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受け手をバカにしないエンターテインメントのために

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娯楽の意義を考えたことがなかった

先日、五城目町から、実家の大仙市神宮寺へと帰省したときのこと。実家では意識せずともだらだらと時間を過ごすことになるのだけど、今回はWOWOWでたまたまやっていたミッション・インポッシブルの1と2を観た。元来、映画という娯楽に時間を費やすことにはどちらかというと消極的だった僕は、誰もが知るこのシリーズを、恐らく初めてほぼ通しで視聴したのだった。そして、実家から戻ってきたこの1週間の間に、Amazonプライムで視聴可能なMIシリーズをすべて観終わったのが、ついさっきのことだ。なんというか、率直に面白かった。単に消費者でいられることのありがたさにもたれかかることができて、おかげでハードな週の諸々からリフレッシュできたような気がする。

なんとなく避けてきた王道シリーズを制覇してみようと思ったのは、きっと、6月から受講を始めたオンラインの文章講座の影響だと思う。その講座で提供されているライティングの技術は、これまで僕がブログ等で培ってきたそれとは、似ても似つかぬものだった。不慣れな書き方に当初は悪戦苦闘していたのだけれど、段々とコツをつかめてきている。テニスで例えるなら、一発で勝負を決めようと欲を出せばすぐミスをするが、多少はラリーがつながるようにはなった、という段階だろうか。

その文章講座が目指しているものを一言で表すとすれば、それはきっと「エンターテインメント」、つまり娯楽なのだと思う。一方、僕がブログで日々書く文章は、娯楽性に欠けたものが多い。いや、むしろ、僕という人間の性質がそもそも、これまで娯楽を好んでこなかった。純粋に楽しく面白いだけの小説は、もちろん「面白い」のだけれど、それだけでは物足りないのだった。僕は、その後に自分の中に残るものに重きを置いているのだから。

そして、テレビゲームよりも受動的でかつ純粋な娯楽をスルーしてきたために、僕はエンターテインメントの意義というものを考える機会を逸していたということがわかった。それを気づかせてくれたのは、その文章講座と、MIシリーズだった。

エンターテインメントの難しさ

エンターテインメントの価値について、素晴らしい文章をたまたま見かけたので、引用してみる。

そもそも、エンターテイメントをはじめ、娯楽というものは、受け手が自分自身の価値観を肯定するために存在する。
娯楽とは、そのための手段のようなものだ。

作品を通じて私たちは、自身の中にある感情や価値観は正しいのだと認識(肯定)し、自身の価値観や人格を作り手と共有する。
それにより満足や充実感を得る。
「楽しい」とか「面白い」とかいう感覚は、その結果として生まれる副産物みたいなものだ。

音楽をはじめ、あらゆる娯楽が存在する理由 MY GREATEST TRACKS

エンターテインメントは、自己肯定を深めるものであり、その副産物として「楽しさ」「面白さ」がもたらされる。どれだけfunnyあるいはinterestingであっても、自己肯定につながらないコンテンツはエンターテインメント足り得ない。

そこで、僕は根本的な問題にぶち当たることになった。エンターテインメントとして、純粋に読んでいて楽しめる文章にしようという試みが、自分の中でしっくりこないのだ。書いていて楽しくない。今はスタンスを矯正している途中だから、修行みたいなものだ、楽しくなくてもしょうがない。そんなふうに思いながら、書いていた。

あるとき、知り合いに、「この講座で書いている文章より、普段のブログの方が、僕は好きだな」と言われた。なるほど、確かに、ブログを書いているときのほうが、個人的にワクワクすることが多い。それは、自分の自己顕示欲を満たせるから、というのもあるが、どうもそれだけではないような気がする。もっとシンプルに、書いている文章に自分で納得感があるかないか、という問題がある。

そこではたと気づいたのだった。そうか、読む人を楽しませよう、読む人をまるっと肯定するような文章を書こう、そういう意識が、知らず知らずのうちに、読み手の知識量や理解力を低く低く見積もろうとしていたのではないか、と。言葉を選ばずに言えば、僕は、エンターテインメントを意識するあまり、受け手をバカにしてしまっていたのかもしれない。

