Category Archive: 自分事

秋田県大仙市神宮寺の由来と歴史、或いはそこに町のある意味

カテゴリ:自分事

僕の地元のこと-秋田県大仙市神宮字

この記事では僕が生まれ育った土地、秋田県大仙市神宮寺のことを紹介したいと思います。
(歴史的考察については個人的な仮説に過ぎない部分が多々ありますので、ご注意ください)

まず「神宮寺」という地名をよーく見てください。どこか違和感がありませんか?

「神」といえば神道。「寺」といえば仏教。
「どっちやねん!」と激しく突っ込みたくなるような地名です。

そもそも、「神宮寺」とは神仏習合思想の下、神社の傍らに建立された寺のことを指すそうです。
恐らくこの本来の意味での「神宮寺」という言葉が、そのまま地名として用いられるようになったのではないか、という説が有力です。

では、その「神宮寺」は何のことを指すのか。
町のシンボルであり、町民歌から町内の施設に至るまで名前が使われている「神宮寺嶽(嶽山)」の山頂が、その神宮寺の在所になります。

神宮寺嶽の山頂には現在「嶽六所神社」があります。
毎年三月の第三日曜には梵天(ぼんでん)の奉納が行われるこの神社ですが、元々は日本史の教科書にも載っている「大宝律令」が成立した大宝年間にあたる701年~704年に建てられたと言われています。
その当時、神宮寺嶽は「副川岳」と呼ばれていました。
雄物川と玉川の合流地点に位置する円錐の形良い山であり、「副川」を名とする神様が隠れ住まう山(神奈備山)に極めてぴったりな山容であったため、その名がついたとのこと。
その「副川岳」に大宝年間に建てられた神社は「副川神社」と名づけられました。

その後、山岳信仰の修験の拠点となり、神仏習合の典型的な場所となった事から、「神宮寺」という地名に繋がったのではないか、という話でした。

ちなみに現在の副川神社は秋田県八郎潟町にあります。
江戸時代に佐竹の殿様(四代・義格)の意向により、「領内三国社」として神宮寺嶽・副川神社、保呂羽山・波宇志別神社、御岳山・塩湯彦神社が復興されたそうですが、副川神社 だけは久保田城の鬼門に当たる八郎潟町の高岳山に移されたとのことです。
秋田県内では延喜式内社(式内社)はこの三社だけだそうで、そのために佐竹の殿様による復興があったと考えられます。

参考:古代史上の秋田 (さきがけ新書)

神宮寺の地理的特徴

調べてみると、神宮寺はなかなか歴史のあるところだということがわかりました。
ここで疑問に思うのが、なぜ県内で数少ない式内社が神宮寺に建立されたのか、という点です。
おそらく、古くから物流や宗教の面で政治的に重要な拠点だったのではないか、と推測されます。

地理的な特徴としては、やはり神宮寺嶽のふもとが雄物川と玉川の合流地点であったことに目がいきます。


川の色が手前と奥とで異なるのがわかるでしょうか?

川は古来より物流における重要なインフラであり、院内銀山が栄えていた当時には、神宮寺においても酒蔵が立てられ、大消費地である院内にお酒を輸送していたという話もあります。
また、江戸時代には羽州街道が通っており、保呂羽山へと続く街道への結束点であったことから、川湊としての機能とあいまって、久保田藩が駅伝馬役所などを配したとされています。
これらは江戸時代以後の話ですが、古くから交通や流通の拠点となっていたことは想像に難くありません。
Google マップの航空写真を見ると、大仙市・仙北市に広がる平野の出入り口となるように神宮寺が位置しているのがわかります)

また、神宮寺嶽は地域内であれば様々なところから望むことができます。
その姿形はなるほど確かに綺麗な円錐をしており、古代の人がこの山を見て山岳信仰の対象としたという話もうなずけます。

大宝律令の以前・以後

時間軸で見たときに気になるのは、やはり副川神社が建立されたとされる701年~704年の前後のことです。
この時期の歴史的出来事といえば、先ほども紹介した「大宝律令」の制定及び施行です。

「大宝律令」は朝廷の中央集権体制を固めるために定められたもので、当時朝廷の支配が及んでいた全地域に一律に施行されました。
このタイミングで副川神社ができたことは、偶然とは考えにくいでしょう。そこには、政治的な意図が見え隠れします。
(おそらく)神道以前から独自の山岳信仰の対象となっていた副川岳(神宮寺岳)に朝廷が神社を配置することで、その土地古来の信仰を神道にすり替える意図があったのではないかと言われています。

