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自分がしたい「社会貢献」を思い込みで押し付けないために

カテゴリ:自分事

「キャリア教育って意味あるの?」にどう答えるか

いつも疑問に思うことがあります。

「キャリア教育」の必要性が(特に産業の側から)叫ばれる世の中になってきているのはご存知の通り。
グローバル経済の影響の下、企業による雇用の安定は信頼性を失い、個人の実力がますます問われるようになっています。
こうした背景から、教育の現場がもっと「働く」とか「キャリアを自ら築く」とかそうした方向にシフトしてほしいという声は理解できないものでもありません。

ところが。
僕自身のこれまでを振り返ってみると、「キャリア教育」なんてまともに受けていない、と言うのが率直なところです。
小学校のときは地元のお店にインタビューしに行ったし、中学のときは隣町の獣医さんのところを見学させてもらった記憶があります。
しかし、それらの経験が僕の中に影響を及ぼしたかと言われると、全くといって良いほど意味がなかったと思ってしまいます。

高校時代は学校の先生になるという目的があったので淡々と勉強をしていました。あとは部活。
大学に入ってからは授業もそこそこにこなしつつ、サークル活動に入り浸り、引退してからはすぐさま就職活動にのめりこみました。
結局教員にはならずIT企業に就職を決めたわけですが、この会社もシューカツ生の中ではそれなりに知名度があるところ。

まともな「キャリア教育」を受けていなくても、僕自身はこれまでの短いキャリアについて満足することができています。
そうした自分の経験を振り返った上でもう一度冒頭の問いに戻ってみると、「よく分からない」と言う他ないように思えてくるのです。

それ、単なる思い込みの押し付けじゃないですよね?

「これを誰かに提供したい」というときの、あの不思議なまでの情熱と確信はなんなのだろうかと思うことがあります。
ここにおいて問題なのは、自分が経験していないことであっても、あたかも自身がその恩恵に預かっているような錯覚に陥る場合があるということです。

「自分が高校生のときにこんな授業を受けたかった!」と思うことは個人の自由ですが、それはあくまで想像上の話。
実際のところ、「こんな授業」をきちんと評価しないことには無責任な発想でしかありません。
「私が受けたかった授業は、今の子どもたちにとって必要なことなんだ!」という情熱は単なる「思い込み」と紙一重なのです。

見た目として「なんとなくよさそうなこと」ほど、「思い込み」で留まってしまう危険性があります。
地域活性化や就職活動支援などいろんな人がいろんなことをしている/したいと思っているわけですが、時に「それって本当に意味があるの?」と疑いたくなるようなもの、ありませんか?

「あなたは何がやりたいの?」をいつでもどこでも求められる時代。
「社会に貢献することはいいことだ」という風潮。

こんな中で、「自分がやりたいし、よさそうだし、これやろう!」というちょっと安易で無責任な人が増えているのかな、などと邪推してしまいます。

新しいことを人様に提供する作法を考える

ここで言いたいのはキャリア教育に対する批判ではありません。
何か新しいこと、自分が経験していないことを提供する側が、「自分のやっていることは単なる押し付けではないか」と自己を戒める必要がある、と言いたいのです。

その方法として真っ先に浮かぶのが「デザイン思考」です。

[1] Design Thinking

定義

デザイン思考は、技術的に実現可能なものやビジネス戦略を顧客価値や市場機会へと転換可能なものと、人々の要求とを一致させるために、デザイナの感覚と手法を利用する方法、である。

デザイン思考の系譜 | Design Thinking for Social Innovation

このブログでも度々登場している「デザイン思考」。
僕としては「抽象的なアイデアを具体的かつ効果的に求められる形に着地させる手法」と捉えています。

着目すべきは、デザイン思考の方法ではなく、その意図するものにあります。
デザイン思考のプロセスが生み出すものは、現実的に活用できるモノやシステムのデザインです。
思い込みや押し付けを排除し、意味あるもの、必要とされるものとして、現実との整合性をとっていく。

このような発想に基づけば、他所でやっているものをコピーして我がとこでやろうという事態に陥ることはありません。
「なんとなく良さそうだから」で留まることもありません。

「新しいこと」それ自体が価値を持っているわけではありません。
たくさんのものに溢れる時代に、また新しいものを追加して誰かに利用してもらうということは、思った以上にコストがかかります。
古いものから新しいものへの移行は(たとえ必要性が自明であるとしても)それなりにエネルギーを要するものです。
現実というもの、人間というものの理解したうえで、はじめて意味のあるものを生み出すことが可能となります。

新しいことを誰かにしてもらうということの「責任」について、一層の”配慮”がほしいところです。

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社会貢献をしたいのか、自分の思い通りにしたいのか、はっきりさせた方がいい

カテゴリ:自分事

「秋田を今よりもっと良いところにしたい」という思いは僕がWE LOVE AKITAに参加したり、海士町に移住したりしたことの根元にあるものです。

で、WE LOVE AKITAのような活動をしていると、「地元想いだね」とか「すごいね」とか、そういう漠然とした「良い」リアクションが返ってくることが多いです。

「良い」リアクションを示してくれる人がいることは有難いことですが、それに甘んじていると痛い目を見そう、ということを薄々感じるようになってきました。
僕が、秋田に帰ってから何をするのか、一向に的を絞れないのも、その懸念があるからです。