ブログは、率直に自分のために書いていた。自分の土俵だからだ。広く一般に読まれなくてもいい、そういうスタンスだったから、自由に書けた。今は、広く読まれる文章を意識して書いている。不慣れなチャレンジを通じて、僕はどこかで大きな誤解の中に迷い込んでしまっていたのではないか。

それは、これまで自分自身がエンターテインメントを敬遠していた理由でもある。思えば、僕が受け手として喜んで享受していたエンターテインメントとは、受け手の知性を信頼するものであったと思う。ブログも、好き勝手に書きながら、わかる人に届いたらいい、くらいのつもりで書いた。それは、書いている自分としては、相手をバカにしなくて済んでいたから、納得感があった。

そもそも自己満足に書いていた文章だから、まずは相手のために、というスタンス変更で時間をくった。しかし、次に、楽しませようということばかりに目がいき、まるで子どもだましのように相手の知性を低く見るようなスタンスをとってしまっていた。

その後の結果は明らかだった。読み手の知性を信頼して書いた文章が、やはり良い評価を得た。

肯定と否定の間

エンターテインメントが自己肯定するためのものというのは、確かにその通りだろう。だけど、否定的な状況まで肯定するのは、倫理に反しているような気がするし、書いている側が楽しくない。大事なのは、コンフォートゾーンとストレッチゾーンのバランスとか、ほどよく想像力や創造性をかきたてるコンテンツをつくりだすことなのかな、と今は思う。人は、変化を拒み、現状を維持したいと思う一方で、自分の成長を願うものだから。

そういう意味で、学びや気づきのある、つまり、ささやかながら変化を起こせるような、そういう文章を書けるようになりたい、と思う。強い変化を求めるコンテンツは、きっと傲慢で、つまりコンテンツ足り得ない。そういうバランス感を身に付けていきたい。

 


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演劇とコミュニケーション教育の接点を平田オリザ的に理解するためのメモ

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ひょんなことから、平田オリザの著作を通じて演劇について、さらに演劇ワークショップについて学んでいる。

計4冊ほどの新書を読んだことになるが、なぜ、劇作家である平田オリザが教育という分野でも注目されているのかが、おぼろげながらわかってきた。

ざっくりまとめると

・平田オリザは、コンテクストは一人ひとり異なる、という立場を取る
・お互いの価値観が違う(コンテクストが異なる)から、表現への欲求が生まれる
・演劇はコンテクストの異なる役者や演出家がコンテクストを摺り合わせながらつくるもの
・現代社会においても、コンテクストの摺り合わせがコミュニケーションの基本原則となるはず
・現状、日本ではコンテクストは一人ひとり異なるという前提が共有されていない
・しかし、日本の国内でもみんなが同じコンテクストを共有しているわけではない
・したがって、これからは「お互いに分かり合えない」という前提のもと、コンテクストを摺り合わせるようなコミュニケーションをする力を身に付ける必要がある
・日本の教育ではそういった力を身に付けるような機会に乏しい
・演劇によるコミュニケーション教育は、その意味でこれらの課題に多少なりとも有効であろう

腹落ちさせるためには、演劇ワークショップを実際に体験する必要がありそうだ。

コンテクストという言葉の定義が厄介だが、一旦Wikipediaから例を引っ張ってみたい。

言語学におけるコンテクストとは、メッセージ(例えば1つの文)の意味、メッセージとメッセージの関係、言語が発せられた場所や時代の社会環境、言語伝達に関連するあらゆる知覚を意味し、コミュニケーションの場で使用される言葉や表現を定義付ける背景や状況そのものを指す。例えば日本語で会話をする2者が「ママ」について話をしている時に、その2者の立場、関係性、前後の会話によって「ママ」の意味は異なる。2人が兄弟なのであれば自分達の母親についての話であろうし、クラブホステス同士の会話であれば店の女主人のことを指すであろう。このように相対的に定義が異なる言葉の場合は、コミュニケーションをとる2者の間でその関係性、背景や状況に対する認識が共有・同意されていなければ会話が成立しない。このような、コミュニケーションを成立させる共有情報をコンテクストという。

