Category Archive: 自分事

浅い話し合い、あるいは「対話っぽいもの」で留まらないために

カテゴリ:自分事


ワークショップやそれに準ずる会を企画・運営したり、一人の参加者として輪に加わったりする中で、深い対話というのは本当に難しいなということを毎度感じる。ちゃんとお金を払い、そういう場に出ていく必要を感じている。さしあたって、何によってやり取りが「浅い」状態で留まってしまうのかを考えるために、思い至るところをいくつか挙げてみた。

・チェックイン/チェックアウトの意義がいまいちわからない

導入の定番として「チェックイン/チェックアウト」というのがある。「ホテルに入るときのように」チェックインしましょう、という言い方を良くするのだけど、その語源がまずしっくり来ていない。「自分の今の気持ちや状態をシェアし、ただ受け止める」「準備できた人から発言する(順序を定めない)」というのがオーソドックスなチェックインと認識しているが、これが理想的に機能したとすれば、その目的はとても効果的である、というのは直感的によくわかる。即ち、本題に向けて気持ちをオープンにするとか、状態をシェアすることで相手の背景に配慮することができるとか。

しかし、「チェックインをしましょう」と言って指示したところで、率直に感情を表現できる人はそれほど多くない。オーダーを無視して長々としゃべる人もいる(ご年配に多い)。あるいは心ここにあらずの教科書的コメントで切り抜ける人もいる(男性に多い)。慣れている人はいい感じのお手本を示してくれるが、一般の人にこれを期待するわけにもいかない。

もちろん正解/不正解はないのだろうけど、「果たしてこんなことに時間をかける必要があるのか?」という疑問がつい湧いてしまう。「ああ、いいチェックイン/チェックアウトだった」と思えたことがほとんど記憶にない。あるいは、チェックインに対する期待値が高すぎるのだろうか? 「やらないとマイナスだがやってプラスになるわけでもない」くらいのものなのだろうか?

・対話的コミュニケーションに慣れていない人たちのこと

自分をさらけ出し、ときには自分の意見や考えを疑い、他の意見にただただ耳を傾け、その全体をとらえていこうとする。こう書くだけでも対話的コミュニケーションというのは非常に難易度が高く、僕自身も常にそうできるかは自信がない。対話を別に良しとしてこなかった人たちならばなおさら無理ゲーだと思う。

なのでメンバーが厳選されているときでもなければ基本的には僕はそこを諦める。対話が生まれなくても良いようにする。その分、内省の時間をとるかもしれない。考えたことはシェアしたければシェアするくらいのスタンスで。

こう書いたところで、この諦め自体がまた場に影響をもたらしているかもしれない、ということに思い至る。それは前述のとおり僕自身がそうしたワークショップ等の場で「対話」を経験したことはない、という認識があることに由来しているように思えてきた。

・「こうして/こうしないで」と言われてもできないものがある

ブレストして集約してアイデアまとめる、みたいなやり方だと、「否定はしないでね」とか言えば割と自制してくれる。「意見を否定する」という行為は良くないことというのはコンセンサス取れやすいので、普段は否定しまくっている人にも効果があるように思う。こういうケースは特に深くなくても良い。

逆に、対話的にやろうとしたときに、たとえば「相手の言いたいことを先取りしないでください」みたいな方向付けは、意義は理解してもらえても実際にそれをどう自制すればいいかわからないという事態に陥りそうである。

以前にも、対話を大切にしたワークショップにわざわざ参加した人たちが、ある相手の状況を決めつけてそれに意見し問題解決を図ろうとする様を見て、「自覚するってなんと難しいことなのか」と感じたことがある。

 

ここまでざーっと書いてみたけれど、結局、心のどこかで「対話的なコミュニケーションを生み出すのは無理」と認識しているのが問題の根源のような気がしてきた。もう少しひも解くと

・僕自身が他人に対して心を開く際に課題がある
・一見対話的な態度でない他人に対する信頼が薄い
・期待値が低い(から結果もそれに準じてしまう)

