Category Archive: 自分事

意味や価値があることじゃなくて好きでやることを増やしたい

カテゴリ:自分事


フリーランスに近い状態になってから、「稼ぎになりそうなことをやろう」「自己研鑽につながることをやろう」という考えが前面化している、ということに最近気づいた。お金になるかどうかは脇に置き、「好きでやっている」「誰に言われずともやってしまっている」ものをもっと増やした方がバランスが良い気がする。

振り返ってみると、「意味あること」「価値になること」を意識しだしたのは最近のことではない。たぶん、それこそ就職活動のあたりから、「お金になる力がほしい」というのはずっと関心事だった。それ自体は悪いことではないし、自分に投資するような時間の使い方をするようになったことが今につながっているのは間違いない。でも、以前はもっと余裕があった。「好きなように本を読み、興味のあることを追い続ける」ことがゆるく将来につながるだろう、くらいの気持ちだったように思う。

今は近視眼的な反応をしてしまっている。1月ごろから読書が全然できなくなったのもここに起因しているかも。あまり外に出なくなったのは雪のせいもあるが、「すぐに仕事につながるかどうか」という判断基準があったのかもしれない。

結果的に、こういう状態に陥っている。

・すぐ結果が出ること自体そもそも少ないから、短期的なリターンばかりに目がいき動きがにぶる(→結果、リターンも減る)。
・単純に好きなもの、特に理由なくやりたいと思うものに対して鈍感になる(→純粋にやりたいことがわからなくなる)。

動き出すと寝る暇がないほど忙しくなりそうという心配はあるけど、動けなくて結果的にぽつぽつ暇がある方が自分にとっては苦痛かもしれない。別に外に出なくてもいいけど、「あれをしよう、これをしよう」と思いつくことがぽんぽん浮かぶ状態になるといいのかな。

4月に入ってもリセットできていないけれど、GWを挟んで方向転換したい。


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「もったいない」をなくしたいのかもしれないという話

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以前から「人と人とのかかわり方のかみ合わせをよくしたい」というモチベーションが自分の中にあるって感じていたのだけれど、それって具体的にどんな感情に根差すものなのだろうか、ということを改めて考え直す場面があった。どうも、「もっと前向きな関わり方ができて、相乗効果が生まれる可能性があるのに、その人のモチベーションが生かされていない」と感じると、なんとなく萎えてしまうらしい。

「かみ合えばもっとうまくやれるはずなのに、もったいない

そう、「もったいない」と思ってしまう。「もったいない」を何とかできないものかなという思考が勝手に走る。落としどころを探そうとする。「その会社辞めてこういう会社探したらいいのに」とか。それを実行に移すどうかはまた別の話で、それはその状況と僕自身との距離感とか、僕自身が作用できそうかどうかという変数が加わる。

いつでも「もったいない」と思うわけではなくて、そもそも消極的に関わっていて不満ばかり言っている状態とか、そういう様子を見てもあまり心動かされない。前向きな気持ちや希望を持っていたのに、とか、関わり方や見方を変えれば今あるリソースでも良い変化を起こせそうなのに、みたいな感じ。「もっとよくなるかも」「まだ可能性はある」と思うから「もったいない」と思える。そもそものスタートからおかしいよね、と感じた時には、「もうやめちゃえば?」とか平気で言ってしまう場面もある。つまりそこに発展性を見出せないものを改善しようというモチベーションは、あんまりない。

人には向き・不向きがあるし、合う・合わないがあるという前提がある。だから合わない状態なら「合わせる」と「状況をそもそも変える」という選択肢があって、「合わせる」ことに意味を見いだせるかどうかは、ケースバイケース。どうしようもなく合わないよね、向いていないよね、という話と、かみ合わせが悪いよね、という話がある。後者なら、もしかしたらその状況の中でも工夫次第で何とかなるかも、という感じ。

 


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浅い話し合い、あるいは「対話っぽいもの」で留まらないために

