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基準が「私」なのか「みんな」なのかの絶望的な違いとデザイン思考

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精神論or自己啓発論っぽいタイトルですが。

物事の判断や評価の基準に「みんな」とか「一般的に」といった物差しを持ってくる人と、「私が決めたから」「自分はこう思うから」と言える人。
この両者の間には、なにか絶望的なまでの違いを感じることが多いです。

“絶望的な” という表現は、両者の優劣ではなく、一方からもう一方へ移ることのできる可能性に対するものです。
なぜそのような違いが生まれるのか、そのメカニズムからしてよく分かりません。
しかし、確実にその区別は存在しているように思います。

判断基準をみんなに託すことについて

判断や評価の基準を自分でなく他の何かに託すことの最大の弊害は「納得感を得られない」ということです。
「みんな」の基準は、自分が本当に求めていることとずれているからです。

至極当たり前のことを言いました。
統計的に就職活動生の志望に関するトレンドを把握することは可能ですが、当然ながら実際の志望は一人ひとり異なります。
これは卑近な例ですが、要は「みんな」の基準は一人ひとりの基準と比べれば抽象度が高い、ということになります。

世の中に流布され共有される価値観というものは、抽象化されてしまっています。
全体的な傾向を把握することはできるかもしれませんが、一人ひとりの人間の具体性に迫ることは難しいのが実状です。
「みんな」や「世間」は、自分をある程度代弁してくれるのかもしれませんが、しかしそれらは同時に個々人の性質をある程度無視しているのです。

アイデンティティは自己同一性と訳されますが、言い換えると「任意に二人を選べば、その二人は必ず異なる」ということ。
極論を言えば、一人ひとりの課題は個別具体的なアプローチでしか解決を見出せないのです。
しかし、それではあまりに効率が悪いため、 今では集団からある程度共通の性質を抽出し、抽象化された「問題」を解決するのが一般的なアプローチとなっているでしょう。
文字にすればこれはものすごく当たり前のことだと分かるのですが、あらゆる場面で見過ごされているのが事実です。

「みんな」や「世間」の基準で判断し、評価することには限界があるということは、ほんの少し考えれば分かることです。
しかし、実際にはそれらに頼る人が少なからず存在するように感じています。
(もちろん、100%自分の基準を採用している人もいないでしょう。したがって両者のブレンド具合の問題となります)

「ほんの少し考えれば分かる」はずなのに、できる限り自分の基準で選ぶということができない。
このメカニズムが、よく分からないのです。

デザイン思考との関連について

関連があるとすれば、それはデザイン思考の分野です。
デザインのプロセスにおいては、抽象性と具体性を行き来することが求められます。

発想法―創造性開発のために」という本で「KJ法」が紹介されています。
「KJ法」は、フィールドワークから収集された事象の中に関連性を見出し、グルーピングし、図解し、文章化する作業を経て、具体性から抽象性を引き出します。
ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術」でも紹介されており、現在でもワークショップなどで活用されています。

この手法で肝心なのは、個別具体的な事象から抽象的な「まとめ」を引き出す過程では既存の知識体系やフレームワークを持ち込んではならない、という点です。
求められるのは、常に目の前に並べられた数々の事象の中に埋め込まれている関係性や構造を見出すことなのです。

調査等で明らかになったさまざまな要素のあいだの関係性を見つけて構造化する作業を行なう際に自分たち自身でそこに隠れた関係性を発見することができず、結局、どこかから既存の枠組みをもってきて、その枠の中に要素を位置づけてしまう。つまり、要素間の関係性を眺めながらこれまでの文脈にない構造=ルールを見出すことができず、既存の枠組み=ルールのなかで解決しようとしてしまう。それではルールのなかでうまくやることはできてもルール自体を新しく作るようなイノベーションはできない。

