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都合よく批判される「知識詰め込み型教育」の意義

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「知識詰め込み型教育」は悪か

公営塾で教科指導に携わる身としての自己正当化と意味づけも兼ねて、主に高校生への指導という観点から「知識詰め込み型教育」を考えてみました。
つまり「(今の)学校の勉強なんか意味はない」という批判は害悪でしかないということを言いたいわけです。

日本は「知識詰め込み型教育」だからダメだ、という批判の声は依然として大きいです。
一方で「ゆとり教育」も散々叩かれるところに世論の無責任さがにじみでていますが。
(実際、ゆとりが見直された新課程では理数の学習量が増やされました)

詰め込み教育に対しては以下のような批判が主にあるようです。

1.学習意欲の維持が困難(内発的動機付けの問題)
2.知識習得の一過性(テストが終わったらすぐに忘れる)
3.激しい受験競争(ストレス増大、いじめ問題への発展)

このうち3についてはまったく根拠のない批判だというのが最近の見解のようですね。

最近は「知識詰め込み」の「知識」の部分に対する批判が大きくなっています。
PISA型学力とか、社会人基礎力などのハイパーメリトクラシーがその対抗馬となっていますね。
といってもゆとり批判によって「知識」も見直されてきたためか、現行の教育の中にどう新しい学力観を取り入れるか、という議論に移ってきているようには感じます。
以前のような明確な対立構造があるわけではないかもしれません。

※小中学校のことはあまり考慮できておりません、あしからず。

日本の大学は高校生の知識を活用・応用する力を高く評価している

「知識詰め込み」は本当にダメなものなのでしょうか。
その意義をもう一度整理してみたいと思います。

一般的にイメージされる「知識詰め込み」は「丸暗記」と重なる部分が多いでしょう。
しかし、難関大の入試問題は「丸暗記」では太刀打ちできない問題が多く出題されます。
(あるいは類稀なる「丸暗記」能力を以ってすれば…)
つまり、少なくとも大学入試においては、教科書の内容を十二分に理解し、場合によって応用できる力があること、抽象的な思考ができることが高く評価されているわけです。
このような生徒はPISA型のテストでも好成績を収めることが期待されます。

これは(「丸暗記」とイコールでない本来的な)「知識詰め込み」の成果といえます。
多くの知識を体系立てて、関連付けながら習得するというのは相当高度な能力です。
授業や参考書等のガイドラインも活用しながら、膨大な知識を構造化する訓練をするのが本来の「知識詰め込み」と言えるでしょう。

「知識詰め込み」の本当の問題(仮説)

本来の「知識詰め込み型教育」が、膨大な知識量を理解し、体系立てて、活用できる力を伸ばす教育ということを確認しました。
つまり、要求水準が非常に高いということがお分かりでしょう。
すべての日本人が現行の教育制度の下で現行の高校の教科書の内容を完璧に理解することは難しい、と率直に思います。
そして、日本の高校進学率、そして普通科の在籍者の割合はいずれも高く、これは世界でも稀のようです。

※ちなみに、教育国として知られるフィンランドも、「勉強できる人は高校、そうでない人は専門学校(日本の専門高校にあたる)」と進路がはっきり分かれています(参考:受けてみたフィンランドの教育)。

日本の高校生は基本的に偏差値で輪切りにされますから、大変なのは中位以下の高校です。
つまり、ハードなカリキュラムに対して実力が追いつかない生徒の存在が所与の条件になっているということです。
こうなると、教員の技量が高くない限りは授業や試験も暗記重視になるのも致し方ないところです。
単語や公式やアルゴリズムの「丸暗記」が横行し、試験勉強も単なる流れ作業になりかねません。

さらに、フィンランドのように自ら選んで普通高校に進む生徒ばかりではないので、モチベーションも低い傾向にあります(みんながいくからおれもいく)。
教科書の内容を理解すること、定期試験や入試でよい成績をとることに消極的な生徒の存在は、「丸暗記」横行に拍車をかけるでしょう。

実際、勉強はわかってはじめて面白いものです。
これだけ覚えることが多いと、学ぶ内容そのものへ面白さを感じるのは上位層くらいだと考えるのが自然です。
入試をベースにした外発的動機付けも、大学に行かないと決めた生徒には機能しません。