大宝律令と時期を同じくして神社が建てられたということは、この時期、まだ秋田は朝廷の影響の少ないところにあったはずです。
(なお、県内の式内社のうち、最も早く建立されたのは塩湯彦神社で、672年建立とされています)
もちろん地理的に遠いことにも由来するでしょうが、それよりも注目すべきは「蝦夷」の存在です。

「蝦夷」が討伐されたのは、坂乃上田村麻呂の時代でした。
坂乃上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷を討伐したのが800年ごろです。
つまり、「大宝律令」が施行された時期には、まだ蝦夷は東北で勢力を保っていたことになります。

副川神社と時を同じくして秋田県内に建立された式内社は、いずれも県南部に位置します。
したがって、このあたりが朝廷の(蝦夷に対する)前線付近だったと推測できるのではないでしょうか。

横手盆地が稲作地として非常に優れていたことにも注目すべきでしょう。
秋田県を含む北東北は全国的にも稲作の普及が遅れた地域ではありますが、
その後横手盆地は安定的に米がとれた、と聞きます。

いまだ謎多き遺跡・払田柵も横手盆地の真ん中に位置しており、
秋田の式内3社もこの横手盆地を囲むように位置しています。

このあたり、神宮寺のルーツを探る上で大きなターニングポイントになるのではないかと思います。

今、そこに町があるということ

こう考えると、今この時代に町が存在するということは、何らかの歴史的背景なしに語れないように感じられます。
東北は「陸奥」と呼ばれていました。朝廷を中心としたとき、東北は日本の端っこにあったのです。
それは今でもあまり変わりません。赤坂憲雄氏は、東北は食料庫 となることを半ば強制されたと綴っています。

日本史の教科書を読めば分かるとおり、東北は多くを語られることはありません。
しかしながら、大和政権の歴史以前を想像するとき、縄文時代からの豊かな暮らしの名残が感じられると言われています。

僕は、自分にはどうすることもできない”縁”によって、神宮寺の地に生まれ育ちました。
受け継がれたこの”縁”を受け入れて、きちんと自分の代のものにしたい。
探究の面白さ以上に、大いなる流れの導きの下、ルーツを巡る旅はこれからも続いていくことでしょう。

関連する記事

僕や僕の家族と地元のこと

カテゴリ:自分事

先週から一週間ほど実家に帰省しておりました。

3月中旬から入院していた祖父の容態が悪化したため、意識があるうちにと兄弟揃って会いに行ったのが4/8(日)。
4/10の朝に一旦海士に戻るつもりでしたが、4/9の夜に容態がさらに悪化、そのまま祖父は帰らぬ人となりました。
急遽チケットをキャンセルし、そのまま秋田に残って諸々手伝いながら、あっという間の一週間でした。
祖母が15年前に亡くなったときには僕ら兄弟は奥の部屋に押し込められていましたが、全員が社会人になった今回はなんとか戦力になれたかなあと思います。

4人の孫に対して並々ならぬエネルギーを注いでくれた祖父は、寡黙さとはかけ離れたところにいましたが、自分のことをあまり多くは語らない人でした。
人が死ぬというときには、生前の”縁”というものが再び立ち上ってくるものですね。
帰省中に、これまで聞いたこともないようなエピソードを幾つも知ることになりました。
生前に聞くべきことがもっとあったよなと悔やむところはあるものの、振り返ってみるとやはり”時機”というものがあったように思います。

家族のルーツ

「秋元」という名字は、僕の地元である大仙市神宮寺には一軒しかありません。
それは、「秋元」のルーツは神宮寺にはない、ということを示唆しています。

生まれも育ちも東京で、秋田県民らしからぬ江戸っ子気質を見え隠れさせる祖父は東京の血を引く人だと思っていました。
ところが、実際には現在の北秋田市に位置するとある地域に、祖父方のルーツがあるそうです。
県北在住の方はご存知でしょうが、あのあたりに「秋元」姓がひしめきあっているところがあります。
足を運ぶことが滅多にないその地域に、血のつながりがあると思うと、少し不思議な感じがしますね。

ちなみに祖母は増田の出身。従って父は純血の(?)秋田県民ということになります。
母は長崎の出身なので、僕は秋田県民としてはハーフですね。

神宮寺という場所

秋田県大仙市神宮寺

僕の実家があり、高校卒業までを過ごしたところです。
秋元家のルーツはここにはありませんが、曽祖父、祖父、そして父の”縁”の集積として僕と地元のつながりがあるように感じています。
しかしながら、「神宮寺」の由緒についてこれまで考えたことはほとんどありませんでした。