といったところだろうか。もっともっと内面も外面も溶けていくような時間を過ごすことで、また世界観が変わるような気もする。


関連する記事

相手の「言語」を話すということ

カテゴリ:自分事


「変化の原理」を読んで印象に残っていたのが「相手の『言語』を話す」という表現だった。ブリーフセラピーの現場では、治療者はクライアントに具体的な指示を出す。しかし、その指示通りに動いてくれるかどうかは、そのクライアントに合わせて指示を出せるかどうかがポイントとなる。

教員が、学級崩壊の如く騒然とした教室で「先生の言うことを聞きなさい!」と大声で指示したところで、子どもたちがその指示に従わなさそうであることは想像に難くない。相手に指示をするということは、そのまま相手が指示通りに動くという結果を生み出すわけではもちろんない。

相手の「言語」を話すということ

相手の「言語」を話すということは、「話し手がどんなふうに世界を見ているのか丸ごと感じ理解しようとする」ためのアプローチの一つだと思う。「話し手を観察する」のではなく、「話し手の目から見える世界を見る」という試み。相手が意識するしないにかかわらず用いる言葉を大切に扱い、相手の話をそのままに受け取り、それを損なわなずに話す、という言い方がよいのかもしれない。

センスもあるのかもしれないが、自らの感受性を、相手の「言語」をきき、きき手の側もそれを用いるということに集中させるという意味では、かなり意識的な働きが強いのだろうと思う。僕自身、インタビューを幾つか実践してみると、出来不出来は置いておいても、そうして意識的にきこうとすれば、驚くほど消耗が激しいことを自覚する。

その意義

どうしてそんなことをわざわざしようとしているのか、を改めて考えてみた。僕が考えているメリットは例えば以下のようなものになる。

・話し手の「言語」を用いることが話し手の納得、「きき手はちゃんときいてくれている」という安心につながる。
・話し手が自分自身の「言語」を自覚し、これまで疑いもせず振り返ることもなかったこれまでの認識について深く考えるきっかけにつながる。
・話し手の言葉をきき手が理解した「つもり」になってしまうことを避け、謙虚な態度で話し手の言葉に耳を傾けることができるようになる。

これらの観点は「ひとのはなしを遮らず促すようにきく」ことを主要な関心としている。しかし、そこからさらに一歩踏み込んで「話し手の抱えている課題や悩み事を解決する」という段階になっても有効であると思っている。例えば、こんなふうに。

・話し手の文脈に無理のない形で介入(冒頭の言葉を用いるならば「指示」)することができる。
・話し手が「課題を解決できていない」状態を責めるのではなく、むしろそうした状態でありながら自分なりに課題に当たろうとする態度に目を向けることで、敬意をもって対応することができるようになる。

特に相談を受けるようなケースでは、相談をする側の方が立場が下になりやすい。そういうとき、敬意をもってきくことの重要性が増してくる。「どうせこんなことで悩んでるんでしょ」といった具合についついパターン化したくなるところをぐっと抑えないといけない。

その背景・人間観

というようなことを考えていると、なんとなく、ある一つの人間観のようなものが見えてきたのだった。単純に書くと、こうなる。

「ある人にとっては、その本人が最大の当事者である」

例えば「悩み事」にフォーカスしてみると、その最大の当事者であるということは、その「悩み事」について最も多くの情報量を有し、最も長い時間をかけて向き合い、最も試行錯誤(あるいは四苦八苦)している、ということ。その本人を差し置いて誰がその人の「悩み事」を解決できるのだろうか、というスタンス。

これは「解決に至れない本人に問題がある」という自己責任論につながる危うさがあるが、そういうつもりはない。相手の「言語」を用いながらコミュニケーションをとることが、相手は自分の認識をよりクリアに自覚する助けになるかもしれない。そうして真の問題が見えてくることで、本人が自らの力で解決できるかもしれない。この可能性を信じる、というニュアンスを強調したい。

