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「世間は狭い」という経験を享受できる人たちのこと

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“What a small world!”

先日、職場の同僚のお知り合いが海士に来島され、夕食を共にする機会がありました。
彼とは初対面だったのですが、よくよく話を聞いてみると、共通の知り合いがいたことが判明。
「世間は狭いな」と思った次第です。

「世間は狭い」という感覚は、海士町に来てからというもの、幾度も経験しています。
これは人と人とのつながり(ネットワーク)の中で、海士町に関心を示す人たち同士の距離が、自覚される以上に近いことを示します。

この「世間は狭い」現象は、誰にでも起こるものなのでしょうか。
必ずしもそうとは言えないだろう、というところからこの記事を書き始めてみます。

「世間は狭い」の構造

直感的に、「世間は狭い」とより多く感じるには、より多くの友人・知人を持てばよいはずです。
小中高大、あるいは会社で知り合った人とすべてFBフレンドになれば、とにかく数は確保できるはずです。

ところが、僕の「世間は狭い」経験の多くは、僕の小中高大のつながりと関係のないところでもたらされたものでした。
「世間は狭い」経験は、僕のこれまでの「所属」(プロフィール)とは無関係に発生してきたのです。

「世間は狭い」経験を僕にもたらしたもの。それは僕自身の「関心」であった、と考えます。
思えば海士町に来たのもこの「関心」(とそれに伴うつながり)の賜物でした。
直接のきっかけをもたらしてくれたのは高校・大学の同級生でしたが、今でも交流を持つ数少ない同級生の一人でもあります。
彼との親交は単なる「級友」の立場でなく、お互いの関心への共感がありました。
履歴書には書けないところでのつながりが、”履歴書の続き”をもたらしてくれたとも言えます。

そして、そのような「関心」はますます僕の世界を狭く(つながりを広く)しています。
海士町に移住するまで会ったこともない人と、共通の知人を見つけることもそう珍しくありません。
これは海士町に魅力を感じるようなある種の人々の「関心」が重なった結果です。

一方、つながりの母数を「所属」に限定した場合、同じ「関心」を持つ人との出会いも限定的なものになります。
ある「関心」を契機にした「世間は狭い」の感動と出会うには、「所属」の境界を越える必要があるのです。

「世間は狭い」の感動は誰のもの?

「関心」によって形成されるコミュニティの構成員はどのような人たちか?
当然ながら、自ら何らかの「関心」を持ち、かつ「関心」を発信できることの2点を満たす必要があります。
そうしてはじめて、「所属」の境界を越えて「関心」をベースにしたコミュニティに属することが可能になります。

自ら「関心」を持つこと。自ら「関心」を発信できること。
この2つの行為はあらゆる人にとって可能なのでしょうか?

「世間は狭い」の感動を得られるかどうかは、個人のつながりの作り方に依ると言えます。

海士に移住するような人たちは、ほとんどの場合何らかの強い「関心」を持っています。
強い「関心」は本人を海士に引き寄せるだけではなく、海士町に「関心」を持ちうる人たちの横のつながりを形成しうるものです。
そうして形成されたネットワークは、ある個人の「関心」に反応して、同じネットワーク内の同種の「関心」を持つ人をつなぎます。

母数が「所属」に限定されたネットワークは、三つの点でこのネットワークに劣ります。
第一に、「関心」の供給源(その「関心」を持つ人」)の数が限られてしまう点。
第二に、ネットワーク形成が「所属」の組織構造に依存してしまう点。
第二に、「関心」の文脈が「所属」内における文脈に限定されがちである点。

個人的な経験を振り返ると、「世間は狭い」の感動は、「同じ都道府県の出身」という程度で喚起されるものではありません。
「え、こんなところでつながりのある人に出会えるなんて!」という、空間に対する意外性。
「え、思った以上に近い距離だったんだ!」という、つながりの距離に対する意外性。
地縁のない海士町では、「世間は狭い」の感動が起こる可能性は確率的には低いはずです。
しかし、一度偶然の出会いがもたらされれば、海士町という場所はこの二つの意外性を満たしやすい環境でもあります。