一般的な「知識詰め込み型教育」のイメージはこのような実態を基に形作られるのではないでしょうか。

逆に、難関大に合格するような生徒は相応の実力を持っていると言えるでしょう。
この話は日本の学歴主義(メリトクラシー)はある程度の精度で機能していると僕が考える根拠でもあります。

まとめ

本来的な「知識詰め込み型教育」が十分に機能すれば、本来ならPISA型のテストでも好成績がとれるはずです。
問題はそれが機能していないことであって、「ゆとり」か「知識詰め込み」かを議論する前にやるべきことがあるように思います。

今や高校全入どころか大学全入の時代であり、前提が変わっていることを無視するわけにはいきません。
いい大学に入ってもいい就職が保障されない一方で、中卒・高卒の待遇はますます厳しくなっています。

きっと、勉強できない・したくない子が高校・大学に行く、というのは昔からの常識ではなかったのでしょう。
つまり、”そういう子ども”が出てくることを教育制度が想定していなかったのではないかと。

学校教育におけるキャリア教育の推進が必要であるとされる背景について文科省は、少子高齢化社会が到来し、産業・経済の構造的変化や雇用の多様化及び流動化が進み終身雇用の慣行もなくなり、就職・就業をめぐる環境が変化していることを挙げている。その中でも、特に若年層における社会人・職業人としての資質・素養の欠如や、その背景にある精神的・社会的な自立の遅れを問題視している。その顕著な事例として、子どもたちが人間関係を上手く築けず、自分で意志決定が出来ない、そして自己肯定感が持てず将来に希望が持てない、進路意識や目的意識が希薄なまま進学し、就職しても長続きしないなど、生活や意識が大きく変化していることにあるという。これが長じて若者の中にもモラトリアム(自分探し)の傾向が強くなり、定職を持たない「フリーター」や学校教育も受けず職にすら就かない「ニート」、新卒者の早期離職を表す現象「七五三現象」などが発生・増加したとしている[3]

キャリア教育 – Wikipedia

“そういう子ども”に対応するためにはじまったのがキャリア教育です。
しかしながら優れた実践もあるとはいえ、全体として成果が出ているとはいえないところでしょう。
構造的な問題を建て増しで対応しているのですから、当然のことなのかもしれません。

こう考えると普通高校偏重の解消も視野に入れて、日本では軽視されがちな職業教育の意義を問い直すこともひとつの可能性としてありかなあと思います。
実際、高専の卒業生はこの不況下でも就職に困ることはないと言いますしね。

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セルフブランディング(笑)でメッキを借りる痛い人たち

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「面白い人に会いたい」と言う人が増えるのは「良いこと」

面白い人に会いたいと言っている人は、あなたがバカにしている“合コンで出会いを求めて参加する男女”と同レベルである。

 

そして、「面白い人に会いたい」とか言って会われているうちは、自分はその程度の人間にしか会いたいと言ってもらえないほどにコンテンツの不足した、面白みのない人間だということを肝に命じなければいけない。自分に寄ってくる人は、自分の鏡だから。

もしくは「そんな理由で会われて喜ぶ、なんか可愛い女の子」だと思われて、見くびられている証拠だ。

「面白い人に会いたい」と言って会いに来る人には「死ね、クズ」と思っている | None.

盛り上がっているこの記事ですが、こういう話題が出てくること自体は個人的に”いい傾向“だと思います。

まず、「面白い人に会いたい」という発想は、既存の人間関係の外を向いている人たちからしか出てこないものです。
“相手の話を引き出す「問い」がなんにもない”(質の低い)人が紛れてくるということは、外向きの志向を持つ人が増えた=裾野が広がったということ。
“ウィークタイ”など興味・関心をベースにした弱いつながりの”強さ”に注目が集まっていることなどを考慮すれば、この傾向自体は歓迎すべきものと言えるでしょう。

ですからこういう輩を排除することを急ぐべきではない、と考えます。今はまだ過渡期なのです。
一線で活躍している人たちの貴重な時間と精神の安定を確保するためにも、今後少しずつ修正を入れていく、くらいが適切なスタンスでしょう。

「会われ」る側が悪い、とはあんまり思いませんが。

「面白い人に会いたい」のはなぜか

面白い人や変な人に会いたい、とか言っている人に限って

「自分も変人だ」

と思っていて、

「自分はあなたの魅力が分かる人間だ(だからオレは偉い)」

と、自分を肯定して安心したいがため、「オレってイケてる」を確認するために来ている。

「面白い人に会いたい」と言って会いに来る人には「死ね、クズ」と思っている | None.