切開~抽象化する思考スタイルの欠如:DESIGN IT! w/LOVE

既存のものを適用するのではなく、「見出す」という観点が重要である。
これは、判断基準を「みんな」に託すことの危険性にもつながる議論ではないでしょうか。

「実践より理論」ということに対するアンチテーゼとして、プロトタイピング等で「理論より実践」にいくぶん回帰した方向性をみせるデザイン思考のポジションも日本では理解されません。それはあくまで「実践より理論」とうことによって可能になったデザインするという行為が、ほんのすこしだけ「理論もいいけど実践もね」という側にシフトしたのであって、まずは抽象化による理論化が身に付いていない日本においては、そのまま受け入れられるものではないということが認識されていない。

切開~抽象化する思考スタイルの欠如:DESIGN IT! w/LOVE

もしかしたら、既存の知識体系や「みんな」の基準に頼ってしまうのは、「抽象化による理論化が身に付いていない」ためにそうせざるを得ない、という背景があるのかもしれません。

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アラゲホンジ-秋田・東北のソウルミュージックの古くて新しいカタチ

カテゴリ:自分事

アラゲホンジというバンドが、最近HOTです。

秋田県南部出身のボーカル・齋藤さんの秋田弁、高らかになる笛の音、心を震わす太鼓のリズム。
ギターは高揚感にあふれ、共に踊り戯れたくなるパフォーマンスも魅力です。

僕は3331で齋藤さんのソロを一度だけ聴いたことがあり、それからずっと気になっていた存在でした。
今年は1stアルバム「アラゲホンジ」がリリースされ、「ototoy」というサイトでも超高音質音源が販売されています。

業界での評価も見逃せません。
2010年にはあのFUJI ROCK FESTIVALにも出演を果たし、1stアルバムは「ミュージックマガジン」誌でレビューが掲載されています。

もう、超かっこいいです。ライブがみたくてしょうがない!

ちなみに、「りんご追分」のカバーもめっちゃかっこいいのですよ。

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社会人基礎力にも扱われていない「体力」について

カテゴリ:自分事

最近忙しさが増しており、ブログ更新が滞っています。読書も進んでいません。
体力的に余裕があれば、帰宅後30分は読書やブログ執筆の時間にあてるということもできますが、現実的には体が追いついていません。

おそらく、今は東京にいたころよりも体力が落ちていると思います。
なんだかんだで電車通勤は歩く時間が長いですしね。以前は一日30分近くは歩いていました。
海士に来てからはしばらく自転車通勤でしたが、年明けくらいから自動車通勤に切り替わり、運動量ががくっと落ちたことが影響していることは間違いないでしょう。

元々体力がなく、どちらかというと気力で前職のハードワークを乗り切っていたということもありますが、最近の衰え方にはいろいろ反省させられることが多いです。
疲れていると脳が働かず、重い仕事を敬遠しがちになり、結果的にハードワークを再生産する構造になってしまっているのは見逃せない事態です。

そんな状況にいるためか、こう思わずにはいられません。
「社会で活躍するために必要な力」として、実はフィジカル面(+メンタル面)の充実・安定が大前提としてあるのではないか。

「社会人基礎力」にも記載されていない「体力」

「社会人基礎力」という言葉は、ほとんどの方がご存知ではないでしょうか。

「社会人 基礎力」は経済産業省が策定したもので、「職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な力」として、3つの能力/12の能力要素によって定義されています。

前に踏み出す力(アクション)
~一歩前に踏み出し、失敗しても粘り強く取り組む力~

・主体性:物事に進んで取り組む力
・働きかけ力:他人に働きかけ巻き込む力
・実行力:目的を設定し確実に行動する力

考え抜く力(シンキング)
~疑問を持ち、考え抜く力~

・課題発見力:現状を分析し目的や課題を明らかにする力
・計画力:課題の解決に向けたプロセスを明らかにし準備する力
・創造力:新しい価値を生み出す力

チームで働く力(チームワーク)
~多様な人々とともに、目標に向けて協力する力~

・発信力:自分の意見をわかりやすく伝える力
・傾聴力:相手の意見を丁寧に聴く力
・柔軟性:意見の違いや立場の違いを理解する力
・情況把握力:自分と周囲の人々や物事との関係性を理解する力
・規律性:社会のルールや人との約束を守る力
・ストレスコントロール力:ストレスの発生源に対応する力

