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グローバルな社会とは何か?-「グローバル人材」要件の前提

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果てることのない「グローバル人材」論議

実は、グローバル化とはハイコンテクストな社会が、ローコンテクストな社会に転換していく過程の一環なのです。国内でさえ、世代や趣味が違うと「話が通じない」関係が増えていますね。そこに、外国から様々な価値観を持った人々が参入してくるわけです。

イマドキの若者であれ、海外出身者であれ、職場や教室にコンテクストを共有していない人が現れると、“空気読め”では通じない。そのとき必要となるのが「教養」です。この教養とは、単なる知識や語学力ではなく、「ハイコンテクストなものをローコンテクストに翻訳する能力」のことです。

グローバルな教養とは「本当は」なにか(與那覇 潤) – 個人 – Yahoo!ニュース

いつから始まったのかももはや定かではない「グローバル人材」論議。
僕も以前書いた記事で部分的に加担していますが、未だ収束する気配がありません。

最近、Twitterを中心に冒頭の記事が評判になっていたようです。
確かに、この記事は「グローバル化」の重要な側面に注目しています。
一方で、「誤読されているのではないか」という一抹の不安を覚えずにいられません。

「グローバルな社会」とは何かという問い

「グローバル人材」なるものが求められているのは、現代が「グローバルな社会」だから

これに異議を唱える方は少ないかと思います。

では「グローバルな社会」とはいったいどのような社会なのか
論議の前提でありながら、この問いへの回答の厚みに物足りなさを感じることが非常に多い。
”そもそも”を共有するステップが抜け落ちていると言えるでしょう。
「グローバル人材」論議の空中戦に終わりが見えないのはここに原因があるのではないでしょうか。

先にこの問いへの見解を述べましょう。
すなわち、グローバリゼーションを引き起こす資本主義は、その論理的帰結としてローカルを必要とします。
したがって「グローバルな社会」とは「マクドナルド化」といった言葉に代表されるような均一的な社会を意味していません。
資本主義が浸透すればするほど、つまり、「グローバルな社会」になればなるほど、「ローカルな社会」の存在感が増すのです。

自己増殖する資本主義というシステム

資本の絶えざる自己増殖、それが資本主義の絶対的な目的にほかならない。蓄積のためにはもちろん利潤が必要だ。だが、この利潤は一体どこから生まれてくるのか。(中略)
利潤は資本が二つの価値体系の間の差異を仲介することから創り出される。利潤はすなわち差異から生まれる。
しかしながら、遠隔地貿易の拡大発展は地域間の価格体系の差異を縮め、商業資本そのものの存立基盤を切り崩す。産業資本の規模拡大と、それに伴う過剰労働人口の相対的な減少は、労働力の価値と労働生産物の価値との差異を縮め、産業資本そのものの存立基盤を切り崩す。差異を搾取するとは、すなわち差異そのものを解消することなのである。

ヴェニスの商人の資本論

資本主義が要請する利潤の源泉となるのは「差異」。
しかし、資本主義に見初められた「差異」は、その瞬間から解消される運命にあります。
「差異」を搾取した後で、資本主義は何を求めるのか。新たな「差異」を見つけ出すしかありません。

そして発見された手法が「革新(Innovation)」、すなわち個別企業の間で「差異」を創出することにほかなりません。
ところが、ご存知のとおり、この「差異」すらも「模倣(Imitation)」を通じて搾取され、解消されていく運命にあります。
利潤を追求する企業はなおも「革新」への絶えざるデッドヒートに身を投じていくのです。

結局、このような革新と模倣、模倣と革新との間の繰り返しの過程を通じて、資本主義社会は、部分的かつ一時的なかたちにせよ、利潤を再生産させ続け、それによって自己を増殖させていくのである。
すなわち、資本主義の「発展」とは、相対的な差異の存在によってしかその絶対的要請である利潤を創出しえないという資本主義に根源的なパラドックスの産物であり、その部分的で一時的でしかありえない解決の、シシフォスの神話にも似た反復の過程にほかならない。

ヴェニスの商人の資本論

「差異」を要する資本主義は、「差異」を解消しながら新たな「差異」を生み出す自己増殖のシステムです。
これをグローバルとローカルの二語を用いて言い換えるならば、こう言えるでしょう。

すなわち、資本主義はローカルなものをグローバルなものに解体しながら、次にはローカルなものをまた生み出す、と。

グローバリゼーションの帰結・・・トランスローカル

グローバル化という言葉を聞いて、どのようなイメージを浮かべるでしょうか。
日本では規制緩和によって大型店舗が全国に拡散し、その結果各地の商店街が消えていきました。
この例のようにグローバル化(及び資本主義)は均質化をもたらすという見方は根強いはずです。
グローバル化がローカル化を伴うという表現は、したがって違和感を伴うものかもしれません。

