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秋田魁新報「あしたの国から 人口減社会を生きる」に海士町が紹介されています

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島根県の沖合約60キロにある隠岐諸島の海士町(あまちょう)。面積33平方キロの半農半漁の島に、全国から年間約千人が視察に訪れる。町独自の取り組みに関心を示す若者が日本中から集まっているためだ。人口減少が進む自治体の担当者が、ヒントを得ようと足を運ぶ。

あしたの国から 人口減社会を生きる:第6部・将来への手掛かり(7) [離島に学ぶ]賄えない人材を募る|さきがけonTheWeb

2013年のさきがけ特集記事「あしたの国から 人口減社会を生きる」。
先日東京支社から記者の方が海士町を訪れ、希少な秋田出身である僕も取材を受けました。

海士町では多くの取材、視察を受け入れていますが、僕自身の取材は初でした。
まとまりのある話がなかなかできなかったのですが、伝えたかったニュアンスがしっかり記事になっていて感動した次第です。

海士町にこれだけ島外から若者が集まるのは、10年以上前から積極的にIターンの受け入れを開始し、
地域に馴染めるようあれこれと面倒をみてくれた町民のみなさまの存在が不可欠だったのは言うまでもありません。

しかし、もうひとつ重要な点として、そういった土台の上に、まず面白い仕事、町に必要な仕事を定義し、
その役割を担える人材を島内外を問わず募集する姿勢があったのではないかと思っています。

仕事が移住に先行することで、移住者は純粋に仕事の魅力と人の魅力にひきつけられます。
移住する際には、必ずしも「永住」の決意は必要ありません(それは往々にして過度の重圧となります)。

実際に住んでみて、本当に気に入ったなら改めて永住を決める。
それはまるであるべき自由恋愛の姿と重なるような、「フェアなあり方」だと思っています。

町は移住を歓迎するが、「永住」は前提としていない。町は島では賄えない人材を募り、移住希望者は島で手掛けたいことを提案する。一定期間住めば奨励金を出したり、家屋を無償譲渡したりする本県一部自治体の定住対策とは異なる。

あしたの国から 人口減社会を生きる:第6部・将来への手掛かり (7)[離島に学ぶ]賄えない人材を募る|さきがけonTheWeb

町長や課長を差し置いて僕の写真が掲載されていて大変恐縮です…笑

※リンク切れの場合は下記リンクをどうぞ。
http://megalodon.jp/2013-0624-1102-26/www.sakigake.jp/p/special/13/ashitanokuni/article6_07.js

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「主体的」な行動をつくりだす唯一のポイント-《他者》

カテゴリ:自分事

主体性、あるいは主体的であることが求められる時代。

しかし、言葉だけが独り歩きしている感を受けることも少なくありません。
たとえば、「それは積極性と何が違うの?」と突っ込みを入れたくなるような。

教育の現場においても、主体性を意識しない日はありません。
悪名高い「ゆとり教育」も、その一つの目的は「生徒の主体性の獲得」にありました。
ところが、「ゆとり」という言葉はむしろ主体性の欠いている若者をイメージさせます。

「ゆとり」の矛盾は、「主体性とは何か」というそもそもが議論されていないために生じています。
「他者」を発見する国語の授業」にそのヒントを求めてみたいと思います。

※そもそも論になるため、長文です。

で、主体性って何よ?