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ワークショップやそれに準ずる会を企画・運営したり、一人の参加者として輪に加わったりする中で、深い対話というのは本当に難しいなということを毎度感じる。ちゃんとお金を払い、そういう場に出ていく必要を感じている。さしあたって、何によってやり取りが「浅い」状態で留まってしまうのかを考えるために、思い至るところをいくつか挙げてみた。

・チェックイン/チェックアウトの意義がいまいちわからない

導入の定番として「チェックイン/チェックアウト」というのがある。「ホテルに入るときのように」チェックインしましょう、という言い方を良くするのだけど、その語源がまずしっくり来ていない。「自分の今の気持ちや状態をシェアし、ただ受け止める」「準備できた人から発言する(順序を定めない)」というのがオーソドックスなチェックインと認識しているが、これが理想的に機能したとすれば、その目的はとても効果的である、というのは直感的によくわかる。即ち、本題に向けて気持ちをオープンにするとか、状態をシェアすることで相手の背景に配慮することができるとか。

しかし、「チェックインをしましょう」と言って指示したところで、率直に感情を表現できる人はそれほど多くない。オーダーを無視して長々としゃべる人もいる(ご年配に多い)。あるいは心ここにあらずの教科書的コメントで切り抜ける人もいる(男性に多い)。慣れている人はいい感じのお手本を示してくれるが、一般の人にこれを期待するわけにもいかない。

もちろん正解/不正解はないのだろうけど、「果たしてこんなことに時間をかける必要があるのか?」という疑問がつい湧いてしまう。「ああ、いいチェックイン/チェックアウトだった」と思えたことがほとんど記憶にない。あるいは、チェックインに対する期待値が高すぎるのだろうか? 「やらないとマイナスだがやってプラスになるわけでもない」くらいのものなのだろうか?

・対話的コミュニケーションに慣れていない人たちのこと

自分をさらけ出し、ときには自分の意見や考えを疑い、他の意見にただただ耳を傾け、その全体をとらえていこうとする。こう書くだけでも対話的コミュニケーションというのは非常に難易度が高く、僕自身も常にそうできるかは自信がない。対話を別に良しとしてこなかった人たちならばなおさら無理ゲーだと思う。

なのでメンバーが厳選されているときでもなければ基本的には僕はそこを諦める。対話が生まれなくても良いようにする。その分、内省の時間をとるかもしれない。考えたことはシェアしたければシェアするくらいのスタンスで。

こう書いたところで、この諦め自体がまた場に影響をもたらしているかもしれない、ということに思い至る。それは前述のとおり僕自身がそうしたワークショップ等の場で「対話」を経験したことはない、という認識があることに由来しているように思えてきた。

・「こうして/こうしないで」と言われてもできないものがある

ブレストして集約してアイデアまとめる、みたいなやり方だと、「否定はしないでね」とか言えば割と自制してくれる。「意見を否定する」という行為は良くないことというのはコンセンサス取れやすいので、普段は否定しまくっている人にも効果があるように思う。こういうケースは特に深くなくても良い。

逆に、対話的にやろうとしたときに、たとえば「相手の言いたいことを先取りしないでください」みたいな方向付けは、意義は理解してもらえても実際にそれをどう自制すればいいかわからないという事態に陥りそうである。

以前にも、対話を大切にしたワークショップにわざわざ参加した人たちが、ある相手の状況を決めつけてそれに意見し問題解決を図ろうとする様を見て、「自覚するってなんと難しいことなのか」と感じたことがある。

 

ここまでざーっと書いてみたけれど、結局、心のどこかで「対話的なコミュニケーションを生み出すのは無理」と認識しているのが問題の根源のような気がしてきた。もう少しひも解くと

・僕自身が他人に対して心を開く際に課題がある
・一見対話的な態度でない他人に対する信頼が薄い
・期待値が低い(から結果もそれに準じてしまう)

といったところだろうか。もっともっと内面も外面も溶けていくような時間を過ごすことで、また世界観が変わるような気もする。


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