Category Archive: 自分事

6日間、東京旅行に行ってまいりました

カテゴリ:自分事

※ただの「日記」ですので、興味のない方はスルー願います。

9/20(火)~9/25(日)の日程で東京に行ってきました。
兄の結婚式に出席することが今回の主な目的。
なかなかハードでかつ印象深かった式にいたるまでの行程を、まとめてみました。

1日目:台風をかろうじて回避し、無事東京へ。 

本当は9/21に出るつもりでしたが、ご存知の通り、台風接近によりフェリーが欠航する恐れがあったため、急遽予定を前倒しで9/20に島を出ることになりました。
フェリーはなかなかのゆれで、船体のきしむ音が波の強さを際立たせます。

その日の最終の飛行機に滑り込みで変更して東京へ。
上空はやはり風が強く、特に着陸までの揺れ方に冷や汗をかいたことは忘れられません。
羽田空港着陸後、米子空港の待合室で予約した品川プリンスホテルへ直行し、宿泊。

2日目:台風に振り回されて、お一人様。

式場である東京ディズニーシーのホテル・ミラコスタに移動するまでの空き時間。
とりあえず放置していた髪をカットしてもらうために、東京時代に通っていた美容院へ。
1年ぶりでしたが、残念ながらずっと担当してもらっていたお兄さんが退職された後でした。
美容師という職業の苦労や魅力、いろいろ興味深い話がもう聞けないのかと、しみじみ。

台風が夕方に直撃することを知り、高田馬場のカフェで時間をつぶす予定を変更し、高田馬場での昼食後、すぐに舞浜へ。
が、八丁堀まで移動したところで京葉線の運休を知ることとなりました。
とりあえず冷静に他の経路を確認し、浦安からバスへ乗ることに。

ところが浦安についてみたら、すでにタクシーもバス停も驚くほどの行列。
強まる暴風雨の中でバスを待ち、30分から1時間ほどでようやく舞浜方面のバスに乗り込むことができました。

舞浜駅からディズニーの敷地内を走るモノレールに移動。
海沿いなのに普通に走っているモノレール。そして、合羽やポンチョで武装した乗客の姿。
暴風にあおられたためか、不自然に揺れる車両をもろともせず、客をゲートに吸い込んでいくディズニーの底力を目の当たりにした感があります。

なんとかミラコスタに到着後、秋田空港を出た親から「東京行きの飛行機が福島で引き返した。」という連絡。
当初家族4人が宿泊する予定だった部屋に、一人で宿泊するはめに。まさかのミラコスタ・お一人様。
4人部屋に一人…。さみしすぎる…。というわけでマレーシア戦を見て、おとなしく寝ました。

3日目:式当日、久々に泣いた私。

さすがに快適な、しかし寂しいミラコスタでの一夜が明け、のんびりとチェックアウト。
部屋を出る時点でスーツに着替えていましたが、ロビーで一人だけの背広姿が浮く、浮く。
速やかにチェックアウトを済ませ、早々に親族の控え室へ向かいます。

しばらくすると兄以外の家族が勢ぞろい。
家族とは年末年始以来の再会ですが、車椅子に乗る祖父も元気そうで安心しました。
(後で聞きましたが、式に来て一気に元気になったそう。「夏を越せるのか」と両親が心配するほど、体調が良くなかったようでした)

撮影係を任せられ、さらに当日になって受付を担当することが判明し、親族でありながらある種客観的な視点を持ってチャペルと披露宴に参加。
デジ一を託されたものだから調子に乗ってしまい、100枚は軽く越えるくらいは撮影したのではないでしょうか。

最もシャッターを切る頻度が多かったのは、兄が(両親ではなく)祖父へのメッセージを読んだとき。
兄が声を詰まらせながら一言一言を読み上げる姿を見て、思わず僕も涙を我慢することができず、ただただシャッターを切ることしかできなかった、という表現が適切かもしれません。
この式は、兄にとっては祖父への想いを示すための機会だったのではないか、と感じさせられた一幕でした。
(そういえば、親族も新郎側の方が多く出席していましたし)

ちなみに、式自体は「さすがディズニー」という印象。ウェディングであっても、そこにはディズニーのエンターテイメントがありました。
当日の写真はほとんどが父のカメラに納まっていますが、一部は父のブログからご覧いただけます。

式後は兄と祖父を除いた家族5人で園内へ。
台風一過の青空も夕方までは持たなかったようで、ぱらつく雨の中、80分間の待ち時間を嫌ったもう一人の兄(次男)と僕(三男)とで夕食。
ビールを飲みながら、兄の将来像を聞き、こんなこと考えるようになったのか、とついつい上から目線になりながら、いろいろとお互いの思うところを話しました。
そういえば、兄弟でお互いの将来の話をする、というのは今まであまりなかったんですよね。
僕は秋田に帰りたいと思う一方、他の兄弟はどうするつもりなのか、確認する必要もあるよな、とあらためて思ったのでした。

