Category Archive: 自分事

12年ぶりの秋田暮らしの不慣れさについて

カテゴリ:自分事


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五城目町への引っ越しから約3週間が経つ(転入してからは数日)。
久々の秋田暮らしではあるけれど、車を運転するようになり、
かつほとんどなじみのない土地であるおかげで、
いちいち新鮮に感じられ、騒がしい日々になっている。

上京、都内での引っ越し、海士町への移住。

住むところや環境が変わったことは何度かあったけれど、
毎度これほどに刺激があったものだろうか。

刺激は、活力にもなり、ストレスにもなる。
油断していると、蓄積したストレスをアドレナリンでおさえつけて
変に興奮した状態になっていることがあるようだ。
公道をドライブ中に自覚することもままあり、なお危ない。

もうすぐ30になるというのに、この浮つき具合といったら、
社会生活そのものへの不慣れさではないかと思えるほどだ。

秋田は確かに広く、車の存在は暮らしの経験を一変させる。
さらには、お酒を飲めるかどうかが一日の長さを決める。
秋田の何をも知らず東京へ発った自分を責める手立てがない。

そうして11年が経ち、なるほど多くのことを知ったが、
これからの秋田暮らしではどれも必要なようで決定打がない。
あるとすれば、そうした雑多なものを拾い集めて来た
自分自身の感性だけが、最後に残るもののように思う。
(ということは前の記事にも書いたが)

結局、これからますます問われるのは自分自身であり、
それは「どれだけ蓄積してこれたか」という形としてでなく、
「どれだけ損なわず育めてこれたか」が焦点になるように思う。
僕は、だから、なるべくごまかさず、ぼやかさず、
率直に、自分の感性の導く方へと歩むようにしたい。

今日という日が正解であったかどうかは、
明日という日をどう生きるかによって決まる。

ふとそんな言葉を思いついたのだった。


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秋田県五城目町に移住しました

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この3月末に、約5年半を過ごした海士町を離れ、
秋田県の五城目町に移住することとなった。
地元は大仙市神宮寺(旧神岡町)だったのだけど、
いろいろな縁がつながってこの五城目町に決めた。

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就職活動を始めたあたりからずっと、
将来は秋田に戻ろうと思っていた。
そこは東京からさらに離れた海士町に移住してからも
ずっと変わることのない、一貫した軸だった。
メールアドレスは「30才までに秋田に帰る」と宣言していた。

「本当に秋田が好きなんですね」とよく言われるが、
どうしても秋田でなければならない理由というものが実はない。

「好きに理由はいらない」とかそういう話ではなくて。
僕は田舎が向いていないという自覚を持っているし、
どちらかというと秋田が嫌になって出たのだけれど、
さらにその懸念点は10年ちょっとで解消されるわけもなく、
いよいよその渦中に飛び込まざるを得ないという状況認識がある。

それでも、「秋田に戻る」という方向性が揺らぐことはなかった。
思うに、僕は就職活動の時点で、自分の出番や役割が
将来の秋田にある(し、つくれる)と直感していたようだ。

それはどうしたって「直感」なのだけれど、
この手のインスピレーションは従っておいてまず損はない。
むしろこの「直感」が、自分の奥底から生まれる素直な「感性」こそが、
これまでに自分が育み培ってきた数少ないものの一つだと思う。

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海士から秋田に戻るまで、約2週間ほどかけて
松江、京都、大阪、和歌山、横浜、東京、福島、宮城を、
行きたい場所でなく会いたい人を辿るように巡ってきた。
その旅路があって、僕は自分にとって能力やスキルよりも
「感性」こそが重要なのだと気づくことができた。
それは、今後も折に触れて立ち返る原点になるのだろう。

 

ふと、このブログのタイトルが目に留まる。

秋田で幸せな暮らしを考える

いよいよ秋田に戻ってきたのだな、と思う。


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「2020年の大学入試問題」が対象とする人たちのこと

カテゴリ:自分事


本書で示されている「2020年大学入試改革」と
その方向性はなんとなくつかめたし、
ロジカルなその解説は納得感が高いのだが、
そのためにかえって判然としない点がある。
(著者のいうところの「モヤ感」だろうか)

子どもたちに高度な能力を身に付けてほしい、というのは分かる。
しかし、それはあらゆる子どもたちに求められているのだろうか。

これまでの教育は知識偏重である、という指摘はごもっともだ。
試験をパスすることが目的のいわゆる「浅い理解」に留まり、
もっと有意義な時間が過ごせるはずなのに!と
やるせない気持ちになる気持ちは僕にもある。

そうした想いはありつつも、ならばあらゆる子どもに
その教育課程において非常に高度な能力を求める、
というのは、それもまた強烈な違和感がある。

何よりも、著者が「あらゆる」子どもという射程を
極端なまでに想起していない、という印象が強い。
これからの大学入試改革の念頭にあるのは
エリートである、と言われた方がむしろ納得がいくくらいに。

2020年以降に進学先を失うかもしれない人たちのこと

そもそも、日本の大学進学率向上の背景には
「大学生の学力低下」や「マージナル大学」など、
大衆化と切っても切れない課題がある。

ものすごくぶっちゃけて言えば、
これまで大学に行くと想定されなかった層までもが
大学に進学している事態すらある(と思っている)。

そうした人たちが大学入試改革で振り落されるとしたら。

想起されるのは、たとえば「G/L論争」であったり、
その派生?としての「専門職大学(仮称)」である。

海外の事例としては、アメリカのコミュニティカレッジ、
フィンランドのポリテクニックなどだろうか。

大学入試改革の方向性はわかった。
この改革が目指すものに基づいた教育が実現できるのなら、
学校や教室はより子どもにとって意義あるものになるだろう。

しかし、それはグランドデザインとして十分なのだろうか。
取りこぼすものが出て来やしないだろうか。

そんな宿題を抱えつつ、まずはもう少し
大学入試改革がめざすもの、そしてそれとセットになる
「アクティブラーニング」についてもう少し勉強してみたい。


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