コカコーラやソニー・コンツェルンは、自分たちの戦略を「グローバルなローカル化」と言い表している。その社長や経営者たちは次のことを強調する。すなわち、グローバル化で重要なのは、世界中に工場を建てることではなく、そのときどきの文化の一部になることである、と。「ローカル主義」とは彼らの信仰告白であって、つまりはグローバル化の実践にともなって意味をもつようになる企業戦略のことである。

グローバル化の社会学―グローバリズムの誤謬 グローバル化への応答

ところが、グローバル化の先鋭を切る巨大企業こそ、グローバル化する社会においてローカル化を重んじる定めにあるのです。

グローバル化とはただ脱ローカル化のことだけを言っているのではなく、再ローカル化を前提としているという見方は、すでに経済的思惑から来ている。(中略)「グローバル」に生産し、そうした生産物を「グローバル」にもたらす企業もまた、そしてそういった企業こそ、ローカルな条件を発展させなければならない。というのも、第一に、そうした企業のグローバルな生産は、ローカルな基盤のうえに成立し維持されるからであり、第二に、グローバルに市場に送り出されるシンボルもまた、ローカルな文化の原料から「作りだされる」必要があるからである。(中略)
「グローバル」とは、それにふさわしく翻訳するなら「多くの場所で同時に」ということであり、したがってトランスローカルということである。

グローバル化の社会学―グローバリズムの誤謬 グローバル化への応答

グローバル化を「マクドナルド化」と表現することは、一面的なものの見方でしかありません。
個々別々のローカルに立脚している現代社会の姿をとらえきれていないからです。
ローカルを解体しつくし、すべてを均質化したローカルなき世界ではなく、ローカルがローカルとして存在しながら、他のローカルと横断的に接続された社会こそが「グローバルな社会」なのです。

しかし、これは「グローバルな社会」がローカルを(それ以前の)ローカル”のまま”保存することを意味しません。
「差異」を食い尽くす資本主義システムが「差異」の源泉であるローカルを放っておくわけがないからです。

ローカルな文化は、もはや世界に対しておのれを閉ざしたそのままの状態で自文化を正当化することはできないし、そのようにして自文化を定義することも刷新することも出来ない。ギデンズ(※)が述べるように、このように早まるあまり、伝統的な手段によって伝統を基礎づけるのではなく(ギデンズはこれを「原理主義的」と呼ぶ)、その代わりに、いったん脱伝統化された伝統をグローバルな文脈において、つまりトランスローカルな交流や対話や紛争において再ローカル化するという強制が出てくる。
ようするに、ローカルな特殊性をグローバルに位置づけ、グローバルな枠組みにおいて摩擦をこうむりながら、このローカルな特殊性を刷新していくときに成功したとき、ローカルなものは非伝統的なかたちで復活する。

(※引用者注:アンソニー・ギデンズのこと)

グローバル化の社会学―グローバリズムの誤謬 グローバル化への応答

グローバリゼーションは新たな準拠枠をあらゆるローカルに容赦なく浸透させます。
ローカルな文脈は、グローバルな文脈において非伝統的なかたちへの変更を避けることはできません。

翻訳者としての「グローバル人材」

ここにおいて、ようやく冒頭の引用記事の本来の意味が明確になりました。
「ローコンテクスト」はグローバルの、「ハイコンテクスト」はローカルのそれぞれの文脈を意味します。
「ハイコンテクストなものをローコンテクストに翻訳する」行為とはまさにグローバリゼーションの必然の過程なのです。
また、記事には書かれていませんが、グローバル-ローカルのやり取りは双方向であるため、「ローコンテクストなものをハイコンテクストに翻訳する」作業も同時並行的に行われていることも見逃せません。

ここまでの議論を通れば、「グローバル人材」の要件が英語だけではないことは一目瞭然です。
搾取され、脱ローカル化されたローカルを新たな「差異」の源泉として復活させられるかどうか。
脱ローカル化-再ローカル化のつなぎ手こそが「グローバル人材」と言えるでしょう。

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「津山三十人殺し 最後の真相」が語るコミュニティの悲劇

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津山三十人殺し 最後の真相」は「八つ墓村」のモデルとなった事件を取り上げた本です。
城繁幸氏のこの記事を読んでからなんとなく気になってはいました。

城氏はこんなことを書いています。

本当の疎外というのは、もともと縁なんて無い無縁社会ではなく、 縁で形成された有縁社会にこそ存在するのだ

ちょうど東京から海士へ戻るときに空港の本屋で見つけたので、飛行機の中で読んでみました。

殺人者の狂気はコミュニティの狂気

たった一夜の間に、一人の若者によって30名以上の死傷者が出た事件は世界でも稀だそう。
しかし、その狂気を生み出したのは、閉鎖的なムラのコミュニティと祖母の存在だった、 というのがこの著者の主張です。

