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アクティブラーニングなるものの取り扱いについて

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アクティブラーニングをどのようなものと捉えればいいのだろうか。(一斉講義と対立する意味での)授業手法のことなのか、思想の問題なのか。情報を得れば得るほど、全体像が掴みづらいものになっている。あたかも「地域活性化」のようなバズワードの宿命を辿っているようにもみえる。

一つ言えるのは、アクティブラーニングは手段であり目的ではない、ということなのだろう。アクティブラーニングは、それ自体が万能なものではない。結局は、限られた時間の中で学習者の学習を最大化するという目的を実現するための試みであって、それはもちろん長年の一斉指導の歴史の中でも同様に中心に据えられた目的だったはずだ。だから、アクティブラーニングを一斉指導と対立させる分かりやすさは、一方でアクティブラーニングというものへの誤解を生む温床にもなっている。

しかし、一斉指導が当たり前であり続ける以上は、教員の授業力の担保に限界がある、というのも良く分かる。アクティブラーニングというタグ付けをすることで、試験だけでなく普段の授業から「学生が知識や技能を習得し、能力を身に付けているかどうか」に注意を払うことが促されるかもしれない。それだけでも、学校教育は進化を遂げるはずだ。

もちろん、そんなことを言われる前からきちんと学習者を中心に据えて授業を実践してきた先生方からすれば、ここに何か真新しい議論があるようにも見えないのだろう。アクティブラーニングというものに対しては、だからこれくらいの期待値でよいのかもしれない。何も特別な話ではないのだ。

こんな動画もある。もし興味があれば、全体像を知るのにちょうどよいかもしれない。


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まずは(目的よりも)手段・方法・技術を身に付けるべき理由

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やる気の問題にする前に

勉強が苦手になるメカニズムについて考えてみる。

必要とされるレベルと自分の現状のレベルとがあり、
このギャップを自力で埋められなくなってしまうと、
いわゆる「つまずき」と表現される状態になる。

現行の学校教育の場合、多少の調整はあるものの
授業は個々の生徒の理解度とは無関係に進む。
どこかの時点でギャップが生じるのは避けられない。

ところが、構造的に生じるこのギャップを埋める方法を
学校の中で教えてもらった記憶がさっぱりない。

「ちゃんと復習しろ」「毎日こつこつやれ」と発破をかける以外は、
試験勉強のタイミングで頑張って穴を埋めることが
事実上の期待される唯一の手立てになっている。

しかし、「ギャップの埋め方」を知らないのに
「もっと頑張れ」と言われたところで、何ができるだろうか。
そもそもどこから手を付けたらいいのかわからないのだ。
やる気の問題?違う、これは「方法」の問題ではないか。

「方法」を割と軽視する社会で

「方法」を知らず戸惑っている状態を
「やる気の欠如」の問題にすり替えることが多いためか、
この社会は「方法」や「技術」を軽視している印象がある。

個人的には、むしろ「方法」や「技術」、あるいは
問題解決の「手段」を幾らかでも知っているということが、
社会と接点を持つきっかけをつくるのだと思う。

若者が政治に無関心(と言われる)のも、
例えばどういう基準で誰に投票すればよいのか、
社会に影響を与えるためにどう投票すればよいのか、
「How」の部分が欠けているだけなのかもしれない。
「What」はむしろ後からついてくる。

というような仮説を持ちながら、
今年度末まで生徒と関わってみたいと思う。

 

 


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リア充と非リアの分かれ目についてのちょっとした仮説

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備忘録的に。

世の中には2種類の人がいる。
1つは「リア充」、1つは「非リア」である。

自分を取り巻く周囲の環境に適応したいという欲求と、
適応しろという外部からの要求は常に存在する。

そういう中で、「自分はこうしたい」という欲求や、
そのために生じる環境への違和感も(恐らく)必ず発生する。

前者を優先させた結果が「リア充」であり、
後者を優先させた結果が「非リア」。

 

もう少し踏み込んで表現しよう。
「適応」を重視し、環境の中で地位を獲得する「リア充」。
「適応」よりも自分の「純度」を保つことを重視した「非リア」。

こうした見方をしてみると、
「適応」の結果「純度」を損ない続けていた「リア充」は、
環境変化に弱いのではないか、と思えてくる。
「リア充」は恐竜なのだ、という見方。

一方、「非リア」の中からは「純度」を保てる環境を選ぶ、とか、
「純度」と「適応」を両立する可能性を模索する者も出てくる。
それは、必然的に変化をもたらす動きだ。
もしかしたら、最後に生き残るのは「非リア」なのかもしれない。

ちなみに、「適応」が自分の「純度」を損なわないあり方が
生来的に実現できてしまう者もきっといるのだろう。
そういう者たちは”真性”の「リア充」と言ってよく、
下手にベンチマークや憧れに設定してしまうと危ない。

 

こんなことを考え始めたのは、いわゆる「リア充」として
大学生活を謳歌していた人が就職活動で突如として躓き、
あるいは何か言っているようで何も言っていないような
志望理由を暗唱し始める、という事態を見てきたからだ。

ある環境に「適応」し、マジョリティで居られたからと言って、
異なる論理が働く環境への移行がうまく行く保証はない。

「適応」の誘惑の中で自分の「純度」を保ち続けること、
「自分の内なる声に耳を傾ける」ことができた人が
僕の周りには多いし、楽しく暮らせているし、
「純度」を高め維持するための感性を磨くべき、
という風潮も徐々にだが確実に浸透してきている。

 

「適応」と「純度」の両立という課題は、
多くの人が学校生活で直面してきたことだ。

そして、これまでは「適応」への要求が過剰だった。
結局はそれが僕の問題意識なのだと思う。


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