社会人基礎力(METI/経済産業省)

これ自体の是非についてはこの記事では無視しますが、改めて見てみると、いわゆる「コミュニケーション能力」に関連する項目が多いですね。

さて、ご覧の通り、この「社会人基礎力」の中には冒頭で僕が言及した「体力」なんて項目がありません。
どちらかというと「思考」や「行動」の特性を表現している印象があります。

これに限らず、「社会で必要な力」を問われる場合、多くの人はアウトプットや成果につながる力を第一に考えるようです。
この傾向は「社会で必要な力」でググってみることでも確認できますね。

 

「基礎」という言葉をどう捉えるかの問題になりますが、「社会に必要な力」はアウトプットに直接関わるような”力”というイメージで捉えられています。
一方、そのアウトプットやパフォーマンスの持続性、安定性を決定付けるという意味での「基礎」としての性格はあまり加味されていないようです。

個人的に気になるのは、「残業」に関連する議論です。
残業が批判されるのは、「時間内に仕事ができない奴に給料を割り増しで払うのはおかしい」とか「サービス残業は規制しろ」という文脈で語られる場合が多いです。
ここには、労働時間を給料が発生するかどうかでしか見ていないようなニュアンスを感じます。
実際には、法定労働時間が定められた背景には、「労働者の健康を維持する」という目的があります。
この大前提が無視されている現状から察するに、日本人の健康に対する意識は低いと言わざるを得ません。

能力が意識されるとき

ご察しの通り、この記事ではフィジカルやメンタルの重要性を強調したいわけですが、その前になぜそれが軽視されがちなのか、その構造を見てみる必要があるかもしれません。

まず、どのような場面で能力が意識されるかを考えてみます。

例えば、「語学」がスキルや能力として意識されるのは、ビジネスや留学時など外国語でのコミュニケーションが目的達成の際に重要性を増すときです。
逆に、学校で英語の勉強をしているときには、ほとんどの場合それは受験のために学ばなければならないものという位置づけになっています。
つまり、英語それ自体を活用する目的からは必要とされておらず、その結果受験英語を学んだ人の大半がそれをスキルとは意識していません。

この違いは重要ではないでしょうか。
何らかの技術や知識、処世術、性格、あり方が目的達成のために活用されることが必要とされるときに「スキル」とか「能力」と呼ばれるようになるのです。

一方で、日本で日常生活を営むときに、日本人である僕が「日本語は必要だなあ」と感じることはほとんどない、という点にも留意する必要があります。
必要性を実感するのは、日常生活以上の高度なレベルでの日本語が求められるような、たとえば文章読解や文章作成、推敲のときです。

つまり、目的達成において能力の不足が自覚され、更なる修練が求められることが、「能力」を自覚するきっかけとなるのです。
それもあって、他人と比較したときにその差異に気づき、能力の不足を自覚する、ということは結構あります。

なぜ体力は必要な能力の候補に挙がらないのか?

能力が意識される構造を考えてみると、社会に必要な力として挙げられる能力は、何か事を進める上で必要が生じる(=不足しがちである)ということが言えそうです。

さて、そろそろこの記事の本題に突っ込んでいきます。
ではなぜ、体力は必要な能力の候補に挙げられないのでしょうか?
※ちなみに、企業の求人を見ると、「 心身ともに健康な方」という要件があったりしますよね。

この問いを考えるために、「日常生活で日本語は能力として意識されない」という点に注目してみましょう。

当たり前にできることは、もはや能力としては意識されません。
逆に、無意識のうちにできてしまうことが実は他の人にはない自分の長所だった、なんてことも結構あります。

体力も同様です。
体力が意識されないということは、あって当たり前、という認識がなされている(というか無意識にそう位置づけられている)ということです。

僕の場合、「自分は体力がないなあ」と思うのは、体調を崩したときとか、自分よりもバリバリに働いている人を見たときです。
そう自覚ができると、これまでの活動や仕事の仕方を振り返って「体力を気力でカバーしていた」とか「疲れていてもパフォーマンスを落とさないようなスタイルを確立しようとしていた」と、過去の経験から気づくこともあります。

