カテゴリ:世の中の事
2013/07/26
先日、山口県の山間で悲惨な事件が起こりました。
それについて、人事コンサルタントの城繁幸氏が記事をアップしています。
無縁社会のリスクが孤独死だとすれば、“有縁社会”のリスクはこうした人間関係のトラブルと言えるだろう。
周南市連続殺人事件の背景について出身者はこう見る: J-CAST会社ウォッチ
城氏と言えば「若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来」で有名です。
人事コンサルタントがなぜ周南市殺人事件を取り上げているのか?と思う方もいるかもしれません。
実は、城氏は以前にも「有縁社会」のリスクについて述べています。
昨年に引き続き、NHK特集の『無縁社会』が話題となっている。
“無縁”の先にあるものが何なのか知っておくべきだと思うので、個人的には見て
おいて損は無い番組だと思うのだが、メディアの一部に「皆で有縁を取り戻そう」
的な回帰色が出ているのが気になる。
基本的に無縁とは我々が選んだものであり、時計の針を戻すことは不可能だ。
有縁社会も楽じゃない 書評『津山三十人殺し 最後の真相』 – Joe’s Labo
僕が「津山三十人殺し 最後の真相」を手に取ったのはこの記事がきっかけでした。
「コミュニティ」に注がれる眼差しが羨望で埋め尽くされていることへの違和感を覚えていたので。
本当の疎外というのは、もともと縁なんて無い無縁社会ではなく、縁で形成された
有縁社会にこそ存在するのだ。
確かに縁は無いかもしれないが、その気になったら好き勝手に縁を作れる現代社会の
方が、出口の無いムラ社会よりかはなんぼかマシであるというのが、同じ中国山地の
山間で育った僕の感想だ。
有縁社会も楽じゃない 書評『津山三十人殺し 最後の真相』 – Joe’s Labo
ここからは個人的に思うところ。
城氏の「敵」は、機能不全に陥りつつある日本の雇用慣行である、というのが一般的な見方。
しかし、実際のところ、城氏はもっと根深いところにまでその視線を注いでいるのではないか、と感じます。
日本の雇用慣行の源泉でもある、日本独自のコミュニティのあり方。
それは田舎を生きやすくも生き辛い場所にしているもの、あるいは「空気」と呼ばれるもの。
ときに息苦しさを伴う日本の濃密な人間関係をこそ破壊したい。
城氏にはそのような野望があるように思えてなりません。
関連する記事
カテゴリ:世の中の事
2013/07/05
2009年2月と少し古い記事ですが。
反対するだけが能じゃない。「買うことで変える」新しい消費者運動のカタチ「キャロットモブ」 | greenz.jp グリーンズ
当事、消費(購買)は投票行為である、という観点を教えてくれたのがこの記事でした。
キャロットモブという活動自体は少し違和感を覚えるところもありますが、示唆に富んでいます。
久々に読み返してみて、これはクラウドファンディングとはまた違う資金調達の方法になりうるなと考えています。
いえ、このような形の消費行動は現実に存在しています。
例えば被災地の水産物、エシカルジュエリー、パタゴニアの登山用品を購入するという行為。
消費者が自身の効用のみでなく、企業への共感も基準に取り込んだ消費行動を、資金調達の方法とするということ。
クラウドファンディングのように目的を限定し、寄付者ではなく購買者を集め、寄付ではなく商品・サービスの購買を通じた資金調達。
これまで当たり前に行われてきた新しい消費行動を、消費とクラウドファンディングの中間にあるものと見ることで、なにか面白そうなことができる気がしています。
クラウドファンディングが、寄付者の効用を曖昧にしてしまいがちであることの反省も含めて。
関連する記事
カテゴリ:世の中の事
2013/05/08
「イノベーションのジレンマ」で有名なクリステンセンの著作。
タイトルにあるとおり、アメリカの公教育産業や教育研究の課題を挙げながら、
その解決策としての破壊的イノベーションの導入方法について書かれています。
クリステンセンの著書はこれが初めてでしたが、面白く読めました。
なるほどと納得できる部分が多かったですね。
話が大きいので書かれているままを信じるのは怖いところがありますが、
言語化されずにいたイシューをすっきりとまとめる腕力には感嘆してしまいます。
公教育の問題…キーワードは”動機づけ”
本書は日本語版の刊行にあたり、著者による日本人読者向けの解説が追加されています。
要約すると、こんな感じです。
日本は戦後教育によって優秀な理工系学生を多数輩出し、技術力によって欧米の競合を蹴散らした。
しかし、今や理工系への進学者は低下しており、日本の技術的地位は危ういものとなっている。