久々に家族にも会えたし、ああいう場で「うちの家族らしさ」がいろいろ見れて、感慨深い一日でした。

 

23~25日は東京観光。いろいろ歩き回って疲れもしましたが、久々にのんびりとした時間を過ごせました。
7月には在京の知り合いと話す機会がたくさんあったのですが、純粋に東京を楽しむのも悪くないですね。

今日から通常業務に入っている自分に違和感を覚えるくらい、東京での5泊6日で、長く濃い時間を過ごすことができました。
それでも、海士の空気は綺麗で、空が広くて、四季の移り変わりや時間の流れを感じることができて、やっぱりいいところだなーと感心しきりです。

早く実家にも帰りたいな。といっても年末年始の予定ですが。

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海士町で過ごしたお盆とお盆の以前/以後

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最近ブログの更新が滞っていました。

今日は、本格的な雑記。8月の過ごし方をちょっと振り返ってみます。

8月1週目は、僕が働いている海士町の公営塾「隠岐國学習センター」に短期でインターン生が来ていて、その対応。他のスタッフが全員出張などで島外へ出ていたため、ドタバタ。
8月2週目は、塾の夏期講習があり、インターン生とともにその準備と運営で手一杯に。
夏期講習終了後はそのままお盆に突入し、土日はドライブに花火に海にと夏を満喫しました。
先週は遊びほうけた余韻に浸りながら、徐々にリズム作り。
今週辺りから、ようやく通常営業に戻れるくらいにはなったかなと感じています。

海士町の夏は、今年が初めてでした。
2009年2月中旬、雪がちらつくほどの時期に初めて訪れ、新卒で入社した会社を退職し、移住したのが2010年10月末。
昨冬は「こんなに雪が降るのはめずらしい」と多くの人が口をそろえるほどだったようです。
それでも降雪量や気温自体は僕の故郷・秋田に比べて寒いということはないと思いますが、離島特有の強風のおかげで、ずいぶん寒い思いをしたもんだ、と振り返って思います。

「夏は楽園だわい!」という、周囲の言葉に期待を煽られながら迎えた、離島の夏。
盛大に降り注ぐ日差し。べっとりと肌に張り付くような湿気。
高校卒業時からコンクリートジャングルで5年半を過ごした身としては、久々に日本の夏を過ごした感覚があります。
エアコンどころか(買えばいいのに)扇風機もない家で、何度も寝苦しい夜と闘いました。

気温だけが上昇したわけではありません。夏の到来と共に海士町全体が観光客の賑わいや祭り、イベントで熱を帯びていきます。
この夏を存分に楽しんでやろうという、島の住民の意気込みがあるからこそ、海士の夏が楽園たりえている、そう感じました。

僕個人としては、やはり海の存在が大きいなーという印象があります。
今夏、僕は2度しか海遊びをしていませんが、透明感のある青い海に潜ると、小魚の群れが手の届く範囲を泳ぎ、ウニやサザエがそこら中に住んでいて、内陸育ちの僕にとっては驚くほどの魅力がそこにあふれていました。
(※ご存知の通り「漁業権」というものがあるので、取り散らかすのはご法度です)

海の豊かさ、美しさをこんなに身近に、手軽に(海にじゃぽーんと入ればいい!)味わえるなんて。

「豊かな自然を身近に感じられる」ことが、豊かな心、ゆとりのある心を育む。
直感的に、そんなふうなことを思いました。

盆を過ぎたとたん、この夏ほとんど降らなかった雨が一週間近く降り続け、「あっ」という間に夏は終わりへと向かい始めています。
「海遊びも盆まで。盆を過ぎたらクラゲが出てくるから。」なんて話もあるくらいで、この島においても昔から盆が一つの季節的な区切りになっているようですね。

今朝の日差しは、最後の最後、という感じ。仕事場を通り過ぎる涼しげな風に、夏の終わりの気配。

 

これは隣の島・西ノ島町の「通天橋」。

 

海中展望船「あまんぼう」から。海が青い!

 

 「あまんぼう」の中から撮影。Amazing!

