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「コミュ障」の原因と克服の方法を自分でなく他者に求めてみる

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「コミュ障」を「信頼」の問題と捉えてみれば

コミュニケーションに何らかの困難を抱えている人に対して
やや揶揄的に(あるいは自嘲的に)「コミュ障※」というタグが付くようになった。

「コミュ障」の特徴については読者のイメージするところに委ねるが、
こうした状態はより端的にこう言い換えられるのではないか。

コミュニケーションする自分も相手も信頼できていない状態

「コミュニケーション能力がないと思われるのではないか」
「相手は自分に興味を持ってくれないのではないか」

冒頭のツイートに戻ると、「黙る」から「喋る」への移行を通じて、
コミュニケーションする二者への信頼は高まったのかが問題となる。

※「コミュニケーション障害」の略。
ここでは学術用語の射程外にある用法について扱っています。

「自分を変える」は不信から始まる

「黙るコミュ障」、「喋るコミュ障」という表現に注目してみると、
コミュ障の克服のために「自分」を変えようとしているのだと読める。

「面白い話ができる」「相手の興味・関心を引くことができる」
そんな自分になるために「黙る」から「喋る」への移行という試み。

これはコミュニケーションする二者への不信から始まっている。

「黙っている自分は無価値だ」、そんな価値観が見て取れる。
それはつまるところ「自分」への不信だ。

「面白く喋らないと、相手は自分の話なんて聞いてくれない」
ここには「相手」への根本的な不信が存在している。

根っこの部分にネガティブな感情があると辛い。
変化の結果によってポジティブな状態に到達できればよいが、
そうでなかった場合のダメージ、揺り戻しもまた大きくなる。

このやり方はダメとは言わないし、選択肢の一つとは思うが、
万人に推奨する方法としてはリスクが大きいかもしれない。

聞き手を変えてみる

「自分」と「相手」への不信が原因であるとすれば、
逆に信頼してみることから始めるのもありではないか。

もちろん、深く根差した不信を変えるのは難しい。
そこで「信頼できそうな相手を見つける」という方針をとる。
話を聞いてくれそうな他者を探してみるのだ。

そもそも、本来なら家族や友人など
身近な人に話を聞いてもらうことを通じて、
人はコミュニケーション能力なるものを身に付けていくのだと思う。

話を聞いてもらえたという経験がないから、
「自分に問題があるのか」、「相手にとって自分は価値がないのか」、
そんな不安を抱え込んでしまうのだと思う。
聞き手であった他者に原因を求めるとは、そういうことだ。

だから、自分がしたい話を聞いてもらえる相手を見つけてみる。
共通の趣味をもつ人でもいいし、誰にでも優しい人でもいいし、
顔も合わせたことがないWEB上のつながりでもいい。
依存的になると相手に負担がかかるので、とりあえず1回だけでいい。

話すという行為のカギを握るのは聞き手である

僕自身、とあるロールプレイを経て強く実感したのだが、
話すという行為は、聞く人の姿勢や態度に大きく左右される。

話を聞いてもらえる、安心して話したいことを話せる。
そのためには自分でなく聞き手を変えた方が手っ取り早い。

良い聴き手の代表例であるカウンセラーは「聴く」専門家だ。
逆に言えば、カウンセリングに通うクライアントの語りというものは
専門性をもつ聴き手によって成り立つとも言える。

「自分の話には価値がないのではないか」と感じるならば、
それは聞き手がそういう聞き方をしてしまっているに過ぎない。

人間不信、コミュニケーション不信がいきすぎる前に、
自分ではなくコミュニケーションする相手を変えてみる。
話し手に安心感を与えてくれる聞き手を見つけてみる。
(或いは、そういう他者がどこかにいるはずだと考えてみる)

そうして救われる人は、割と多いのではないかと思う。

仮説:「コミュニケーション能力」という嘘

コミュニケーションにおける聞き手の影響力を考えると、
「コミュニケーション能力」が個人に問われているということが、
「コミュ障」というタグ付けが起こる要因であるように思う。

繰り返しになるが、コミュニケーションは相手がいて成り立つ。

相互作用で育まれるものの見た目上の欠如の原因を
個人の責任や努力不足に求めることが果たして適切だろうか。

「コミュニケーション能力」の有無が「障害」と呼ばれるほどに、
ある人にとってその発達がとても困難なものとなっているのは、
そもそもの捉え方が間違っているからではないか。

「コミュニケーション能力の低下」を認めるならば、
それを育む聞き手の不在という社会全体の問題に帰結する。

そもそも「コミュニケーション能力」なるものが
個人の努力以外の影響からも左右されるとすれば、
「コミュニケーション能力」なるものは個人の課題ではなく、
それはむしろ社会的なものとして、或いは社会そのものの”能力”として
再定義されねばならない、という踏み込んだ見方もできる、と思う。


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勉強へのやる気の出し方:やる気は適切に使って増やす

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「やる気はあったのに…」

今日は勤務先の冬休み開け最初の授業だった。
長期休暇後、生徒に必ず聞くことがある。

「学校の宿題は終わったか?」

案の定、始業式当日にも関わらず未完了の生徒がちらほらいた。
僕が受け持つのは大学進学を希望する高2生。
完了している生徒の多くも始業式前に慌てて仕上げにかかっている。