この記事で言及されているような「面白い人に会いたい」人の目的は、 一言で言えば「自己満足」でしょう。
個人的な経験も踏まえると、この「自己満足」は「セルフブランディング」の欲求と強く結びついている、と感じています。

最近ではソーシャルメディアの普及も相まって、あるテーマや話題の中心(あるいは先端)にいる人物が容易に可視化されるようになりました。
そして、誰とつながるべきかがとても分かりやすくなっており、かつつながりたい人と容易にコンタクトをとれるようになってきています。
ある界隈の中心人物とつながることで、その界隈での自分の評価を押し上げるという効果を狙いやすい状況にある、と言うことです。

「あ、その人知ってるよ」「一度会ったことがある」

この事実が個人の内実をどれほど的確に表せるかというと疑問は当然ありますが、少なくともそう言えてしまうことで「顔が広い」とか「人脈がある」「そういう分野に関心がある」ということのアピール材料として使えます。

逆に言えば、自分の内実は棚に上げながらとりあえず人に会いまくれば、それだけでセルフブランディング(笑)になりえる、ということ。
会うことで何を学んだのか、相手からどう思われたのか、そんなことは無視してしまっても、「あの人に会った」ことを「自己満足」で終わらせることができるのです。

「あー、そういうやついるいる」と思っていただけると幸いです。
と同時に、僕自身そう見えていないか気をつけないといけないなと思います。自戒を込めて(死語)。

他所からメッキを拝借してしまう人たちのこと

「自分はこうしたい」というエゴが原点なのに、「地域の課題だから」「人々が求めていることだから」というすり替えが行われる。
どこか地に足の着かない印象を受けたら、まずここを疑うようにしていますが、結構当てはまっているように思います。

(中略)

中身は「こうしたい」だけなのに、社会の課題解決の話として体裁を整える。
個人的に、これは本当に止めて欲しい。
自分のエゴを社会貢献にすり替えるという態度がそもそも僕はキライだし、そうして求められていない「良さげなこと」が世に出ることで余計な不和が起こりえます。
主体の頭の中もすり替わっているので、きっと地域や現場を好き勝手にかき乱していることに気づくこともできません。

社会貢献をしたいのか、自分の思い通りにしたいのか、はっきりさせた方がいい

「セルフブランディング(笑)」な人たちって、二言目には「社会貢献したい」と胸を張る大学生と似ているな、と思います。
他所からの借り物だけでポジショニングを試みる姿勢は、見ていて気持ちが良くないのは確かです。

海士町に住んでいるといつも思わされることですが、

お前は本気なのか?

問われているのはたったこれだけなんじゃないかと思います。
この問いに答えられないがために借り物競争に走る。これはひどく滑稽に見えるかもしれません。

とはいえ、これも過渡期ならではの現象であり、仕方の無いことと捉えるべき、とも思います。

“○○がしたい”って簡単に言っちゃいけないんですね。

ワカモノの不安と大量生産・大量消費される価値観 | 秋田で幸せな暮らしを考える

 「やりたいことがない」と嘆く若者はたくさんいますし、それに対して批判的な声も多い。
ところが世の中は変わってきました。「社会貢献」が注目されるようになって来たのです。
ここに「やりたいことがない」若者がたくさん飛びついた。僕は最近の”ブーム”をそんなふうに見ています。

これは間違いなく「良いこと」です。社会貢献にかかわる人が増えるわけですから。
しかし、単なる”ブーム”で終わらないかという不安もまたあります。
社会貢献は世の中的に「良いこと」とされています。この”世の中的に”が曲者です。
巷の若者の社会貢献への姿勢も、「メディアで話題になっているから」「みんな良いといっているから」という”みんな志向”と変わらないんじゃないか、そう思うときがあります。

とりあえずボランティアをやってみる。
「すごいね」「えらいね」とみんなが言ってくれる。
それで自分は正しい方向を向いていると安心できる。

内実を問われることに対する恐れが、メッキを他所から拝借する行為を生む
つまり、「自己防衛反応」と僕は捉えています。
なかなか根の深い問題だな、と感慨深くなる次第であります。