この海士町という特殊な環境で「関心」をベースにしたつながりを無視するわけにはいきません。
「世間は狭い」という経験から学ぶことができるのは、「これからのつながりのあり方」であるように思います。

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「基礎」以上の学力を求める日本の大学入試のジレンマ

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まとめ

・現行の大学入試は「基礎」の定着を評価しない(多くの人には難しすぎる)
・「基礎」が評価されないから、「勉強する/しない」層の区別、自由競争の激化などが起こる
・高校進学率9割以上の時代にセンター試験が対応できていない
・でも、大学入試は入口と出口が強く結びついているために変化できない(ジレンマ)
・出口(就職)で、偏差値(入口での評価)が未だ評価されているのはその現れである

センター試験は難しすぎる?

入学試験とは学力を測る行為ではなく、学力をネタに足切りの線引きを行う行為である。

結局、センター試験の国語は基礎的な学力の達成度を測る指標とではなく、技巧的な構文解析、文脈解析の指標としてしか機能していない。

大学入試は学力を計るものではないことを改めて感じる – あらきけいすけの雑記帳

いまさらセンター試験の話題ですが、ようやく今年の現代文を解いてみて、思ったところを。

出題された小林秀雄の文章に”凄み”を覚えつつ、冒頭の記事を読み直してみました。

結論から言うと、僕もこの記事に概ね同意です。

といったものの、ここには戸惑いもあります。
個人的な話ですが、僕自身理系ではあるものの、大学入試の現代文は結構好きなんです(得意ではない)。
教科指導など生徒との触れ合いを通じ、現代文が問う力の重要性も徐々にですが認識するようになりました。
そういう事情があるため、現代文を、ひいては大学入試を否定するというのは自己否定につながる恐れもあるわけです。

しかし、ここで「センター試験(大学入試)は適切であるか」の一点に的を絞ると、これもまた容易には頷くことができません。
具体的な話をすれば、「読み物」としての修辞技法を駆使した小林秀雄の文章を読解できる能力が、すべての高校生に必要とはやはり思えないからです。

多分、「技術立国」を目指した教育の文脈で、高校3年程度の過半の人口に対して、国語に関する基礎的な学力を測るには、出題の題材としてはもっと素直でロジカルな文書、例えばOECD報告書のアブストラクトのような文書を読ませて、内容の正確な読み取りがどこまでできるかを問うべきだと思う。標語的に言うなら「TOEFLやTOEICを日本語にしたようなテスト」で、センター試験のような量の文章を出題し、ひねくれた文章の読解がうまいから点が高いのではなく、多様な分野の論理的で素直な文章をトータルの分量をかなり多めにして出題し、素朴に語彙が多くて正確に速読できるほど点が高くなる(「選別」ではなく能力測定が目的なので母集団の得点分布は気にしない)という形になるような試験であれば、学力を測るツールとして機能するのではないかと思う。

大学入試は学力を計るものではないことを改めて感じる – あらきけいすけの雑記帳

あらきけいすけ氏の主張は「基礎的な学力を測る」という点に立脚しています。
この点から見ればセンター試験は難しすぎるものであり、「基礎」を大幅に超えているのは間違いないでしょう。
「基礎」とは誰もが身につけなければならないものですから、その評価のための試験は、得点が90%以上の生徒が5割いても不思議ではありません。
「基礎」を測るとするならば、全国の高3生(しかも就職/専門組のほとんどが受験しない)の平均点が100点/200点というのは不適切といわざるを得ません。
あらき氏が言うとおり、日本の学力試験の実質的な目的は学習の到達度の計測でなく、あくまで受験者の序列化にあるわけです。

及第点で満足しないことの弊害

「基礎」の定着に対する評価がないことで、2つの弊害が起きているように思います。

まず一つは就職/専門組の学力・意欲の低下です。
彼らは受験競争に参加する気がないので、低評価であろうと卒業できれば御の字です。
彼らは「基礎」を身につけたかどうかをチェックされることなく社会へ出て行くわけです。