「社会貢献したい」でたまに感じる違和感

『社会貢献』を買う人たち

ざっくりと「社会貢献」とカテゴライズされるような事柄に関わりたいと考えている人は最近増えています。
「社会貢献」と一言で言ってもその広がりは本当に多様で、地域活性化やまちづくり、環境保護、貧困撲滅、次世代育成、高齢者福祉、途上国支援、就労支援など、枚挙に暇がありません。
社会全体で見ればまだまだ影響が小さいかもしれませんが、そこには無視できない勢いがあると感じます。
最近では被災地支援活動に関わる人が多いですね。実際、これは評価すべきでしょう。

「社会への貢献は誰にでもできることだよ」というふうに動いているのは歓迎すべき傾向であるのは確かです。
しかしながら、(勢力を拡大しつつあるものの常として)最近は”ノイズ”が混じり始めているのではないか、と不安に思うことも少々。

「何か良さそうな感じ」はするのだけれど、どこの誰がそれを求めているのかがわからない。
話を聞いていても具体的なイメージがわかない。

何度かこの違和感と遭遇することがあったこともあり、ある共通点をそこに見出しました。

それ、あなたがやりたいってだけじゃないの?

要は、「誤魔化しているんじゃないか?」ということです。

「自分はこうしたい」というエゴが原点なのに、「地域の課題だから」「人々が求めていることだから」というすり替えが行われる。
どこか地に足の着かない印象を受けたら、まずここを疑うようにしていますが、結構当てはまっているように思います。

「すり替え」というのは、「問題を創作している」と言い換えると分かりやすいかもしれません。
自分の「何か貢献したい」「こういうことをしたい」という思いに任せて、あたかもその問題が存在するような口ぶりで話す。

ホンネと言葉がずれることで、僕も違和感を覚えているように思います。
本当に誰かが必要としていることであれば具体性が生まれるし、エピソードやストーリーが語られることもあるでしょう。

中身は「こうしたい」だけなのに、社会の課題解決の話として体裁を整える。
個人的に、これは本当に止めて欲しい。
自分のエゴを社会貢献にすり替えるという態度がそもそも僕はキライだし、そうして求められていない「良さげなこと」が世に出ることで余計な不和が起こりえます。
主体の頭の中もすり替わっているので、きっと地域や現場を好き勝手にかき乱していることに気づくこともできません。

その典型例が、キャリア教育なのかなと思います。
地方では都会に比べて子どもたちが触れる職業の幅が狭く、夢を描きにくいため、進路イメージをなかなか具体化できない。
しかも世の中はますます厳しくなっている。子どもたちのために、キャリア教育が必要なのだ。

でも今現場で求められていることは全然違ったりします。
大学進学率が低下しているのは教育費の高騰があるからかもしれません。
学力低下が叫ばれるのは、進路意識や動機付けの減退でもなんでもなく、学級経営や家庭の問題なのかもしれません。

キャリア教育の担い手の不在が学校側の悩みになっている?
それをニーズと捉えるか、現場とお上とのずれと捉えるかで問題は違って見えるでしょう。
学校のホンネは、キャリア教育に圧迫される教科教育の時数が欲しいだけかもしれません。
(今度の改正で授業時数は回復傾向にあるようですが)

キャリア教育で優れた効果を出しているところがあることまでを否定するつもりはありません。
しかし、それが他の場所でキャリア教育をやるべき理由にはなるはずがない。

エゴの何が悪いのか?(いや、悪くない)

こう書いてきましたが、僕自身は「エゴ」からのスタートが悪いと言いたいのではありません。

自分が面白いと思うから。何かいいことがしたいから。

そう思うのは個人の自由ですし、別に「動機が不純だから」などと言うつもりはないです。
不純であるかどうかはどうでもいい。「モテたい」がスタートでも構わない。邪悪な動機でなければエゴ丸出しでも。

自分のやりたいことの範囲でやる分には、一向に構わない。
例えば「秋田魂心会」は何よりもやっている当事者たちが楽しいということを第一としています。
秋田を媒介に、共通する価値観を持つもの同士がつながり、楽しむ。
だからこそコンテンツが面白く、たくさんの人が集まり、活動を継続することができるのです。

ソーシャルデザイン」で紹介されているのも、そんな素直な気持ちからはじまったマイプロジェクトばかりです。
ニーズドリブンなケースでも、当然のように課題の特性やそこに関わる人の声に配慮する姿勢が見られます。

繰り返しになりますが、僕が嫌うのは「すり替え」という行為です。
「エゴ 」だと認めればいいのに、下手に自分のことを正当化しようとする。
自分発進なのに、他人のニーズだと言い張る。
発見された問題ではなく、創作された問題を扱う。