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言語化の台頭と日本のコミュニティの変遷

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そもそも僕がこんな話をしだすのは、率直に言って、言語化ができている人と話すのが面白いし、そういう人こそどんな環境でも自分らしく働き、楽しく生活を営んでいる、という印象を持っているからです。

言語化の能力が鍛えられる背景―アイデンティティとコンテクスト | 秋田で幸せな暮らしを考える

「言語化」や「コミュニティ」というキーワードについて把握しようとする僕のモチベーションの源泉は、ほとんどここにあるといっていいです。
「言語化」の能力を持っていること、あるいは「都市型コミュニティ」の中で生きることができること。
これこそが「個人化」が進む21世紀において、幸せな暮らしを送る条件になっているように思います。

仕事、そして生活面における他者(家族や自分が暮らす地域・社会)との関係性の両方を充実させること。
その秘訣を探りたい、というのが、僕の原動力になっています。

農村型コミュニティと都市型コミュニティ

農村型コミュニティと都市型コミュニティという言葉は、例えばアキタ朝大学さんへ寄稿した記事でも紹介しました。
僕が「コミュニティ」というものを考えるときの大きなベースとなっており、広井良典著「コミュニティを問いなおすで出会いました。
(ちなみに、この本はおすすめです。僕も折に触れて読み返しています)

ここで改めて両者の違いについて整理したいと思います。
誤解を生みやすいので先に書いておきますが、この「農村」と「都市」という区別は、それぞれ字面そのものの農村と都市を指すものではありません。
農村(あるいは地方、田舎)では農村型コミュニティが形成され、都市(あるいは都会、東京)では都市型コミュニティが形成されるというわけではない、ということです。

農村型と都市型は形成原理で区別する

この二つのコミュニティを分類する基準となるのは、その形成原理にあります。端的には「個人」のとらえ方に差異があります。
農村型コミュニティは「共同体と同質化・一体化する個人」によって、都市型コミュニティは「独立した個人と個人のつながり」の結果として、それぞれ構成されます。
前者は同心円状にその勢力を拡大することで大きくなり、その暗黙的な同質性が前提としてあります。
一方、後者は個人の異質性を前提としており、明示された一定のルールや規約をベースに、個人と個人の関係性がつくられていきます。

二つのコミュニティの形成原理の違いについてもう少し細かく見ていきましょう。
両者の違いは、コミュニテイからの要求が先に来るか後に来るか、という点に現れるのではないかと僕は考えています。

農村型コミュニティは所属するかどうかが決まるや否やいろいろな条件を満たすように要求します。
例えば海士町は14の地区に分かれておりますが、区費を支払う必要があったり、ぢげ掃除など各種行事に参加しなければならなかったり、地区ごとにルールがあります。
そしてそのルールはIターンも遵守する必要があります。
移住した途端にルールを守る必要が生じ、それを遵守しなければ地区の住民としての立場がなくなります。
海士町に移住するということは、多かれ少なかれ自動的に提示される条件を受け入れる必要があるということです。
「所属したからには条件を飲め」 と迫るのが農村型コミュニティです。

反対に、都市型コミュニティは参加する前に条件の要求が先に来ます。
僕が所属するWE LOVE AKITAは基本的に誰でも参加可能であり、参加を強制するものではありません。
ところが、実際には参加条件があります。
秋田が好きとか、秋田に関する活動に自分も参加したいという動機がなければなりません。
逆に言えば、秋田が嫌いな人は加わらないし、島根が好きな人は島根を応援する活動に参加すればいい。
参加する側からすれば都市型コミュニティは条件に応じて主体的に選択可能であり、その意味では「契約的」と言えます。
「条件を飲むことに同意する(契約書にサインする)なら参加を許可する」と構えているのが都市型コミュニティです。

コミュニティに参加するより先に条件を吟味できるということは、参加条件が明示的であるということです。
一方、農村型コミュニティは暗黙のルールが支配的であると考えられます。

以上のような分類に基づけば、実際にコミュニティの形成される場が農村であるか都市であるかにかかわらず、いずれのコミュニティも形成される可能性があることが分かります。
古くから農村/都市がどのように形成されてきたか、その原理に注目してさまざまなコミュニティを分類しているというわけです。

