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テスト勉強の計画の立て方と5つの要点

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はじめに・・・テスト勉強の計画を立てる意義

テスト勉強計画立案の指導をはじめてもうすぐ2年になります。
指導したのは述べ4学年70名ほどに留まりますが、だいたいの傾向と対策が見えてきました。

まず、テスト勉強計画そのものが必要かどうかは人それぞれであることを先に述べておきます。
実行力があれば時間をとって計画を立てなくても勉強できてしまう人もきっといるでしょう。
(といってもそんな生徒は100人に1人でしょうが)
要は「実行」と「結果」が肝要なのです。計画はそれを支援するツールでしかありません。

僕がそれでも通塾する全生徒にテスト勉強計画を立てさせているのには別の理由があります。
それは計画立案のプロセスが社会に出てから求められる力と関わりがあるからです。

計画は実行を支援するもの、と書きました。
逆に言えば、「実行を前提としない計画に意味はない」ということです。
したがって計画は必然的に具体的なものにならざるをえません。
ToDoを具体的に設定することなしには計画的な実行はありえないのです。
「やるかやらないか」の差はここでも生まれます。当然これは当然社会に出てから必要とされる作法です。

しかし、「具体的に考える」力は個人差が大きいものです。
計画を立てる力と学力との間には正の相関があると思えるほどです。
「学力」と「社会に出てからの業務遂行能力」がこの点でつながっているのではないでしょうか。

「具体的に考える」力を身につけてほしい
僕はそんな思いで生徒にテスト勉強計画を立てさせています。

※「具体的に考える」力とは、もっと言えば「自分ごととして『わかる』」力です。
この『わかる』の定義は「イシューをはじめよ」の安宅さんの記事を参考にしました。

テスト勉強計画の要点

テスト勉強の計画を立てよう

意義に書いたとおり、「計画が具体的かどうか」、それが良いテスト勉強計画の条件です。

具体的な計画を立てるために必要な要点は5W1Hをベースに考えればOKです。

(1)試験範囲の把握:何を勉強するのか

(2)優先順位付け:何から勉強するのか

(3)量の設定:どれだけ勉強するのか

(4)開始日と期限の設定:いつからいつまで勉強するのか

(5)教材と勉強方法の設定:どのように勉強するのか

細かく詰めればきりがありませんが、ざっとこんなところでしょうか。

逆に計画(や反省段階)でのNGワードは
「がんばる」「しっかり」「きっちり」「集中して」などの曖昧な言葉です。
副詞、形容詞はほとんど意味をなしません。
名詞、数量、動詞で構成された「勉強すること(ToDo)」が最も具体性の高いものとなります。

計画が立てられない、テスト勉強を着実に進められない。
そんな生徒はそもそも(1)ですでにつまずいている可能性が高いです。
授業を真面目に受けていないから、全体像がつかめないというのもあるでしょう。

勉強が出来る子は勉強の習慣が身についていますから、ある程度試験範囲を予測できるものです。
試験範囲が発表されていなくても、既習範囲がほぼ試験範囲になりますから。

また、勉強習慣のない生徒の場合、試験範囲を終わらせることで満足しがちです。
教科書や問題集などで試験範囲として指定された部分を一回解いて終わりにしてしまうのです。
つまり、勉強ができない生徒は「わかる」がゴールになっていない

したがって「試験で点が取れる」ために「わかる」を増やすように誘導する必要があります。
しかしそこまで徹底ができる生徒であれば、はじめから苦労はしません…。
計画を立てるときに教科書や問題集を何度繰り返すのかを考えさせるべきでしょう。

「一度解いたらおしまい!」とする生徒は驚くほど多いようです…。

生徒が計画を実行する力があるかどうかチェックする方法

繰り返し述べますが、どれだけ立派な計画があっても実行できなければただのゴミです。
では、実際に計画が実行に移されているかどうかを確認する方法はあるのでしょうか。

計画をベースに実行ができている生徒は、自分の現在位置をよく理解しています。
闇雲に、手当たり次第に進めているような生徒はまずいです。
どこまで「やるべきこと」を終わらせていて、残りどれだけやらなければいけないのか。
現在位置を把握するためには、計画表を見て計画と実績のずれを確認する必要があります