この現象は経済的な繁栄によってもたらされた。
日本が豊かになり、技術を身に付けて賃金や社会的地位を得ようという外発的動機づけが失われた。
日本の教育制度は、厳しいがやりがいのある理工系科目にも自発的に取り組む生徒を増やすため、
それらの科目を内発的動機づけが持てるような方法で指導することを模索しなければならない。
日本向けに書かれてはいますが、本書の主張はここにあります。
良い大学に入り、一流企業で定年まで勤め上げることが必ずしも幸せではない。
それはバブル崩壊以降の日本が証明してきたことです。
つまり、勉強自体が楽しくない子どもにとっては、勉強する理由が失われつつあるということ。
外発的動機づけに頼ることができなくなった今、教育制度が目指すべきは
内発的動機づけにより生徒が自発的に取り組める学習方法の実現である、と著者は言います。
ごもっともな意見ですが、多くの教育研究者がこの課題の解決に苦労しているのが実際のところ。
クリステンセンは、自身の専門性を武器にこの複雑な課題に真っ向から切り込んでいきます。
内発的動機づけが持てる学習方法とその障壁
クリステンセンが早速述べているのは、「人によって学び方が違う」ということ。
ここでは「多元的知能理論」という基礎心理学の分野の研究が引用されています。
本書で紹介されている、心理学者ハワード・ガードナーによる八つの知能のタイプの分類は以下の通り。
・言語的知能
・論理・数学的知能
・空間的知能
・運動感覚的知能
・音楽的知能
・対人的知能
・内省的知能
・博物学的知能
こういった知能のタイプと教育方法とがマッチしたとき、生徒は意欲的に学習できるそうです。
つまり、「内発的動機づけが持てる学習方法は一人ひとり異なる」ということ。
著者が目指すのは、(教師中心でなく)生徒を中心とした学習の個別化です。
この理想的な提案に対する反論はほとんどないでしょう。実現可能性を疑わないとすれば。
生徒は学習の個別化を求めていると認めるとして、現実の教育現場はどうでしょうか。
実際の学校教育では、個別化よりもむしろ指導の標準化が進んでいるのが実情です。
カリキュラム作成から校舎の配置まで、一つの改善のために違う部分の変更がただちに必要となるような
相互依存的な学校制度が前提となっていることがその理由として挙げられます。
著者はこれを工業型モデルと言っていますが、工場や飲食店のマニュアルの如く、
どこで誰がやっても同じ品質(=学力)を達成するには、プロセスを一律のものにする必要があります。
指導要領を作るのは各教科の専門家。そこに都道府県の方針が組み込まれ、教育委員会も手を加え、
各学校において各学年の学習内容の一貫性を踏まえた上でカリキュラムとしてようやく形になる。
指導方法も一斉授業が基本だから、クラスの学力を勘案して平均的なレベルの授業が展開されることになる。
ここまでくると、実際に指導を行う教員の裁量はほとんど残っていません。
学習の個別化とは生徒が各々の学習スタイルで自分で進度を判断しながら学べるということ。
定期的に試験を行う現行の方法では漏れがでてくるし、学力定着の評価も難しいのです。
新しい学習システムとは
生徒中心の教育を実現するためには、生徒の学習を個別化するシステムと、
その立ちはだかる障壁を乗り越えてそのシステムを導入する方法とが必要となるでしょう。
前者について、著者はコンピュータの導入の可能性を強調しています。
同じ数学という科目でも、様々な知能のタイプに応じた学習用ソフトウェアが開発されれば、
生徒は自分自身に合うソフトウェアを見つけ、それぞれのペースで取り組むことができます。
教員は授業を実施するというよりも、チューター・学習コーチとして
生徒中心の学習システムを支えたり、ソフトウェアを開発したりする役割を担うことになります。
「評価(テスト)はどうするのか」という疑問も出てきますが、バッチ処理的な現行方式では、
その時点での到達度は計測できても「次に進んで良いか」の判定にはほとんど使えていません。
ここで、自動車会社のトヨタの整備士の訓練プログラムが例として紹介されています。
トヨタでは、整備士をトレーニングする場合、一度に全工程を教えるのではなく、
「ある工程がマスターできなければ次の工程を教えない」という手法をとっているそう。
そう、生徒中心の学習システムにはこの方式を取り入れてしまえばいいのだと。
現在の学校は「時間は一定、成果はまちまち」ですが、
生徒中心の学習システムとこの評価方法によって「時間はまちまち、成果は一定」とできます。
ある単元を理解して初めて次の単元に進めるというように、学習の中に評価の工程を組み込めば、