農村型コミュニティのハイコンテクスト性

さて、農村型コミュニティの同質性を前提とした同心円状に広がる形成原理に今一度注目しつつ、農村型コミュニティにおいて「個人」の発見が阻害されるメカニズムを考えてみたいと思います。

このコミュニティの構成員は暗黙的に同質であることが了解されています。
暗黙的とは、「言わなくても分かる」ということ。同質であるということは、コミュニティ内における知識や経験の共有度が高いということです。
従って、構成員間のコミュニケーションにおいてもその特徴を指摘することができます。

抽象的な表現をとると、このような状況下では会話の中で使われる言葉は「定型化」されます。
言いたいことはコミュニティ内の文脈の中にストックされた”定型文”を活用する形でコミュニケーションは成り立ちます。
つまり、自分の言いたいことは自分で一から構築する必要が無い。当然、表現の自由度・ユニーク性は落ちますね。

このような文脈依存的な文化は「ハイコンテクスト文化」と呼ばれているものと一致する、と考えられます。
(ハイコンテクスト文化については過去記事でも触れておりますので、こちらをご参照ください)

一方、文脈に依存せず、積極的に言語等によってコミュニケーションを交わすような文化は、「ローコンテクスト文化」と呼ばれています。
これは、都市型コミュニティの特徴である、形式化された規則やルールや論理的な言語による表現を重視する傾向と重なります。

農村型コミュニティは、ハイコンテクスト文化の特徴を有しており、一方、都市型コミュニティはローコンテクスト文化であると指摘できる、というのが僕の考えているところです。

ハイコンテクスト文化における「個人」の不在

ハイコンテクスト文化におけるコミュニケーションをもう少し細かく見てみます。

ハイコンテクストな社会においては、コミュニティ内で共有されている”既存の”(あるいは既知の)文脈が支配的な位置を占めます。
文脈によって推測できることで満足するコミュニケーションによる理解があらゆるところで推奨されます。

その結果として、”既存の”文脈で説明できないものは価値を認められないということが起こり得ます。
既存の文脈外にあるものは積極的なコミュニケーションがなされる土台を持たないために、ハイコンテクスト文化において理解される機会を喪失しているのです。
僕は、このコミュニケーションの慣習が、農村型コミュニティの「個人」の発見を大きく阻害している、と考えます。

ハイコンテクスト文化においては「個人」は近似値としての「集団」によって把握されます。
逆にローコンテクスト文化においては「個人」は唯一無二の値として扱われます。
農村型コミュニティは「円周率は3.14とする」で満足してしまいますが、都市型コミュニティは円周率が無限小数である(終わりがない)ことを認めながらも、正確な値を追求するために演算を絶やすことがありません。

ハイコンテクスト文化の”既存”の文脈は、先述したとおり”定型文”的であるという言い方ができるかもしれません。
「AであればB」という認識が予め共有されていることで、はじめてAという”定型文”はコミュニケーションの中に活用されます。
逆に、コミュニティ内でこのような共通の認識が存在しない新しい文脈を導入することは困難を伴う、というわけです。

このように農村型コミュニティにおいては”定型文”的に、限定的な枠組みの中で「個人」を理解することとなるため、「個人」は均質化する傾向にあります。
ここでは、「あなたという人間は何者なのか?」という問いが明示的に発せられることはありません。
「個人」は暗黙的に、コミュニティ内の”既存”の文脈に基づいて相手に理解されるのが普通であって、「私は何者か」を言語によって積極的に説明するシチュエーションに出くわすことは、実はほとんどないのです。

日本は世界的に見ても極めてハイコンテクストな社会であるとされています。
もともと日本語に「Self-Identity」に該当する日本語が存在しなかったという話も、うなずけます。


批判的な書き方になりましたが、ハイコンテクストな社会でなければ出現しなかった文化もあります。俳句や短歌はそのひとつでしょう。
また、「あなたは何者か」を問わない農村型コミュニティは寛容である、と捉えることもできます。

グローバリゼーションが歪ませる農村型コミュニティ

こうしてみることで、農村型コミュニティでは「個人」という概念が希薄であるということの一定の説明が可能になったように思います。
日本語では「自己同一性」と訳される「アイデンティティ(Self-Identity)」という概念について言えば、同質性が前提としてある農村型コミュニティにおいては自己と他者の区別も明確ではなく、他の何者でもない自分を自覚することは困難な作業だったのではないでしょうか。