計画と実績のずれの確認ができているかどうかは一つのバロメーターです。
計画は自分がやるもの、という自覚の度合いを測ることができるのです。

※とはいえ、生徒一人一人について日々の勉強の進捗を確認するのは非常に手間がかかります。
効率よく進捗確認できる方法があれば教えていただきたい次第です。

終わりに

この記事を書きながら改めて思ったのは、
「計画を立てる力」と「計画を実行する力」って、社会に出てからも必要だよなーということ。
「成果を出さなければならない」という点では、仕事でもテストでも同じこと。
テストはやるべきことがシンプルな分、「仕事」までのいい練習になると思うんですけどね。

参考図書

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消費者的態度ではなく生産者的態度をとるために

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消費者的態度の容易に想像される末路

「受身ではいけない」「主体的に行動しなければならない」

予測不可能で不安定な21世紀を生きるためにとるべき態度というものがある気がしています。

世間的な尺度で自らを評価し、レールに沿った人生を歩むことが個人の幸せを保障するとは限らない。
それを証明してくれたのが20世紀という時代でした。

「こうあるべき」という言説が自らの信念とは異なるところで語られるとき、
それを真に受けるかどうかは本来的に個人に委ねられているはずです。

「みんなそうしているから」
「世間一般的にその方が良いと言われているから」

これらは、自分の人生を決めていく上で何の参考にもならない情報です。
数の論理に負けて、あるいは表面的なコピーに踊らされて、人生を歩んでいく。

ピュアすぎるほどにピュアな消費者的態度をとることの末路は、
少しばかりの想像力を働かせるだけで容易に想像がつくと思うのです。

もちろん、世間的にうまくいっていると評価されるような人生を歩む人もいるでしょう。
しかしそれが本来的な幸せなのか?と自問自答したときの絶望感を想像するだけで、
消費者的態度に潜む恐ろしさを回避したい、と僕は思うわけです。
僕だけではない。ますます多くの人が、「自分の幸せって何なの?」と考え出しています。

それは「フリーエージェント社会の到来」で描かれる社会のあり方と一致します。
ダニエル・ピンクは「テーラーメード」の生き方・働き方を探す人が増えている、と指摘します。

生産者的態度の難しさ

消費者がだめなら生産者。

安易な発想ですが、自分のサイズに合うものがなければ、自分で作るしかない。
そういう覚悟が伴うことで、人は自ずから生産者的に振舞うのではないかと思います。

覚悟

ここに生産者的態度の難しさがあるように思えます。

自らの正解を自らが定義し、つくりだすこと。
正解を選ぶのではなく、選んだ選択肢を正解にすること。

世間の尺度はここでは無用なものです。
自らの価値基準で物事をはかるためには、価値基準自体を自らつくりだす必要があります。
そのためには、自らが何を望むのかを言語化する作業が常に問われることになります。

消費者的態度と生産者的態度を分かつもの

これら二つの態度を隔てるものはいったいなんなのか。

僕の長年の自由研究のテーマであり、いまだ明確な回答が見つけられていません。

一つに「言語化」の能力の”格差”がある、と思います。
「言語化」の能力が求められる社会になりつつあることと、
消費者的態度で本来的な幸せをつかめるとは限らないということとは、パラレルな関係にあるはずです。

もう一つ、消費者的態度と生産者的態度を分かつものとして考えられるものがあります。
それは、「時間的な遅れ(delay)」に由来するものです。

何か新しいことを始めたとき、その成果が得られるまでにはタイムラグがあります。
一方、既存の考え方や手法、具体的なものを取り入れれば、成果はすぐに得られるものです。

既存の携帯電話に代わる新しいモバイル機器を自ら考えるのは非常に骨があります。
しかし、iPhoneを買えばとりあえずはニーズを速やかに満たすことができるかもしれません。

完璧に自分に合ったものは自らつくるしかありません。
一方で、成果が出るまでにはそれなりの時間がかかります。

その時間を待てるかどうか。
時間的遅れを認識し、成果が出るまで研鑽を惜しまずにいられるか。
あるいは、成果が出るまでの、自ら作り上げていくというプロセスを楽しめるかどうか。
そこにポイントがあるように思えます。

