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「鶏が先か卵が先か」問題と中動態についてのメモ

カテゴリ:自分事


社会構成主義の本を読んでみたり、
「成長」や「対話」というものについて探求したりするにつれ、
だんだんと”直感”や”なんとなく”に頼ることが増えてきた。
同僚としてはとても扱いづらい部類になるのだろう。

なにせ、最近、自分でも驚くほどに、日々の考え事が、
「鶏が先か卵が先か」問題に行きついてしまうのだ。
こうなると言葉で説明するのをあきらめたくなる。

システム思考の場合

システム思考の本には、たとえばこんな記述がある。

「問題の原因と結果はすぐ近くにある。だから問題の近くに解決策があるはずだ」という直線的なアプローチは、単純なシステムの時代には通用しましたが、複雑なシステムにおいては、通用しません。複雑なシステムでは、原因と結果が近くにあるとは限らないためです。

なぜあの人の解決策はいつもうまくいくのか?

あらゆるものが複雑化した現代に、直線思考は限界を迎えた。
だから、今起きていることをもっと広い視野で捉え、
因果関係のループ図を見出し、真なる問題を探そう。

システム思考という方法は、
これまでと違う新たな理性の発揮の仕方の提案だと思う。
こうしたアプローチをとることで、
「鶏か卵か」問題はなるほど決着がつきそうではある。

しかし、いつでもどんな問題に対しても、
まとまった時間を取ってループ図を描けるとは限らない。
いつも十分な情報が得られているとも限らない。

結局はシステム思考も理性の所業。
ここが今のところのジレンマになっている。

中動態という考え方

リビングワールド代表の西村さんの昨年の動画。
ダイジェストではあるものの、ここで面白い発見があった。
「中動態」という概念である。

「現在の英独仏露語のもとになった諸言語の動詞体系には、長きにわたり能動態と受動態の対立は存在しなかった。その代わりに存在していたのは、能動態と中動態の対立である」

(「精神看護」2014年1,3月号連載・國分功一郎さん)

「鶏が先か卵が先か」問題の果てに辿り着いた
「する」でも「される」でもない「中動態」の世界。

調べてみると、なかなか興味深い記述が出てくる。

中動態とは何かと言うと、「その行為に主語がとくに関与し、結果が主語に関係をも つ点にある」(風間喜代三著『ラテン語とギリシア語』)。

http://www.ec.it-hiroshima.ac.jp/sakemi/Grammar/middle.pdf

英語では再帰代名詞を使うものや、
受動態でも「I was disappointed in him.」のように
「by」を用いないケースで、中動態的な意味があると取れる。

國分氏の文章について言及しているブログもあった。

意志は少しも行為の源泉ではないむしろ、行為の準備が整った後で意志は立ち上げられているという最近の脳科学研究を踏まえながら、文法問題から、思考の可能性条件をさぐりつつ、
「人が何ごとかをなす」とはどういうことなのか、を丁寧に解き明かしてくれる。

『精神看護』に連載している國分功一郎氏の「中動態の世界」(1)(2)が面白い! – 龍の尾亭<新統合版>

中動態は、僕の目にはあまり「理性的」に見えない。
西洋の対比としての東洋思想っぽい、と言えばよいだろうか。

システム思考は複雑性を前提としている点で東洋的だが、
数値解析的にモデリングして近似値を求めるアプローチに見える。

その一方で、複雑性のど真ん中に飛び込んだときに
むしろいきいきとするような感性もまた、
人間には備わっていた(る)のではないか、と思う。

常に頭でっかちになりがちな僕としては、
だからシステム思考に飛びつくのは時期尚早という感じ。

「鶏が先か卵が先か」

この問題に白黒をつけることにもはや情熱はない。
どちらでも構わないからとにかく飛び込むしかないのだ。
少なくとも今の僕にはその手立てしかないように思える。

 


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教育現場において学習者に委ね、任せることについて

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今年度に入ってから、勤務先では『学び合い』的な要素を取り入れ、
「学び合い」ができる自習スペースを用意するようになった。