これを踏まえれば、グローバル社会において進行する「個人化」という社会構造と農村型コミュニティの形成原理との間に齟齬があることが分かります。
そもそも農村型コミュニティにおいては「個人」という概念が希薄なのですから、コミュニティが解体され「個人」という単位がむき出しになった社会の中で、農村型コミュニティの元構成員たちが適切に振舞えるのか、という問題が生じるだろうとは容易に想像できます。

その結果として良く槍玉に挙げられるのが「孤独死」という事象ですが、コミュニティの解体により表面化した”社会の膿”は、より複雑な側面を持っているように思います。
例えば、(学識ある方からの指摘も多いところですが)「秋葉原通り魔事件」もまた、所属するコミュニティを失った一人の男性の悲劇として捉えることができます。
僕が現代社会の構造の歪みを強烈に意識するきっかけとなった「大阪市・2幼児遺棄事件」も、コミュニティの喪失による孤独なシングルマザーという加害者像をイメージさせます。

これまでの農村型コミュニティと「個人化」する社会の齟齬が”歪み”を生じさせている中、そこここで発生している悲しい事件は、社会の傷口である”歪み”から垂れ流されている”膿”のイメージを想起させます。
しかし、上に挙げた二つの事件の加害者は、「個人の倫理観の欠如」や「異常性」ばかりが指摘される結果となりました。
僕らは、「こちら」と「あちら」というように自分たちと加害者を容易に区別するだけで、言うなれば加害者たちを”膿”と見て、それを洗い流すことだけで事なきを得ようとしているのではないでしょうか。
僕らは社会構造の”歪み”の修復に着手することはなく、未だ発見されぬまま放置された”歪み”からは静かに、しかし淡々と”膿”が流れ続けている。
残念ながら、そんな状況のように思えてなりません。

コミュニケーションはどう変わるのか

グローバリゼーションの到来が、社会の「個人化」を推し進める働きをしたと書きました。
この点は既にメディアでも取り上げられており、多くの社会理論でも指摘されているところです。

「個人化」が進んだ結果、”既存”の文脈はますます共有の難しいものになりつつあります。
併せて、シングルペアレント世帯の増加などライフサイクルも多様化し、一人一人をまとめてラベリングし、集団的に理解するという行為がますます成立しにくくなっています。
そのため、最大公約数的なモデルケースをベースにするという発想に基づいた社会的な支援では、個人の抱える問題を処理できなくなり、結局個々人が自らの課題を自ら解決する必要が生じてきます。
この構造は「自己責任」の論調に拍車をかけており、就職できないことも結婚できないことも貧困に陥ることもすべて個人の自己責任として片付けられる傾向があることも見逃せません。

「個人」が強調されたために、お互いを理解できる共通の文脈は失われつつあります。
ここにおいて人と人との間のコミュニケーションを成立させる方法を改めて考えるべきでしょう。

農村型コミュニティが用いていたような共有可能な文脈を新しく創り出すか、「個人化」を徹底的に推進するか。
いずれにせよ、これまで用いられてきた文脈の活用は期待できず、言語等をベースとした積極的なコミュニケーションが求められることが予想されます。

伝えるべきことを一から言葉にすること。
「わたし」と「あなた」の間を隔てる差異を飛び越えるだけの表現力と説得力を持つこと。
これを僕は「言語化」と呼び、 「個人化」の時代において必要なのは「言語化」の能力である、と考えるわけです。

「言語化」とは、「差異とは何か」を暗黙的でない形で(明確に近くできる形で)表現/理解すること。
繰り返しになりますが、「わたし」と「あなた」はすでに明確な差異を持つことは前提とされています。
(実際、「みんなちがって、みんないい」という言葉があるのですから!)
これこそが「個人化」時代のルールであり、「言語化」の能力が求められる背景なのです。

まとめに代えて

ここまで、「言語化」の台頭した経緯を僕なりに整理しました。
長くなりましたが、これまでブログで書いてきた内容をここにまとめられた感があります。

では「言語化」の能力はどうやって鍛えられるのか。
まだ僕の中で課題として残っていますが、「他者」の認識が重要になるだろうという仮説を持っています。
そのあたり、「「他者」を発見する国語の授業 」などを参考にしながらまとめていきたいと思います。

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