また、体力の必要性が無視されるのは、パフォーマンス低下の原因が”勘違い”されてしまうことにも起因しているように思います。

普段関わっている生徒は「授業中集中できない」とたまに口にしますが、その結果彼らは「自分が集中力がない」と判断しています。
果たして本当にそうなのか、個人的には十分に疑うべきと思っています。
ある小学校の先生に伺った話ですが、集中力がない子は夜遅くまで起きていたり、朝食を抜いている場合が結構多いそうです。
また、精神的な負荷が大きいときにも、目の前のことに集中できず、あれやこれやと気が散るということも少なくありません。
そもそも、原因を「集中力がない」というふうに設定してしまうとその改善を図るのが難しくなる、という問題もあります。

「集中力がないから」という言葉の裏には、自分の能力のなさや性格上の問題を反省する態度が見受けられます。
「できない理由」を自分の努力や資質の不足に求めがちな日本人の傾向が、ここにも当てはまっているようです。
※参考:日本人は「自分で何とかする」美談が大好き?

もっと冷静に考えてみる必要があります。
疲れているときにイライラしたり、 身の回りのことが見えにくくなったりした経験は誰にでもあるはずです。
特に、日本はストレス社会であり、精神的な負荷が不眠や暴飲暴食/食欲不振、頻繁な喫煙などにつながり、身体的にも影響が生じます。

個人的に、”新人”ほど自分を責める傾向が強いように思います。
その理由として、パフォーマンスが安定する要因をまだ自分で掴みきれていないからでしょう。
逆に、例えば年齢を重ねて無理が利かなくなったり、若いときよりもパフォーマンスを安定させるのに苦労する、という経験をする場合には、体力の劣化として認識されやすいように思います。

心身の健康がもっと重要視されるために

僕が学生に「社会で必要な力って何ですか?」と聞かれたら、迷わず「基礎体力とメンタルヘルス」と答えます。
要は、心身の健康ですね。

特にメンタルヘルスは自分でメンテナンスできるようにした方が身のためです。
新人の場合、新しい環境へ適応するストレスに加えて、職務内容や上司や先輩との相性により、高校・大学時代では経験しないような大きなストレスを受けるリスクがあるからです。

個人として意識するべきことは、2点あると思っています。

・健康やメンタルヘルスの問題は、誰にでも起きうると認識すること。
・厳しい状況でも自分を過剰に責めるのをやめ、ストレスの発生源や疲労の原因を冷静に検討すること。

また、制度や日本人の健康に対する認識にもメスを入れる必要があるでしょう。

先に上げた「残業」のとらえ方もさることながら、「健康診断 」の制度運用自体にも疑問があります。
会社から言われてとりあえず受けるものの、そこで健康面に問題があった場合のガイドラインは普段意識されていません。
ここにも、健康であることが通常とされ、健康を害した場合は例外的に扱われる、という状況が垣間見えます。

メンタルヘルスは企業研修でもかなり需要の大きいものになっていますが、個人や組織内でのメンタルヘルスへの意識付けや人事部などを中心とした制度設計の促進はなされるものの、その運用自体が働く社員に共有され、ガイドライン化されているかは気になるところです。
要は、「健康を害したらなんとなくやばい」ではなく、健康状態に応じてどのような対応がなされるかが把握されるような工夫が必要だということです。
もちろん、そこには組織風土、特に上司の理解の必要性も含まれています。
やばいときにはやばいと言えること、そして健康の悪化によってキャリア設計を不当に害さないことが組織に求められるように思います。

健康も個人の責任にされる傾向がありますが、実際は外部からの影響を強く受ける場合も十分にあります。
社員の健康状態を維持し、パフォーマンスの安定を図ること、そして健康を害したときのガイドラインがあることは、職場環境として不可欠であり、「自己責任だから」と手を抜いていいものではありません。

僕が再三ブログで言及している「自己責任」という概念の存在が、ここにも見え隠れしますね。

(しかし、この程度の内容でこれだけ長文になるというのは問題だなあ。)

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