葬儀が終わり家でくつろいでいるときに、仙台に居を構える大叔母(祖母の妹さん)からこんな質問がありました。
「しかしここいらはなんで『神宮寺』って言うんだろうね?」

ネットで調べてみるだけでも、興味深い話がいくつもありました。
詳細についてはまた次の記事に。

葬儀を終えて

家族を亡くした経験は2度目ですが、改めて葬儀にまつわる儀式というものの意義を考えさせられました。
親類やご近所さんが集まって、悲しみを共有し、杯を交わしながら故人を懐かしみ、故人を送るために家族総出で諸々のことを済ませていく。
それがたとえ小さいことであっても、何かしら家族の尊さとか、地域の関わりのありがたみとか、伝統として残ってきただけの意味を含んでいると感じました。

家族の一員として一連の儀式に関わることが、大人になるための通過点だったように思います。
寂しさと慌しさの余韻に浸りながら、そんなてごたえのような感覚が僕の中に残ったのでした。

関連する記事

自分のことが分からない人に、他人のことは分からないという話

カテゴリ:自分事

争いは自らが起こす

判断材料は「自分」

僕の職場である公設塾、隠岐國学習センターでは「春季講座」が先週から始まっています。

英語と数学の教材をひたすら進めさせていると、誰もが躓く分野が結構見えてきます。
そのまま放置するわけにもいかないので、教授法を検討するわけです。

で、この検討会が面白い。
教える側の大人が何をするかというと、

問題を解くプロセスを細分化する
普通、どのようにその問題を解いているのか、そのプロセスを振り返ります。
感覚で解いている人にとっては、解き方を言葉にする作業は難しさが伴います。
ああだこうだ言いながら、より一般的に通用する形を模索します。

生徒の間違いのパターンや傾向を把握し、分類する
ブレストっぽく「こんなふうに間違えていた」という情報を出し合い、それをグルーピングしていきます。
そうして「誤解・誤答のメカニズム」を推測していきます。
ここでは間違いの”レベル感”を見極めることも重要です。

適切な教授法を検討する
解き方と間違え方を土台に、どう教えたらいいかを検討します。
例題を参考に実際に問題を解かせる、何度も反復させる、などの方法が良く使われます。

みたいなことをしています。
こういう議論に参加するために必要とされるのは、「自分」を分かっていることに他なりません。

自分がどのように教科書の内容を理解しているか。
自分がその問題を解くに当たって、どのような順序で処理しているのか。

自分自身の解き方すら分からない人に、他人の解き方を考えることはできません。
それは取りもなおさず、プロセスを細分化したり、間違いをパターン分けしたりするための判断材料がないということだからです。

材料として最も身近な「自分」すら活用できていない、ということです。

他人のことを理解できない人たち

他人の気持ちを慮ったり、相手の立場になって考えてみたり。

これができない人たちの特徴とは何か。

自分のことをよくわかっていない

この一点に尽きると感じています。

勉強の内容を適切に教えることができないのは、解法のプロセスや誤答のメカニズムをきちんと把握していないことが主な原因です。
それは自分自身が無意識でやっていることを、相手に説明できるレベルまで言語化する力がない限り、不可能です。

適切なコミュニケーションのためには小手先のテクニックは用を成しません。
自分が伝えたいことを正確に把握することと、相手が伝えようとすることを(自分の都合ではなく)相手の都合の良いように把握することの両方が必要です。

自分が伝えたいことは自分にしか分かりません。
だからこそ自分自身を把握しようとすることが求められます。

相手が伝えたいことを相手の文脈に沿って聴くためには何が必要でしょうか。
自分自身のコミュニケーションを振り返ることが、相手のコミュニケーションを理解するための近道になるはずです。
自分のコミュニケーションのメカニズムすらわからないのに、相手のそれに対して配慮することが、果たしてできるのかと思ってしまいます。

相手の立場に立てない人は、自分自身を客観的に捉える力を鍛える必要があるのかもしれません。

注意すべきは、都合の悪い事実を押し隠そうとする”自己保身”の力学です。

「私がそんなふうに考えるはずはない」 「私は自分のことをよく分かっている」

自分を正確に捉えようとする行為は、ある種の苦痛を伴います。
これは「自分が”他人”として立ち現れる」経験であるといって良いでしょう。
教科教育の分野では、「思っている以上に頭で理解しておらず、感覚で解いていた」という事態に直面するような、ショッキングさ。
しかし、そこに踏み込まなければ自分自身の理解というものはありません。
自分が何を知り、何を知らず、何ができて、何ができていないのか。
そうしてあらわになった自分は、他人を分かるために活用されるに足る信頼性を獲得する、そういうものだと思っています。

関連する記事