コミュニティに所属するにはなんらかのルールを遵守する必要があります。
コミュニティが閉鎖的であるほど、コミュニティの構成員を守る機能も強化されるが、
その代わり排他性もまた強まり、従ってルールもますます厳しくなるという循環に陥りがちです。

加害者・睦雄は肺病を患い、「ロウガイスジ(※)」の烙印を押されました。
(※肺病患者を出す家を差別するための蔑称)
それに加えて、徴兵検査の結果、お国のために戦うこともできなくなりました。

当時はお国のために戦うことが当然視された時代です。
逆に徴兵を拒んだり、検査から弾かれるという行為は忌み嫌われていました。
つまり、コミュニティの構成員であるためのルールから外れてしまったのです。
彼は、コミュニティから阻害されることとなります。

現代なら「差別だ!」「人類はみな平等だ!」と声を上げる人が出てくるかもしれません。
しかし、70年前の日本の田舎でそんな「キレイゴト」に耳を傾ける人がどれだけいたことか。

コミュニティの構成員の”幸せ”のためには、コミュニティは犠牲者を出すことは厭わないものです。
むしろ「排除」することでコミュニティはコミュニティたりえている、とも言えるのではないでしょうか。
日本の犯罪史上に名を残すこの悲劇は、コミュニティの狂気=「排除」が一因となっていると著者は言います。
僕自身、どうしても睦雄自身の異常性だけに原因があるとは思えませんでした。

さて、ここに現代の若者が夢想する「コミュニティ」の姿は果たしてあるのでしょうか。

コミュニティの狂気は、過去の遺物か

「排除」は現代も残っている、と言われて否定する人はほとんどいないでしょう。

学校や職場でのいじめ。親からのネグレクト。ホームレス。マイノリティ。
大学を卒業し、最初のキャリアとして非正規雇用に就かざるを得ず、
いつまで経っても正社員になれないまま、ワーキングプアを強いられている人。

コミュニティという小さい単位だけでなく、社会や仕組みからも排除される人たちがいます。

秋葉原のホコ天が一時閉鎖されたのも、就活生の自殺が倍増しているのも、
守られている人たちがいるゆえに、そこから排除された人たちがいるという現実の現れのように思えます。

以前、大阪で23才の風俗店勤務の女性が、2人の子どもを自宅に放置し、死亡させた事件がありました。

僕は、同じ構造をこの事件と「津山三十人殺し」とに見ています。

犯罪者の狂気は、社会やコミュニティによる「排除」から生み出されているのではないか。

「津山三十人殺し」に潜む現代の再現性:コミュニティと「親」の存在

コミュニティや社会からの「排除」という構造が現代の犯罪に共通していると見ることで、
「津山三十人殺し」が過去の遺物でないという重要な示唆に目を向けることができます。

もう一つ、この70年前の悲劇には、「家族への憎しみ」が暗い影を落としている、と著者は言います。

両親を早くになくした睦雄と姉の2人は、祖母によって育てられました。
著者は祖母と睦雄との間に血のつながりがないこと、睦雄が宗家の長男であることを指摘し、
祖母が「祖母自身の身を守るために」睦雄を溺愛した、と分析しています。

続いて著者は、宅間守や土浦での無差別殺人事件の加害者に憧れる若者へのインタビューに言及します。
彼らには、溺愛のあまりに干渉し続ける親への愛情の裏にある強烈な憎しみが見られた、と。

津山三十人殺し 最後の真相」で僕が最も共感したのは、この部分。

睦雄のような心は僕らの心のなかにもあって、また僕らの誰もが、睦雄のようになってしまう可能性はあるのだ。

勧善懲悪で済ませるのは、あまりに短絡的な思考と言わざるを得ないでしょう。
犯罪は僕らの誰かが起こしているのであり、その構造を作っているのは僕らなのです。
僕らは常に加害者になりえるし、誰かが犯罪に走ることに僕らは一切加担していないとは断言できないのです。

僕らが生み出したツケを誰かが払っている。
それなのにいつだって僕らはその膿を洗うことだけに必死になっている。

そんな風に思えてなりません。

※本記事は過去のブログから転載しました。

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今、ここを真剣に生きていますか?-元気になりたい方に

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「自分と最高に、付き合っている? 自分の世話を最高にしている?」