その進歩の様子を見ると、自分が培ってきた教育の常識が
末端から徐々に更新されていくような印象を受ける。

数か月前だが、「エンパワーメント」という概念と、
その仕事の具体的な記述に出会った。

今、その2つが徐々に結びつこうとしている。
この記事では、その言語化の試みのはじめとして、
勤務先における「学び合い」の変化を記述してみたい。

消極的な「学び合い」のスタート

子どもたちが教えあう姿を見た当初を振り返ると、
実は違和感があったことを思い出す。

勉強は自分一人ひとりで淡々と進めていくもの。
静かで、集中できる環境こそが勉強に適しているもの。

自分が進学校でそうした認識を自然と身に付けており、
かつそれが成功体験と結びついているからなのだろう。

わいわいがやがやと勉強を進めるスタイル。
それは自分の常識にないものの一つだった。

スタッフの中でも懐疑的な見方があったのか、
「学び合い」スペースの設置は消極的なスタートを切る。

”早く一人ひとりが自立して静かに勉強できるようになってほしい”
”生徒の要望ではあるが、なるべく利用は最小限であってほしい”

10数名が入ればいっぱいになるような空間をあてがい、
管理面の懸念から利用に多少の制限をかける方針が定まった。

そうして始まった「学び合い」スペース。
学校でも『学び合い』やアクティブラーニングが始まり、
入学当初から順応しつつあった高1生の利用者が目立った。

「思ったよりは悪くない」

普段は静かな学習の時間に、にぎやかさが生まれる。
生徒の動きに戸惑ったのは、ほかならぬ僕自身だった。

”教えあうことが目的なら具体的な問題を持ち寄るはずだ”
”時間制限をかけないとだべる生徒が増えるのではないか”

その想定から利用時間を最大50分に設定。
しかし、それにもかからわず延長を申し出る生徒が出てくる。

利用希望者でスペースは頻繁に埋まり、
人数に従って声のボリュームは大きくなる。

危惧していた事態ばかりだ、と思った。

が、会話を聞く限り、教科に関することが思いのほか多い。
脱線するのは休憩からしばらく経ったころとか、
1グループの生徒数が5~6人に膨れる場合は
やはりノイズが混じりやすいが、頻繁にではない。

「思ったより悪くないぞ」

恐る恐る蓋を開けてみたわけだが、
スタッフの間ではちょっとした発見が共有された。

ただ、「意外に勉強が成り立っている」が、
「効果的な学習ができている」かはわからなかった。
スタッフが日々振り返りルールを調整していっても、
「学び合い」スペースの劇的な改善にまでは至らない。

「化学の点数が上がった!」という声も生徒から挙がったが、
いまいちピンとこないでいた。手応えがなかった。

生徒発信の「学び合い」スペースへ

転機は、教育工学の権威の来島と共に訪れる。

せっかくの機会ということで、Y先生に助言を仰ぎつつ、
高1生たちが学習時間における施設の使い方を検討。
生徒間の人気投票で勝ち残った案を実際に試行することとなった。

選ばれたのは、環境の静かさのグラデーションをより細かくし、
「学び合いスペース」をより広く確保するもの。
そして、生徒考案の学習環境が試行される。

個人的な感想を先に述べると、
生徒の自律性が高まったという点で前進したと感じている。

・生徒が自分で望ましいと思う環境を選ぶようになった

これまでは「静かに一人で学習するのが理想」という
スタッフの意図を反映させた学習環境が主だった。

これは、「生徒が望む環境」が必ずしも効果的ではない、
という認識に基づいている、とも言える。

今回、学習環境が複数用意されることによって、
生徒が自分で勉強のスタイルを選べるようになった。

結果的に、自分に合うやり方は生徒本人もわかっており、
こちらの理想と必ずしも一致しない、という見方を提供してくれた。
(それが効果的かどうかはもう少し観察が必要だろうが)