そもそも「主体的である」状態はどうやってつくられるのでしょうか。

真に「主体的」とは、人間の新しいよみがえりの過程において、きびしく自己批判・自己変革する主体のあり方のことであろう。(略)
それを可能にするのが、自己相対化の目である。私は、そのような目を獲得するためにもっとも重要かつ有効な働きをするのが、他者理解の行為だと考えている。
では、他者理解とは何か。それは他者の文脈に沿って、自己の視座を転換し、そこに展開する論理を正確に受け止めたり、イメージを豊かに思いえがいたりすることによって、成り立つものである。(略)
主体とは、ア=プリオリに存在するものではなく、他者とのかかわりの中で、常に生成・変革するものである。
(以上、田近洵一『言語行動主体の形成』より引用)

このように、「主体」とは、他者との関わりにおいてはじめて存立可能なものであり、したがって「主体性」もまた「他者性」との関わりにおいてはじめて確保しうるものと考えるべきであろう。

「他者」を発見する国語の授業

「主体」とは「他者理解」、つまり「他者」を「私」の理解の仕方、慣習ではなく、「他者」その人の様式で以って「他者」を理解しようとすることの繰り返しで形成されるものです。
「他者」とは「私」によって”都合よく”理解されるものではなく、むしろ「私」とは備わっている文脈が全く異なるものを指します。
ここでは単なる「会話の相手」と「他者」が用語として区別されていることに注意が必要です。

「主体性」は「他者性」によって形作られるものである。では「主体性」とはどのようなあり方を指すのでしょうか。

自然発生性そのものは、まだ対象変革の主体成立を約束するものではないのであって、状況によって強いられる絶望、その絶望を生み出す世界と自分との関連を根底的に対象化する認識は、その端初の形態としてはその状況の直接的制約の外にあるもの、そうした直接性に対して一定の距離設定が可能な視点に成立する。(略)自然発生性そのものは、どんな段階にあろうと、階級的主体性を成立させる意識性ではない。それは依然として主観性にとどまる。
(以上、梅本克己「主体性の問題」『岩波講座哲学Ⅲ 人間の哲学』より引用)

つまり、「主体性」とは、世界と自分との間に形作られる状況を、「一定の距離設定」をして「対象化」する「意識」に支えられている。これに対し、「自然発生」的で状況との距離設定がなされない「直接性」のもとでは、行為は「主観的」なものにとどまる、というわけである。

「他者」を発見する国語の授業

この「主体性」/「主観性」の定義に従えば、「積極性」と「主体性」が必ずしもイコールでないことがわかります。
たとえば「だめなものはだめ」と言い張るような人たち。これでは「一定の距離設定」がうまくいっているとは言えません。
「やらざるをえないからやる」という「自然発生的」な行為もまた「主観的」な行為の範疇になります。

「一定の距離設定」のもとに状況を「対象化」する「意識」と「主体性」はどう関係するのでしょうか。

それは具体的には、社会学者の大澤真幸が指摘する「二重の水準」における「選択」を可能にする意識と同質のものであろうと思われる。氏によれば、ある行為が「主体的」だと感じられるのは、次のような場合であると言う。すなわち、ある行為を遂行しようとする場合、まず「何のために」という価値や目的のレベルにおいて「選択」が行われ、次いでその実現のための具体的な手段・方法のレベルにおいて「選択」が行われる。そしてこの「二重の水準」における「選択」がその行為者個人に帰せられるというような場合、その行為は「主体的」だと見なされる。簡単に言えば、目的と手段の「選択」が行為者主体の判断に基づく場合、それは「主体的」な行為と見なされる、というのである。
これを先の梅本の論と重ね合わせるならば、状況と「一定の距離」をとって、それを「対象化」しえたとき、主体は「意識的」に目的と手段とを「選択」することが可能になる。そういう状態を「主体的」と呼称し、もし、状況との距離がとれず「直接的」である場合、主体には「意識的」な「選択」は不可能で、そういう状態を「主観的」と呼ぶ。

「他者」を発見する国語の授業

「主体的」とはある主体が「意識的」に目的と手段とを「選択」できている状態を指します。
つまり、主体的な行為者の前には、目的と手段のニ領域において常に選択肢(オルタナティブ)があるということです。
盲目的に「脱原発」「反原発」を主張する方々はこの意味において「主観的」であり、彼らには見えていないものがあるのです。