わざわざ手間をかけてテストを作り、定期試験でまとめて評価を行うという必要はありません。
生徒中心の技術はどのように導入されるべきか
さて、先述のシステムをそのまま適用しようとしても、失敗は火を見るより明らかです。
そこでクリステンセン氏は、生徒中心の学習システムを「破壊的に」導入することを提言します。
(破壊的イノベーションについてはこちら)
破壊的導入は「コンピュータベースの学習」→「生徒中心の技術」の二つの段階を辿ります。
もちろん、これらのステップは著者のイノベーションの理論に基づいています。
まずは進級・進学に必要のない知識の学習の分野を狙います。
いきなり現行の教育制度がカバーする主要科目に手を出すのは難しいでしょう。
学校にも指導のノウハウがあり、優れたテキスト教材も書店で購入できるわけですから。
逆に、生徒が突然「デンマーク語を勉強したい!」と言ってくるケースを考えてみましょう。
一般的な日本の学校にはこのニーズに対応する方法はありません。
この「無消費層」にコンピュータベースの学習を導入していくのが事の始まりになります。
そうこうするうちに、youtubeやiTunesのように技術的なプラットフォームが現れるなどして、
教育ソフトウェアの開発は素人でもできるようになることだって考えられます。
(実際、少しずつそのようなプラットフォームが世に出回り始めています)
多様なソフトウェアが集まれば、あとは生徒が自分自身でカリキュラムを組み、学習するだけ。
教育内容を別とすれば、コストやアクセシビリティなど、
様々な面でコンピュータベースの学習は現行の教育制度より利点が多いことも見逃せません。
少子高齢化時代でも教員数を削減できるので、学校の統廃合も減らせるかもしれないのです。
筆者はここに、「生徒中心の技術」が現行制度をひっくり返せるポテンシャルを見いだしています。
まとめと感想とか
まとめてみると、こんな感じ。
経済繁栄
↓
勉強への外発的動機づけの低下=教育の諸問題の根本原因
↓
新しい動機づけ=内発的動機づけを学習に!
↓
意欲を持って取り組める学習は一人ひとり異なる
↓
一枚岩式の授業から、生徒中心の個別学習を実現すればよい!
↓
コンピュータを軸にした生徒中心の学習システムを破壊的に導入しよう!
「全員が意欲的に学習する」必要性は、教育が命題として課されている「貧困の撲滅」によるところが大きいということも忘れてはいけません。
実際、親の社会的階級や経済力が子どもの将来に引き継がれる事態は日本でも見られます。
家庭環境の格差による影響を、教育は学力格差の縮小という形で対応して来ました。
それでも現行の教育手法では限界がある、ということも個別学習の実現への動機付けとなっています。
本書では、教育研究のあり方や学校の組織としての構造についても言及しています。
これが結構面白い。あと、幼児教育に対する欄もあります。
(ここまで言及するとますます長くなるので、本記事では省略)
生徒の知能のタイプがどうとかは別として、たぶん一人ひとりに合った学習方法はあるはずで、
学校の中で幾つかの学習方法の中から「より意欲的になれる」方法を選択できるなら、その方がいいはず。
といっても子どもは”合目的的に”選択することはできないから、ここに新しい役割を担う教師の出番がある。
本書で描かれる未来の教育を想像しながら、これは北欧の教育制度に似ているかも、と思いました。
直接目にしたわけではありませんが、「個」を重視する姿勢は共通しているのではないでしょうか。
教師の役割も、日本とは大きく異なる印象がありますね。
個人的にはコンピュータベースの教育プログラムやソフトウェア自体は増えていくだろうと思います。
(というか増えています)
そして、それは徐々に家庭や友達同士など、ごく小さな範囲から普及していくことでしょう。
きっと、PC、iPad、Nintendo DSといったデバイスがその普及を手助けすることになるはずです。
誰でも手軽に教育ゲームを作れるプラットフォームだって開発されるのもそう遠くない未来の話かも。
あとは、本当にコンピュータで教育効果を出せるの?という素朴な疑問を検討するのみですが、
正直なところ、僕には「良い」も「悪い」も言えるだけの判断材料がまだありません。
学校に導入されたコンピュータは有効活用されていないのは明らかで、
「コンピュータを使った教育といったらこれ」といえるものもまだありません。
今は映像教材が主流でしょうか。Khan Academyもそうですね。
トータルで見ておすすめな本です。
教育に対しての新しい見方を求めている人は、ぜひ読んでみてください。
※本記事は過去のブログから転載しました。
関連する記事