。彼はこう書き残しています。「人に影響を及ぼしたいのなら、話しかけるだけでは足らない。その人をつくり変えなければならない。あなたが望む以外の意思決定をできないように」

世界はひとつの教室 「学び×テクノロジー」が起こすイノベーション

政治的な意図と経済的な制約とからスタートした現在の教育制度も、一定の成果を出したことは間違いありません。
しかし、学年の横割りや「教科」の縦割りは、あくまで「大人の事情」です。
それが改善できる(そしてより良い効果を得られる)のならば改善すべきものであるはずです。

「大人の事情」で”スイスチーズ”のように穴だらけにされた生徒の理解。
学校で学んだことを実社会に応用できない大人たち。
設備や人材といった資源を遊ばせている夏休み。
実に義務的な目的で課され、家族との時間を奪う宿題。

著者は現行制度の犠牲者をこれ以上増やさぬためにも、抜本的な解決策を描いていきます。

「世界はひとつの教室」

未来の学校は垣根のない「ひとつの教室」を中心にすべきだと私は思います。さまざまな年齢の子がいてかまいません。一方的な講義や画一的なカリキュラムに支配されることがなければ、それができない理由はありません。(中略)年上の生徒やできる生徒が、理解が遅い生徒を教えたりして、先生の助っ人をします。年下の生徒は、お兄さんやらお姉さんやら、いろいろなお手本に接することが出来ます。

世界はひとつの教室 「学び×テクノロジー」が起こすイノベーション

マイペース学習(完全習得学習)が可能になれば、学年・学級の垣根はなくせる。
著者は、ここで生徒同士のコミュニケーションが生じるというポジティブな面を強調しています。

年齢混合クラスの必然的帰結としてさらに提案するなら、生徒と先生の比率はそのままに、クラスを合併してはどうでしょう。(中略)ただ、二十五人の生徒と孤独な先生がひとりいるクラスが四つあるよりは、七十五~一00人のクラスに先生が三~四人いたほうがよくはないか、と思うのです。これにはいくつかの明らかなメリットがあります。

世界はひとつの教室 「学び×テクノロジー」が起こすイノベーション

教員はチームとして生徒の指導に当たり、それぞれの強み・弱みを補完しあうことが出来る。
これは現行の制度(そして学校という施設)から出発して思いつくものではないですね。

また、マイペース学習が導入されれば教科指導の時間は現状より削減できる、と著者は言います。
であるならば、そうしてつくった時間をより創造的なプログラムにあてることもできます。

 

僕はまだKhan Academyのプログラムを体験したことがありません。
著者の思想をジャッジするにはまだ早いかもしれませんが、実に魅力的な提案でした。

日本語翻訳プロジェクトもあるようなので、ちょっと試してみます。


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