人それぞれ世界をどう見ているのかは異なるという前提に立つことではじめて、きき手が自分の理解や考えを押し付けるのではなく、その当事者の言葉に耳を傾けることの意義に目を向けることができるのだと思う。


関連する記事

委ねるとか、任せるとか、手放すとか、してもらってたんだなって

カテゴリ:自分事


「少年自然の家」というものがどれくらい一般的なのかは秋田で子ども時代を過ごした僕にはわからない。自然体験やキャンプ、カヌーといったアクティビティ、あるいは集団生活の実践を通じて青少年を育もうという目的を以て建てられた施設がある。そこは小学校単位での林間学校(その言葉を僕自身は使ったことはないが)の会場として利用されるほか、施設単体で独自のプログラムを企画し、近隣の小中学生を受け入れていた。

僕は小学校4~6年の間に「保呂羽山(ほろわさん)少年自然の家」に12回ほど足を運んだと記憶している。そこのプログラムはほとんどが宿泊を伴うもので、基本的には親は同伴せず子供たちと施設側の大人+ボランティアだけで過ごすことになる。たいていは週末や連休に設定できる1泊2日か2泊3日の日程が多かったように思う。期間中ひたすらにカヌーを練習するものもあれば、キャンプ場近くの山でスキーを楽しんだ翌日に雪山登山に挑戦する、というものまで、季節毎に幅広くかつエキサイティングなメニューがある。当時は、1年に1、2回ほど、たいてい長期休暇の時期を狙い定めて、4泊5日という小学生対象にしては割と長いキャンプが催されており、僕は夏の4泊5日のプログラムに3年連続で参加していた。ちなみに、秋田県が管轄する由緒正しき「教育施設」なので、毎回の参加料は都市部の人なら驚愕するほどの安さであったことも付け加えておく。

なんでこんなことを突然書き始めたのかというと、ある人から聞いた「最近は親も学校もどんどん過保護になってきている」という話をふと思い出したからだ。ある学校では、宿泊を伴う学校行事の日数が1泊分減らされたそうだ。

「子どもだけで3泊もするなんて考えられない。親元から離すのが不安だ。もっと短くしろ」

そんな声があったとかなかったとか。ひどい話だな、と思う。親元を離れた方がかえって子どもたちはのびのびと過ごせるかもしれないのに。あるいは、親がいないところで、自分で考えて、自分で試してみて、失敗したら周りの友達や大人に助けてもらう、そんな機会になるかもしれないのに。もったいない……なんて呑気に構えていたのだけれど、そこで、あ、と声が漏れた。

そうか。過保護な親の目線からは、僕の両親もまた、その非難の矛先に立っていることになるのか。子どもをほぼ毎シーズンのように数日間家の外に出させて、ひょっとしたら子どもの世話から解放されようなんて魂胆なのではないかと、あるいは勘繰られていやしないだろうか。それであるならばこれもまた不本意なことだ。

しかし、一方で、物事を自分の手元から離すこと、手放す、委ねる、あるいは任せるということの難しさも、よくわかる。曲りなりにも約5年半の間、島の公立塾で高校生と接した経験を持ってもなお、「手放す」と「放任する」の違いがよくわからないでいる。ほどよい距離の取り方がいまいちつかめない。ひとたび介入すればついつい手綱を引きたがってしまう。ところが、なるべく距離を取ろうと決心すると今度は転んだタイミングで立ち直るサポートに入れず、結果的に挫折させてしまう(一回転んでやめれることならやめちゃえばいいじゃん、という思いもあるにせよ)。

そして、また、ああ、とため息交じりに上を向く。僕の親はよく手放せたもんだな、と。受験する大学も特に親から指定されることはなかった(東京の私大への進学が決まった後に「もっと手堅い国公立大に行ってくれたら学費も安かったのに」とは言われたけれど)。それでも「参考書が欲しければお金はちゃんと出すから」という声掛けもまたあった(あまり有効に活用できたとは言えないが)。もちろん、「少年自然の家」通いができたのも親の理解とサポートあってこそなのだ。