すなわち、ある主体が「主体的」にある行為を「選択」するということは、「他者」が選んだかもしれない「別の選択肢」が可能性として「意識」されていなければならない。

「他者」を発見する国語の授業

ここにおいて「主体性」と「他者性」の関わりが露になります。
“「他者」が選んだかもしれない「別の選択肢」”を「意識」するためには、先に引用した「他者理解」の行為が不可欠だということです。

よくよく考えてみると、これは当たり前の話です。
世界が「私」の中で閉じている限りは、行為の際に「別の選択肢」を考慮することは実現しえません。
「私」の外側にある異質なものを認識できない「主体」が、「他者」のとりうる「選択」を想像できるわけがないからです。

主体的に行動するために:「他者」と関わろう

さて、これまでの話を整理すると、

・「主体的」な行為とは、目的と手段の両方の「選択」が行為者主体である場合を指す
・目的と手段を「選択」するためには、自身が置かれた状況と「一定の距離設定」をする必要がある
・状況と「距離設定」ができるためには、「他者」が選んだかもしれない「別の選択肢」が「意識」されなければならない
・「他者」による「別の選択肢」を「意識」するためには、他者との関わりが不可欠である

ということになります。

したがって、「主体性」を獲得するためには「他者」との関わりの中で自己を相対化する「目」を養うことが第一です。
それには「他者」とは何か、単なる会話の相手とはどう異なるのかを整理する必要があります。

柄谷は、ウィトゲンシュタイン後期の「言語ゲーム」論とクリプキによるウィトゲンシュタインの読みに触発されながら、「他者」についてこう論じている。
「《他者》とは、言語ゲーム(規則)を異にする者のこと」である。あるいは、他者とは「共同体」を異にする者と言うこともできる。この共同体という言葉を「共同性」と見なせば、「共同体は、いたるところに、多種多様になり、《他者》もまたいたるところに出現する」ことになる。一方、「私」をベースにして想定しうるような存在は「他者」ではない。それは「自己の『自己移入』であり『自我の変様態』なのであって、他者性を持っていない」。そしてこの他者性と向かい合うとき、「共同の規則なるものの危うさが露出する」。そういう「他者との対話だけが、対話と呼ばれるべきである」。

「他者」を発見する国語の授業

「他者性」とは、「私」が属している何らかのルールや規則に基づいて理解しようとしても理解できない(排除される)ものだと言うことができます。

高校生と接していると、彼らの友人関係は非常に固定的であることに気づかされます。
これは例え話ですが、高校でいじられキャラが定着している生徒は、同じ友人たちと関わっている限り、どこに行ってもいじられキャラです。
どうも、彼らの中では「A君=いじられキャラ」、あるいは「○○するやつはいじられるべきだ」という”ルール”が暗黙の了解になっているようです。
このルールに縛られた「共同体」の中では、「A君=いじられキャラ」以外の図式は基本的に無視される運命にあります。
そのため、友人たちの前でA君が何をしても、彼はいじられる対象として理解され、彼の異質な(意外性のある)キャラクターに注目が集まることはありません。
この意外性との遭遇こそが、《他者》との出会いであるのに。

受け手を「他者」と考えるとき、そこでは、「私」とは異質な受け手の知識や欲求、あるいは彼が生を営む文脈などを様々に推し量ることを避けて通れなくなる。したがってまた「対話」ということにおいても、その形ではなく、中身こそが問われるようになるはずである。このように「他者」という認識は、私たちに言葉の使用をより自覚的な行為へと高める効果をもたらす。

「他者」を発見する国語の授業

《他者》を認識できないのは、固定的なものの見方に捉われているからです。
もっと言えば、「私」に縛られている、と言うべきでしょうか。
あらゆる他人を(そして自分までをも)「私」の知りうる言語ルールだけで理解しようとする限り、《他者》との出会いが訪れることはありません。
「私」が理解できないものにこそ《他者》が潜む。
これを認めない限り、「主体的」にはなれないのです。

本書ではさらに、《他者》という存在の価値の射程を「創造性」にまで広げて議論しています。
「私」の「主体性」を生成・変容させる《他者》、これを認識することの重要性は無視できるものではないでしょう。

まとめ

「主体性」の獲得に求められるのは、「私」の中に収まる限りでなく、むしろ「私」の範疇を超えていく必要があることをここまで述べてきました。

「主体的」に行為していくためには?