代替物がいくらでも流通している世の中で、自ら考えることはますます難しくなっています。
だからこそ、「生産者的態度」のとり方を考える必要がある、そう思っています。

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勉強にやる気が出ない生徒の特徴-目標の不在の手前

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「目標の不在」という事象について

高校生の学習指導をしていると、どうにもやる気のない生徒というのがいます。

2年生にもなると勉強も難しくなり、入試も近づいて、だいたいは1年時より火がつくものです(これは島の話。僕の母校では2年時に「中だるみ」という別の課題がありました…)。

一方、さっぱり火がつかない生徒も何人かいます。共通点を探ってみると、「目標がない」の一言に尽きます。いえ、彼らも目標として「大学に行く」ということは明言しています。わざわざ進学校を、あるいは普通科の進学コースを選ぶ、ということはしているわけです。

ところが、彼らの行動には主体性がない。もう少し厳密に言えば、結果に対する責任を取るという態度が見られない。「それなりの大学に行くためにはそれなりの勉強が必要だ。」推薦・AOも含めて、これは誰もが納得できる当然のテーゼ。しかし、ある種の生徒にとっては、「勉強」がほとんど「他人事」なのです。

「目標」は本当に必要なのか?

「じゃあ目標を持つようにすればいいじゃないか」

それはその通りかもしれませんが、結論を出すにはまだ早い。「目標の不在」が「主体性のなさ」につながる構造を見出すべきでないでしょうか。よくよく考えてみれば、「目標」がはっきりせずとも、淡々と勉学に勤しむ生徒もいます。僕は秋田県内でも進学校と呼ばれる高校に進みました。多くの高校生がそうであるように、明確な目標を持たない同級生は少なくなかったと思います。それでも、進度が速く、かつ難度の高い授業に多くはついていっていました。予習、復習、宿題をこなす。これは能力の高さだけでは片付けられません。

環境の無視できない影響

進学校とそうでない高校の生徒の違いはなんでしょうか。能力以外に注目してみると、「環境」の違いに目がいきます。具体的に言えば、”スタンダード”が異なるのです。

進学校に入学したからには、全員が大学進学するのは当たり前。「○○大学なんぞ入学できて当然、△△大学をまず目標とすべし。」卒業生の進学実績が、”スタンダード”をさらに引き上げます。

一方、進学しない同級生がいないような高校の場合、「全員が大学へ行く」ことを”スタンダード”にすることができません。学力や進学への意欲に応じて異なる”スタンダード”が割り当てられ、共通の”スタンダード”は進学校のそれと比べれば下がります。「おれは進学しないから」「彼は進学しないから」生徒も教員も「進学しない」を理由に”スタンダード”を引き下げることを容認しあう。

”スタンダード”が引き下げられることで、個々の生徒の姿勢もそれに引きずられます。「環境」に打ち勝てる人間なんてほとんどいません。高校生ならばなおさら。そうして「能力」の差に加えて、「環境」の差が最終的に進学実績の差につながる。そのような構図が見えてきました。

「目標」の本来的な意義

「目標」は個人の内発的なもの、”スタンダード”は「環境」(集団)の影響を強く受けるもの。

個人が「環境」に打ち勝つのは困難である、と述べました。しかし、それでこそ「目標」の存在価値がある、と言えます。「環境」の誘惑を断つために、「目標」によって自らの”スタンダード”を引き上げる。「環境」の強大さに比べれば頼りないものですが、「目標」の効果はここにしかない、のかもしれません。

まとめ:「勉強にやる気が出ない生徒の特徴」

話が少しそれました。

勉強に精が出ないのは、端的に言えば「”スタンダード”が低い」ということです。目標を持たなくても良い「環境」に身をおくことができるなら勉強するのが当たり前になります。今目の前にある勉強をがんばるという点に主眼を置くなら、重要なのは”スタンダード”です。

というようなことを仮説としつつ、「環境」への働きかけを考えている次第です。

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