「エゴ」を社会貢献に昇華するためには、「やりたいこと」と実在する問題とを結びつける必要があります。
そのためにはどうしたって現場に出向くことが求められます。
少子高齢化という同じ課題を持つ地域だったとしても、余所で成功したところが我がとこでもニーズとしてあるわけではありません。

僕の立ち位置-開き直り

僕のスタートは「秋田に帰りたい」、ただそれだけでした。
帰るからには秋田に何か貢献したい、そう思いながらも秋田の外で考えることの限界を感じてもいます。

僕は地元から離れた高校に通っていたし、地元のこともよく知らないまま大学進学と同時に上京しました。
今や秋田からさらに遠く海士町にまで来てしまっていて、日々WEBだったり知り合いだったりから漏れてくる情報を目で追うのみです。
こういう状態なので、「やるべきこと」、埋めるべきピースが見つかる予感があまりありません。

「秋田に帰りたい」、ただそれだけで誉めそやされるようなこともある時代。
東京や海士町で学んだこと、めぐり合った人とのつながりもあり、「何かできそう」な感覚をついつい持ちそうになります。

それでも僕はその気持ちにブレーキをかけたい

「何ができるかどうか考えられるほど、自分は地元のことを知らない」

僕はもっと基本的なところで、「地元で家族や友人とともに、幸せな暮らしがしたい」、そう考えていることに気づきました。
ただそれだけのことを、「地元に貢献する」という言い方にしたくない。
海士町に来て、ますますそう思うようになりました。

どこまでも、謙虚に。かつ、率直に。

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失われる秋田への眼差し-特集「忘れられた秋田人」

カテゴリ:自分事

アサヒコムの秋田版に「忘れられた秋田人」という特集記事が組まれています。
2012年1月5日から1月13日という新年早々のタイミングでアップされており、震災の翌年に東北に位置する秋田のこれからを見つめなおす意図があったのではないかと思います。

特集のタイトルは今なお慕う者の多い民俗学者・宮本常一の著書「忘れられた日本人」になぞらえたものです。
宮本常一はフィールドワークに数多く出向き、農山漁村のありのままの姿を記録しました。
自ら集落を練り歩き、地域の人と会話を交わす。「日本」に注ぐその暖かな眼差しを現代の日本で再現しようという、記者の意気込みが感じられます。
(個人的にも「忘れられた日本人」は一読をお薦めします。昔の日本の暮らし、そこに生きた人々の姿がありありと目に浮かぶ描写は圧巻です)

特集は全10回組まれています。
この特集で初めて知ったことも多く、とても有意義な記事ばかりです。ぜひお読みください!

忘れられゆくものたちへの眼差し

現代に生きる僕たちは資本主義の恩恵に預かりながら”豊かな”暮らしを享受しつつ、思い出したように失われていく何かに目を向けることがあります。
しかし、失われていく何かは同時にこれまでの資本主義においては評価のしようがなかった代物であるということを自ら示しています。
(自然の摂理と言うべき)資本主義から脱却することが不可能な僕たちは、それらに一瞥をくれるのがやっとだったのです。

なぜ僕たちは古くから伝わるもの、文化と呼ばれる類のものを無視することができないのでしょうか。
そこには何らかの寂しさやノスタルジアが含まれていることは容易に想像できます。
あるいは、一種の罪悪感が目を反らさせないように作用しているのかもしれません。
失われていくものに目を向けたとき、多くの場面で「僕たちはすでに当事者でなかった」と気づかされることがあると思います。
この無力感とも言うべき感覚によって、もはや目を向けること”しか”できないのかもしれません。

失われていくものたちは、資本主義の外部でひっそりと消え去るのみですが、その内部に組み込まれている僕たちにも何らかの喪失感をもたらします。
失われていくものたちは、きっと何らかの形で、僕たちと繋がっていたのでしょう。
しかし、とても悲しいことに、僕たちはその喪失感を以ってはじめて失われていくものたちの存在を強く認識するようになっています。

それでも、目を背けずに

誰しも喪失感を味わいたくはないはずですが、問題は当事者の資格を得るためには多大なるコストを支払う必要があることです。
無力感も習慣化すれば諦めに変わることもあるでしょう。

それでも、失われていく何かへ向ける眼差しを絶やさないことはいつだってできます。
目を背けないことが結果的に何かいいことに結びつくとも限りませんが、向き合うことすら辞めてしまったらそこで可能性が途絶えてしまいます。

グローバリゼーションの進行により、社会は僕たちを短期的な利益に目を向けるように働きかけます。
ここでも、「何かいいこと Something Good」の精神が必要です。

「Do Something Good」
何か具体的に良いことをもたらすかどうかはわかりません。
しかし、可能性を閉ざせばどうあっても良い方向に流れることはありません。

僕たちは、「より良い社会」「あるべき姿」「Something Good」に投資することを文化とすべき時代に生きているように思います。
僕たちは、心のどこかにある喪失感や無力感を無視するかどうかで、21世紀を20世紀の単なる延長するかどうかの岐路に立っているように思います。

利益に直結するかどうかわからなくても、「可能性」に投資する。
21世紀は一人ひとりの姿勢が問われる時代なのではないでしょうか。

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