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ブログに何かを書くということ-固定することへの躊躇

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最近、このブログには本を読んでの感想やWEB等で見つけた記事に対するコメントを多く書いています。
一方、以前のブログのようにより大きな視点でモノを書く、ということが少なくなりました。

意識的にしているつもりはないので理由を説明することは難しいのですが、強いて言えば、「考えを固定すること」に対して自分自身、躊躇しているところがあるように思っています。

躊躇の正体

例えば、以前アキタ朝大学さんのHPに「コミュニティ」をテーマにした記事を4回に分けてご掲載いただきました。

[アキタ朝大学コミュニティ研究室]日本海に浮かぶ離島から(最終回)-秋元悠史 [2011/07/04]
[アキタ朝大学コミュニティ研究室]日本海に浮かぶ離島から(3/4)-秋元悠史 [2011/06/25]
[アキタ朝大学コミュニティ研究室]日本海に浮かぶ離島から(2/4)-秋元悠史 [2011/06/17]
[アキタ朝大学コミュニティ研究室] 日本海に浮かぶ離島から(1/4)-秋元悠史 [2011/06/10]

書き終わった後になってその分量に自分でも呆れてしまったわけですが、これだけ書いてしまうと、一旦この話題について自分の中で区切りがついてしまったような感覚があります。
それによってこの話題が自分の中で固定され、一連の議論が、検討されるものというより、これ以降の議論のベースとなりつつあります。

それがいいことなのか悪いことなのか、まだ僕には判断がついていません。
コミュニティについて自分なりに考えを深めるためには、どうしたって議論に見切りをつけながら次のステップに進んでいくことが必要となります。
しかしながら、十分に検討した上で次に進んでいるのか、不安になるのもまた事実です。

ブログに考えをまとめるということは、その時点での結論を一旦固定することだ、と最近考えるようになりました。
なんらかのプロセスを経て練られた考えであっても、固定した記事に表現されるのは結果だけであり、そのプロセスの中に含まれているはずの気付きも戸惑いもすべて文章に込めることは、到底無理なことです(単に僕の文章力の問題かもしれませんが)。

固定するということは、何かを捨てることにつながる。
しかし、今の時点で捨てる作業を行って良いのだろうか?(いずれ必要だとしても)
そう考えている僕にとって、ブログに考えをまとめていくことは躊躇を伴うものとなっています。

固定されたモノに囲まれた世界

まず、ここであらためてポイントとして確認しておきたいのは、会話は記録できないということです。
いや、おしゃべりは記録できない、といったほうがいいでしょうか?
もちろん、議事録をつくったり、おしゃべりの光景を録画して残すことはできます。ただ、それがおしゃべりの記録といえるかというと、どうもそうはなりません。議事録や録画にはおしゃべりの場に参加していた人が感じていた「もの」が残りません。
そして、おしゃべりの場合、記録可能な言葉そのものより、その感じていた「もの」のほうが大事だったりします。つまり、おしゃべりというのは、きわめて体験的な性格をもっているといえると思います。

人を魅了する見かけが、コミュニケーションの仕掛けをわかりやすくするとともに、大衆を欺く:DESIGN IT! w/LOVE

このブログの著者の棚橋さんの言葉はいつも「考えたこともないけれど、なるほど確かにそう考えることもできそうだ」という絶妙な塩梅の気付きを与えてくれます。
固定することに対して慎重になりだしたのは、このブログを購読するようになってからのことです。

著書「ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術」のあとがきに、「デザインしすぎない」という言葉があります。
デザインとはあるものをある状態に「固定する」ことであり、その言葉の裏側には例えば上の引用文にあるような考えが潜んでいるのだろうな、と推測できます。

移転前のブログにこんなことを書いていました。

デザインがそうであるように、価値観は「固定」することで生まれる。
時間の流れ、連続性、それが生み出されるまでに関わった大小さまざまな因子を削ぎ落として。

僕らはそのプロセスでなく、結果としての価値観と常に対峙することになる。

ワカモノの不安と大量生産・大量消費される価値観:秋田で教育を考える – 日々勉強中

この記事の冒頭にも、棚橋さんのブログの引用文を掲載していますね。

僕らは「すでに誰かの手でデザインされたもの」にあふれ返った世界に生きています。
物質的なものに関わらず、体系化された知識や価値観やイデオロギーといったものに至るまで。
今や、僕らは生産をせずとも、消費するだけでとりあえず生きていけるくらいの時代なのです。

学問というものを見れば分かるとおり、固定することは進歩するために必然的に求められることです。
今の時代の豊かさは、僕らが進歩した結果、モノを固定してきた結果という説明をしてもいいでしょう。

進歩するために

一度モノを固定した状態から次のステップへ進むためには、おそらく二つの手段しかありません。

・固定されたモノをより良くする
・固定されたモノを壊し、新たにモノを固定する

企業活動にあてはめると「持続的イノベーション」と「破壊的イノベーション」といったところでしょうか。
ここで重要なのは、どちらがより本質的であるかという議論ではないように思っています。

進歩するためには、その前に固定されたモノがあることが大前提となるのではないか?

より良くするためにはその対象となるモノが必要です。
破壊して創造するためには、そもそも破壊するものが必要です。

僕が自分の興味・関心について、議論を積み重ねるためには、「積み重ねる」モノがなければいけません。

固定することは怖い、しかし進歩のためには固定しなければならない。

そのようなせめぎあい、ジレンマを自覚した上で、日々考えたことを丁寧にこのブログに書いていこうと思っています。

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