この答えは、ただ一つ。《他者》-「私」の中のルールが排除しようとする者-を意識すること。
自らの枠組みでは捉えようのないものに目を向け、《他者》の文脈に沿って理解しようとする姿勢が求められるのです。

したがって「主体性」はある時点で完成するものでなく、「他者理解」の積み重ねで蓄積され、あるいは大きく変容させられうるものと言えます。
それは計画性とは無縁で、ときには「私」の意志に反する場合すらありえます。
《他者》との出会いの体験がどう自分をつくりあげていくのか。
私たちは、その終わりなき過程を楽しむべきなのかもしれません。

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思い通りにならない相手を安易に「敵」にする危うさ

カテゴリ:自分事

なかなか思うように動いてくれない相手に苛立ちを感じることは誰にだってあります。
そもそも、相手が思い通りに動くように働きかけることは非常に難しいことです。
そして、実際の人間生活ではそのような相手を安易に「敵」とみなして行動してしまうことも、少なくありません。

ところが、往々にして「敵」とみなされた相手は一層こちらの意図を汲まなくなるものです。
相手を反抗的であると捉えていれば、その認識が端々で相手に伝わるからです。

より大きな視点で捉えると、「敵」とみなす相手がそもそも間違っていることが多いはずです。
「地域活性化」のような抽象的で大きな目的がある中では、同じ地域に住む人は「敵」ではなくステークホルダーです。
当然各自は自分たちの利害を計算した上で動きますから、総論賛成・各論反対の構図は一般的と言っていい。
しかしながら、総論賛成のステークホルダーを「敵」とみなすと、こちら側も大きな目的がぶれていきます。

チームには「敵」が必要

チームワークとは、チームが「共通の敵を持つこと」で生み出される。「チームをまとめるためには敵を探そう」が、リーダーが身につけるべき方法論でもある。

「敵」という存在は、対立や排除の対象であって、概念を共有した上で、それを「敵」と名指しすることで、チームには「何をやらないのか」、「誰に嫌われるのか」が共有される。

チームワークとは「いい敵」の共有 – レジデント初期研修用資料

「敵」の設定はチームワークに大きな影響を及ぼします。
何を打倒するか。目的達成のために障壁となっているものは何か。

「敵」をステークホルダーの外部に置くと、やるべきことが具体的に見えてくることがあります。
例えば、法制度。制度変更をゴールに据えると、各自がそれぞれの立場でやるべきことが見えやすくなります。
思うように動かないステークホルダーを「敵」とするのではなく、そのステークホルダーと共闘すべき「敵」を設定すればよいのです。

戦略の品質は、「敵」の品質が決定する。リーダーが名指しするのは、ただの敵ではなく、「いい敵」でないといけない。

いわゆる的ないじめは、数を頼んだ単なる暴力であって、敵を名指しした結果のチームプレーとは違う。リーダーが「いい敵」を見つけることに成功できれば、むしろ「敵に勝つ」必要は消失してしまう。強大な敵に団結ししたチームが大胆な戦いを挑み、敵味方の対立物語は盛り上がり、開発も顧客も一緒になって、そうした構図をずっと楽しめる。

チームワークとは「いい敵」の共有 – レジデント初期研修用資料

ステークホルダー内に「敵」を設定し、それをその他全員でつぶすというのもなくはないのでしょうが、そのゴールが本来の目的と一致していない限りはあまり有効とはいえないでしょう。
共闘の状態に持ち込み、内輪の対立に傾けていたエネルギーを正しいゴールに注いでもらうことがベターなはずです。

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