コンテクスト – Wikipedia

平田オリザがどの著作でも例として取り上げられるものがある。見ず知らずの人に「旅行ですか?」と問いかける演劇のある一部分を演じさせると、うまく出来る人とそうでない人が出てくる、という話だ。大抵、中学生や高校生は、台詞に不自然さが出る。なぜかと言えば、演劇のシーンで想定されるコンテクストを、演じる側が持っていない場合が多いからだ。つまり、イマドキの日本の中高生は、知らない人に「旅行ですか?」と話しかけたことなんてない、ということだ。実際にしたことがなくても演じなければならないのが演劇における役者の仕事なのだが、とはいえ、コンテクストが共有できていない、という事実にまず気づかないと、摺り合わせなどできない。

もしかしたら、摺り合わせの段階で、「日本の一般的な高校生」の役が「旅行ですか?」と見知らぬ人に声をかけるという設定自体がおかしいのかもしれず、どうしても話の筋書きの都合で話しかけねばならぬのなら、より自然な流れを意識する必要があるかもしれない。

コミュニケーションとは、そういう落としどころを見つけるための摺り合わせのプロセスなのだ。この観点からすれば、今日の「アクティブ・ラーニング」なるトピックに対し、演劇ワークショップが持つ力はそう小さくないように思う。


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あるものを生かす。これまでも、これからも~「都市をたたむ」という作法~

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この本を読み終わった後で、
自分の中に残ったものが2つある。

1つは、「計画」の捉え方について。

この本では、その意味を「内的な力による変化を、整えて捌くもの」と定義して考えていきたい。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

変化は、それを生み出すエネルギーがあって起こるものであり、
計画はエネルギーを持った変化があることで初めて意味を持つ。

テスト勉強が計画通り進まないのは計画が悪いからではなく、
計画されただけの量を勉強する気が起こらないところにある。
勉強への意欲が一定量期待できてようやく計画の質を問う段になる。

言われてみればその通りだ。嘘みたいにシンプルな論理。


もう1つは、「スポンジ化」という縮小のあり方に対して。

都市は都合よく縮小しない。そこに住む個々人の意志により、
”大いなる意志”などないことを証明するが如く振る舞う。

高度経済成長期には、たまたま「成長」という単一軸があった。
それが、粗っぽく見れば全体として秩序立てて見えたかもしれない。
それこそ、計画通りに思えるほどの拡大っぷりだったのではないか。

 

戦後、都市はどのような形であれ成長するしかなかった。
そのエネルギーが生む変化をうまく捌くために都市計画があった。
計画は、あくまでも成長へと向かう変化を前提としていた。

しかし、高度経済成長期への未練というか、
人口減少社会を前提とするOSへの切替の遅さを鑑みると、
この事実が、ある時点でねじ曲がってしまったのではないか、と思える。

つまり、日本人が戦後「内的な力による変化」を計画し、
その計画により成長が生じたのだ、という誤解に。

日本の成長を計画のおかげだと頭のどこかで思う人ならば、
少子高齢化でも計画的に人口は増やせるなんて考えていそうで怖い。

多くのエネルギーが束ねられることで、大きな変化が生じる。
エネルギーの総量が減り、向かう先の統一も図れないのならば、
これからの時代にもう一度変化を求めるのは酷なのだと思う。

 

「都市をたたむ」では、小さな単位で、
場合に応じて解決策を考えるという提案がなされていた。
それは、都市計画に限らず人口減少社会ならではの方向性のように思う。

ちょうど、とある学校への提案資料に、
これからは一人ひとりがますます大切になる社会だ、と書いた。

まちづくりであっても、教育であっても、
これからは一人ひとりのエネルギーの重要性が相対的に増す。
だから、それぞれの発生源を生かすこと、何か損なうものがあれば
個別に取り除きあるいは和らげることが求められる。

逆に、計画が先行すれば、どこかに無理が生じる。
グローバル人材は確かにこれからの日本に必要かもしれないが、
計画を実現しうるだけのエネルギーが賄えるかどうかは別の話だ。
(「エネルギーが賄えるか」なんて、酷い表現だ…)

 

「都市をたたむ」との出会いはとてもタイムリーだった。
それに、五城目への移住のタイミングに重なるというのも運が良い。
どうやったらその方向性を実現できるのかを考えていきたい。


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