彼らは不真面目でやる気がないのか?
いや、そうではない。

冬休みに入る前の彼らは「勉強しなきゃ」と語っていたし、
来年から受験生となる自覚をしっかりと持っている。

それでも、冬休みの宿題すら終わらせられないのだ。

やる気は使えば使うだけ増える(※ただし適切な使い方に限る)

それを受けて、彼らにこんな話をした。

やる気は使えば使うだけ増える。
勉強でもノリにのっているときはそんな感覚になるはずだ。
それはやればやっただけ成果が出る手ごたえがあるからだ。

逆に、やっても無駄なことに対して、あるいは適切でない状況下で
やる気を燃やしても、やる気は浪費される一方だ。

終わりが見えない作業を義務感なしでやり続けられるだろうか?
大みそかや正月の雰囲気で勉強できるだろうか?
家族と旅行に出かけているタイミングで勉強したくなるだろうか?
そんな場合でも集中して勉強できるという人の方が珍しい。

冬休み突入時からやる気にあふれ、真面目な君たちは、
きっとクリスマスの誘惑で勉強できなかった自分を嫌悪しただろう。
しかし、それが当たり前なのだ。
そんなところで真面目な自分を保とうとする必要はない。
その罪悪感がやる気を削いでいるのだから。

勉強に不適切な状態でやる気を燃やし続けていれば、
後半になるにつれてやる気が目減りするのは当たり前だ。
休むときには後ろめたさを感じること休め。
その分やれるときに集中的にやる気を発揮しろ。

割と生徒が納得してくれたので、ブログでも紹介することとした。
こんな話でも誰かのためになると良いのだが。


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周囲への感謝の芽生え:give and give再考

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生徒の何気ない変化から

島に暮らし、教育の仕事に携わり始めてから5年目。
毎年高校生を世に送り出すような仕事をしていると、
ふとしたときに生徒の変化に気づくということはどうしてもある。

今年は学科試験でない形で進路実現を目指す生徒が多い。
つまり、志望理由書、面接、小論文、GDなど、
学科試験対策とは異なる指導が必要ということであり、
それらはどうしてもイレギュラーな個別対応になる。

なるべくコンスタントに指導できるように分担してはいるが、
教科指導も通常営業中、レギュラーで対応するのは難しい。

そのため、生徒は大人に諸々の指導を依頼する必要が生じる。
生徒から見れば、自分のために大人の時間を使わせてもらうことになる。
依頼してくる生徒の恐縮した態度を見ても、その認識はやはりあるようだ。

面接指導は、意図せずとも生徒の「ありがとうございました」で締め括られる。
こちらのフィードバックは必死にメモをし、特に指摘のなかった部分でも
自分の中で不安に思っている点は素直に質問してくる。

こうしたひたむきさは、1、2年次の教科指導であまり見られないものだ。

人に頭を下げるということ

生徒は、依頼時に頭を下げる行為を無意識に行っていると思う。
彼らにそう促すものが「受験」であることは言うまでもない。

それまでは「してもらうこと」が当たり前だったのかもしれない。
教科指導の必要性を感じていなかったわけではないはずだ。
勉強の先に自分の将来が接続されていなかったのだろう。

具体的で、そう遠くなく、かつ自分の人生へのインパクトが大きい。
例えばそうしたゴールを自らの責任の内に引き受けるとき、
人は他人に頭を下げることができる。そう考えることもできそうだ。

それは仕事でもあてはまるように思う。
「やらされ仕事」の中で感謝が芽生えるという印象はあまりない。
せいぜい感謝される喜びに触れるに留まるのだろうが、
しかしそこで生じる感謝は、発信者にとっても受信者にとっても
どこか歪なものとして交わされてしまう気がする。

そうではなく、目の前のことに自分の前向きな意志が介在し、
必要性や意義を見出せており、やらないという選択肢がもはやない。
そんな状況下であるとすれば、前進のために逡巡している暇はない。
やらなければならないことを必死で考えるだろうし、
途中で他人を頼る必要があるならば、素直に頭を下げる。
前進させたい主体が自分であるとシンプルに思えるならば、
与えられたものにはごく自然に感謝ができるのではないか。

“give and give” 再考

「感謝」について色々と考えているうちに、
“give and give”もまた、前提として”take”が必要ではないかと気づくに至った。
“give and give”する側になるには、
“take”する側(“give”される側)にまずなっておくべきなのではないか、と。

見返りを求められない好意を受けていたことが、
見返りを求めない”give”を提供する側の素養となる。

また、”give”は”take”のニーズによって成り立つ行為だ。
“take”したい人がいて、それに応じられる人が”give”をする。

与えることの喜びは、与えられる喜びから学ぶことができる。
そんなことを思っている。

“give and give”の精神は多数の”take”から始まるかもしれない

先日、”give and give”について思いついたことを整理してみた。
今回の記事で深められたのは、”give”に先立つ”take”とは何か、だ。

生徒がそうだったように、「頭を下げる」という行為は、
“give”なく”take”を求めることと言える。
どうしても達成したいことがあるから「頭を下げる」のだ。
そして、ここで戻ってくる”give”は見返りを求めるものではない。
だから、周囲への感謝の念が自然と湧いて来る。

こうしたサイクルを繰り返す中で、いつしか器から感謝の念が溢れ、
ごく自然に”give and give”のスタイルに転ずる。

社会起業家と呼ばれる人たちもまた、この軌跡をたどったかもしれない。
そんなイメージが湧いたのだった。


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