今、ここを真剣に生きていますか? やりたいことを見つけたいあなたへ

SFCで教鞭をとる長谷部先生のご著書。

一言で言えば、「元気をもらえる」一冊です。
道に迷った。立ち止まってしまった。そんな自分に焦りを感じるようなときに読むべき本、かもしれません。

滲み出す人柄

この研究室で、わたしが一番はじめに取り組んだこと。それは「共食」の習慣化、つまり、食事をみんなでつくって、みんなで食べることでした。
人が健全に生きるために一番大切な「食」という作業を、人とともに真剣に取り組むこと。

今、ここを真剣に生きていますか? やりたいことを見つけたいあなたへ

冒頭からこれです。すごいなと。
著者の信念の太さというものが、そしてまた、このような教員を抱えられるSFCの底力が垣間見えるエピソードですね。

著者はSFCの教員になる前、東京で私塾を経営していたそうです。
そのときのエピソードがまた面白い。少し長いですが引用してみます。

この塾生のなかに、国語が苦手な小学校高学年の女の子がいました。彼女は空欄を埋めるような問題は得意でしたが、作文がとても苦手です。
ご両親の車で送られてくる彼女は、毎回、お母様お手製のきれいなお弁当をもたされていました。それを授業の前に食べるのですが、いつだってつまらなそうに食べるのです。
ある日、お弁当を食べ終わったときに、「今日お弁当の中身、何だった?」と聞いてみました。ところが彼女は、色とりどりのおかずが詰まったお弁当を、すごくいい匂いをまき散らして食べていたのに、しばらく空っぽのお弁当箱を見つめたあと、「わからない」と言うのです。
「いま食べたばかりよね?『わからない』って、お腹いっぱいになったんでしょ?それはお弁当を全部食べたからよね?何食べたの?」
「なんか。お肉・・・・・・」
「なんかお肉っていうお肉はないわよ。鶏だったの?豚だったの?何?」
「なんか・・・・・・揚げたヤツ」
「うん、だから何の肉?それから、つけあわせは?」
「・・・・・・なんか」
彼女の答えは、すべてが「なんか」でした。

それからわたしは、毎回、彼女のお弁当の中身を聞くようになりました。
彼女は一生懸命お弁当を見て食べて、内容を説明してくれます。
たったそれだけのことです。
それを続けただけで、彼女の国語力はメキメキ伸びて、学校で作文の章をとり、なんと全校生徒の前で読み上げるまでになったのです。

今、ここを真剣に生きていますか? やりたいことを見つけたいあなたへ

日常会話でたまたまこのようなやり取りがあったとして、「毎回、彼女のお弁当の中身を聞くように」発想できるものでしょうか。
思わずため息が出ました。

本書に刻まれた言葉は真新しいものではないかもしれません。
しかし、著者の人柄がにじむようなエピソードに、きっと元気をもらえると思います。

”社会貢献という隠れ家”

「社会貢献」という言葉をファッションにしないでください。幻想を捨ててください。目の前で困っている人を、自己成長の種だと思わないこと。

今、ここを真剣に生きていますか? やりたいことを見つけたいあなたへ

本書の第五章のタイトルは「社会貢献という隠れ家」。
僕が日ごろ思っていることがずばり書いていて、実にタイムリーな話題でした。

「こんなところまで来て、どうして水汲みなんかしなくちゃいけないんですか!」

「ボランティアをやりに来ました!何でもやりますから、やらせてください!」

「草取り、もう飽きましたから、別のことをしたいんです」

「あの・・・・・・高校で映像を見たんです。バングラデシュの貧困問題について」
「それって、あなたが問題意識を持ったっていうよりも、誰かの問題意識を見せてもらっただけよね?貧困に対する問題意識をもったのだとしたら、日本のそういう地区でボランティアをしてみたりもできるわけだけど。身近な実感があって言っているのかしら?」
「日本にそういうところって、あるんですか?」

「だいたい教育の先生が何しに来たの?その先生が、ニ~三日網なんかやって何になるの。どうせ漁師にならないんでしょ。ちょっとやって、何がわかって帰るの。で、またその次に新しい子が来るんでしょ。何になるわけ、そういうの。意味ないよ。どうせ来るなら一ヶ月くらい腰を落ち着けて来なさいよ」

今、ここを真剣に生きていますか? やりたいことを見つけたいあなたへ

「支援」や「社会貢献」という言葉を、完全無欠の「善」と信じきってしまう。
そんな傾向が、特に若い人の中で見受けられるように感じることがしばしばあります。
(教育にも同様の傾向が見られますね)

あなたが良いと思ったことを相手が良いと思う保障がどこにあるのか?

本気で支援したいと考える人がこの自問自答を避けられるはずがありません。
逆に言えば、そのような反省のない活動を”ボランティア”と称すべきではないでしょう。

この五章だけでも、多くの人に読んでもらえたらなあと思います。

 

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