もう一つは過剰な知識習得競争です。
教育の質と量をどこまで追求しても足りないのですから、自由競争になります。
つまり、強いものがより強く、弱いものはいつまでも弱い、という構図ができるのです。
条件不利地域においては公教育の側から低学力層の学習機会の増加を働きかけるケースが少しずつ出てきています。
いわば学校教育という市場における社会保障ですね。
この流れは低学力層の生徒が逆転する見込みが少ないということの裏返しである、とも言えます。

及第点が取れるということが評価されるようになれば、この2つの問題は解消されるでしょう。
検討が進められている「高大接続テスト」はこの文脈に属するものと捉えることもできます。

日本の大学入試が抱えるジレンマ

まず、日本のいいところ。受験地獄というふうに、少し大げさに書きましたけれども、私の世代も割と受験地獄の世代で、とにかく必死にいろいろな知識を詰め込みました。去年ノーベル賞をとられた日本人の方も、私は受験地獄の支持者だというふうにおっしゃっていましたけれども、私も支持者です。アメリカに行ったときに、やはりよりどころになるのは、司法試験の勉強もそうだったのですが、豊富な知識であり、私はたまたま世界史も受験で選択していましたから、そういった世界の歴史ということもほかの外国人に比べてもそんなに負けている感じはしないと思い、大いに受験勉強に対して感謝しました。ですから、豊富な知識であったり、あるいは日本の大学入試に受かる、これは相当高い事務処理能力が要求されますから、それが証明されるのですごくいいものだと思っています。それから、自己マネジメントをして、膨大な量の勉強量をどうやって体を壊さずに、精神的にも安定させながらこなしていくか。そういうマネジメント能力、勤勉さという意味でも、日本の受験に私は賛成であり、今の高校でもそこから逃げるなというふうに指導しています。

中原徹氏(大阪府立和泉高等学校長)意見発表:文部科学省

しかしながら、大学が基礎学力以上を受験生に求める理由もまたあるわけです。
民間出身の校長である中原氏の言葉をここに紹介していますが、僕もこの意見は納得できます。
膨大な知識を体系的に身につける過程で鍛えられる力もまたあるわけです。

企業が大学生を大学の偏差値で順位付けすることには一定の合理性があります。
中原氏の言うように、受験戦争をくぐり抜けたからこそ、大学の偏差値は本人の”実力”とある程度相関するように思われます。
つまり、大学入学時点での評価がまだまだ支配的な位置を占めるわけです。
大学の入り口と出口の構造とが強く結びついているからこそ、大学入試を変えるのは難しい。

これも昭和の頃まではよかったかもしれませんが、いまや大学全入時代です。
高校進学率も9割を超え、うち7割が普通高校に通うのですから、現実的に考えれば、すべての生徒にとって勉強が”実力”を鍛える最良の手段である、と言い切るのは難しい面があります。

この流れの中で「基礎」以上を求めるセンター試験が適切と言えなくなってきているはずです。
センター試験とは異なる種類の評価が求められている、と考えるべきかもしれませんが。

ここに日本の大学入試が抱えるジレンマがあるように思えます。
とりあえずは僕も現行の教育制度の中でやれるだけのことをやっていきたいところです。

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フィンランドの大学・高等教育進学率に対する誤解

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高等教育進学率=大学進学率ではない

世界的な総合教育企業、英Pearson社が27日、世界の教育水準ランキングを発表した。
トップはフィンランドで、韓国、香港と続いて、日本は4位。英国は6位、米国は17位で、調査40ヵ国中ワースト3は、インドネシア、ブラジル、メキシコだった。

ランキングは、英国の経済雑誌『The Economist』のリサーチ部門であるエコノミスト・インテリジェンス・ユニットがまとめたレポート”The Learning Curve(http://thelearningcurve.pearson.com/)”に収められたもので、40ヵ国の教育水準を、質(学校の自治度、選択肢の豊富さ)、量(義務教育の年数、教師1人あたりの生徒数)、知能(国際学力テストのスコア)、教育成果(卒業率、読み書き能力、雇用)の4分野にわたって精査した。