中学生の頃だったか、こんなことを言われた記憶が残っている。「お前が大学に行きたいと思うなら、そのための学費をねん出する用意はある」と。それまで自分が大学に行くなんて微塵も思っていなかった僕は、その一言で、「ああ、そうか、大学に行くという選択肢があるのか」と思えた。その後、教員という目標を持つに至り、必然的に大学進学を目指すことになるのだが、そこに変な遠慮も後ろめたさもなかった。大学進学という選択肢を一切意識していない小中の同級生や、これまで接してきた高校生を見れば、それがどれだけ目がぐまれたことなのかを自覚せざるを得ない。

しかし、「大学に行け」と言われたわけではない。もしかしたら親にはその期待があったのかもしれないが(田舎には珍しく両親ともに大卒だったし)、もしかしたらそこに秘められていたかもしれない意図を認識する暇もなく東京に出てしまったのだから、それはまさに「子どもに委ねる」という両親の試みが成功裏に終わったという証なのだろう。

「少年自然の家」でのアウトドア体験や、その場所で初めて出会う同年代との共同作業を経て、果たして今の自分に何がどれだけ残っているのかは定かではない。ただ、少なくとも、リピーターになるくらいに僕は保呂羽山での経験に熱中していたのだろうし、振り返ってみても、記憶は飛び飛びなのに、「面白かった」という思い出として保持され続けているのだから、悪いことはないに違いないとは思える。

手放して、委ねて、任せることが、どうしてこんなに難しいのだろう。
「過保護」であることは、一体誰のためなのだろう。

自然と、小学校6年生のときに参加した4泊5日の壮絶なプログラムが思い出される。初日の夜は早速駒ヶ岳でキャンプ。翌日に登頂し、下山後、田沢湖でカヌーを練習する。次の日は丸一日かけてカヌーで雄物川を下り、キャンプ泊。4日目はまたまた丸一日かけて徒歩で保呂羽山を目指す。4年生から参加できることを考えると、いかに過激で過酷かが分かる。というか、「保呂羽山少年自然の家」主催なのに保呂羽山に正味一日もいない計算だ。実にむちゃくちゃなプログラムで、きっと後にも先にもこんな行程はなかっただろうと想像する。

「真夏の炎天下で、小学生たちが、20km以上の行程を、歩く」

こう書くだけで正気の沙汰でないことがわかる。暑さと疲労に倒れ、各チームに一人つく大人に背負われた子もいた。大人だって大変だ。ロジを考えるだけでも頭がパンクしそうになる。人数分のカヌーがどこから来てどこにどうやって運ばれたのかなんて、できれば想像したくない。

しかし、だからこそ、それは最高の体験だった。本当にありがたい、の一言に尽きる。いつも親が運転する車のフロントガラスから見えていた「保呂羽山少年自然の家」の文字を視野にとらえたときの感動と感激、そして安堵は、めちゃくちゃな大人たちがいなければ感じることすらできなかったのだから。

あえて書かなくていいことかもしれないが、「手放す」というのは、「手を抜く」のとは決定的に異なる何かなのだろうと思う。それが「過保護」と言われている親たちに届けば、あるいは救われることすらあるのかもしれない。それは、僕がこの言葉から受ける「力の抜け加減」以上に、「本気」を要求することであるように思えてならない。

願わくば、あの真夏の4泊5日のようなめちゃくちゃな体験を、「委ねて、任せて、手放して」みることで実現されるあの充実した時間を、自分も生み出してみたいものだ。

 

※追記

確認したところ、平成11年度、つまり僕が中学1年生のときまではほぼ同様の4泊5日が行われていたようである。

http://www.pref.akita.jp/gakusyu/horowa11.htm


関連する記事