日本は、OECD(経済協力開発機構)が2009年に世界の15歳を対象に行った学習到達度調査(PISA)で、香港、フィンランド、シンガポール、韓国に次いで5位に入った実績が評価され、総合4位だったものの、学校の選択肢の豊富さや、教員の質の指針の一つとなる教員給与水準で他のアジア諸国や欧州各国に比べて遅れが目立った。

レポートによると、1位のフィンランドは、子どもの考える力や応用力を伸ばすことに主眼を置いた教育制度で、少人数学級だが授業時間が短く、宿題もなく、放課後に塾に行く生徒も少ないという。対して、2位の韓国は、ペーパーテストの成績重視の暗記型カリキュラムで、多くの生徒が放課後も夜遅くまで塾で勉強を続ける。

教育に対するアプローチが正反対に見える2つの国がトップ2を占めたわけだが、専門家は共通項として、学校制度や教育そのものに対する国を挙げてのサポート体制や、整った教育環境、優れた教員養成課程があることを指摘。国全体の教育水準を引き上げるためには、優れた教員の確保と教育に価値を置く文化、環境づくりが必須と訴えた。

MAMApicks -子育てトレンド&育児・教育ニュースサイト- : 世界教育水準ランキング発表!トップはフィンランド、日本の順位は?

俄然注目を集めているフィンランドの教育ですが、 WEB上では誤解が混じった情報が散見されます。

フィンランドの高等教育進学率は2004年度時点で87%、日本は54%となっています。
この数字だけ見て、「フィンランドの大学進学率は高い」と捉える方が非常に多い。

しかしながらこれは大嘘です。
フィンランドの四年生大学の進学率は30%程度(※1)であり、残りは職業教育を行うポリテクニックが占めます。
ポリテクニックも四年制ですがこちらは実学重視であり、主に職業高校の卒業生が進学先としています。
大学では修士号、ポリテクニックでは学士号が付与されることからも、いわゆる”大学”と同列ではありません(※2)。
一般的な四年制大学の進学率で言えば、日本の方が上なのです。

ちなみに日本の高等教育進学率も、通信制大学や専修学校(高専や専門学校等)を含めれば75.9%(2004年度)だそうです。

そもそも高校の認識が日本と違うフィンランド

この違いはフィンランドの中等教育に注目することである程度理解できます。

フィンランドの高校進学率は概ね6割程度で、残りの3割は職業学校に進学します
(ちなみに残りは留年や就職だそうです)
フィンランドの高校は普通高校であり、高校に進む生徒は基本的に大学進学を目指します。
小中時点で成績が芳しくなく大学進学の意思がなければ、職業学校へ行くのが一般的。

日本のように偏差値による輪切りがなく、高校間の格差はほとんどないことも特徴です。
住んでいる地域によって進学先が決まるので、高校内での格差はある程度ありますが、入学時に一定程度の学力は保証されているということですね。
義務教育段階の留年もあるので、小中学校卒業時にある程度の学力を身につけさせることはコンセンサスとなっているようです。

日本はストレートに義務教育から高等教育まで進むのが当たり前で、職業教育という選択肢も少なく、かつ劣っているとみなされやすいものですから、ジョーシキがかなり違うといわざるを得ません。

非常に当たり前のことを書いてしまいました。
これを踏まえてフィンランドの教育を参考にしなければ、片手落ちどころかかえって害悪になる可能性があるだろうと思ったので、あえてここにメモしておきます。
できる限り資料に基づいた記述を心がけましたが、誤りがあればご指摘ください。

※1:年度を指定していないデータが多かったため、正確さを欠きます。
※2:フィンランドでは大学とポリテクニックを優劣で比較するような見方はあまりないのだそう

参考:書評:「受けてみたフィンランドの教育」一生学び続けなければいけない時代におけるフィンランドの教育

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