・生徒に委ねても、目的を逸することは思ったより少ない

「学び合い」スペースの席数が拡充された結果、
利用者数が増え、声のボリュームも少し大きくなっている。

恐らく、何も知らずに見学に来た人がいたら
「こんな状況で勉強しているわけがない」と思うだろう。
しかし、彼らのやり取りの9割が学習内容に関することだ。

ただ、集中を保ち続けるのはそう容易ではないらしい。
あくまで感覚だが、休憩を取らずにいると
後半になるにつれてだべっている時間が増える印象がある。

「学習する」という行為については
とはいえ大人の方が一日の長があるので、
ガイドライン化してもよいのかもしれない。

今後の発展的課題

手応えのある変化があったことで、
次の試験期間が楽しみになってきている。

とはいえ、試験勉強というものの成果は
試験期間中の学習の量と質はもちろんのこと、
なんにせよ平常時の学習状況がものを言う。

個人的には、まだ漠然としてはいるが
「方法」を知らないことが問題になっている木がしている。

生徒の勉強する手が止まってしまうときは、
「現在の単元を理解するために必要な知識量」と
「現在の自分の知識量」との差が広がりすぎてしまい、
その大きなギャップを埋める方法がわからないから。

御しきれないギャップがありながら、
授業は無情にも試験に向けて淡々と進む。
こう書いてみると、割と難易度が高いと思えてくる。

こんなことを頭の片隅に入れながら、
また次の試験期間の生徒の様子を見てみたい。


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フツーの人のためのキャリアデザイン(仮)

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※本文の内容はあくまで仮説である。

成長したいわけではないモードとは

「成長したい」と口でいう人の中には、
明確な将来像やありたい姿、ビジョンだったり、
「1番になりたい」みたいな上昇志向だったりが
あまりなさそうに見える人がちらほらいる。

本文で扱うのはそういうモードの人たちのことだ。
しかし、まだ僕もうまく定義できない。

たぶん、「成長したいモード」を定義するのが早い。
本文における「成長したいモード」の特徴はこんな感じだ。

・目の前の仕事を将来像やビジョンと素早く結びつけ、
意義付けし、目的をもって取り組むことができる
・決して暇なわけではないのに仕事を自ら獲りに行ける
・業務時間外でも自分のスキルや知識を磨いている
・情報収集に貪欲で、Amazonですぐにポチったり、
気になる人と知り合う機会を模索している

なんとなくおわかりいただけただろうか。

逆に言えば、「成長したいわけではないモード」とは、
頑なに成長(できる機会)を拒むわけではないが、
自発的に動くようなこともないという状態のことだ。

どうも否定的な言い方になってしまう嫌いがあるが、
誰しもいずれのモードにもなりうるだろうし、
グラデーションの問題だと思っている。

問題があるとすれば、組織の側に立ったとき、
そこで働く人には成長してもらわないと困る、
という代え難いニーズがある、ということだ。

フツーの人のために組織ができること

フツーの人にとって、
「成長したいモード」を維持し続けるのは難しい。
明確な将来像や達成したいことがある、ということは
もはやフツーではない、と僕は言い切れると思う。

組織内でスポットライトが当たり、出世するのは
常時「成長したいモード」の人だったりする。
そうした人はフツーを理解できていないことが多い。
小さな組織が拡大していく過程で直面するのは
特にこのミスマッチではないか、と思うところもある。

組織とそこで働く人のかみ合わせを良好にするために、
組織の側でできることを考えてみたい。

「手前から」考えるキャリアプランニング

個人がキャリアを考える上で様々なツールがあるが、
将来像やありたい姿から考えさせるものも多い。

一度考える場を持つことに意義はあると思うが、
今回はそうでなくもっと「手前から」考えてみたい。
つまり、今、目の前の仕事を”より良く”遂行するために
必要なスキルや知識は何か、から始めてみる。

これから必要になるすべてを網羅する必要はない。
エース社員のコンピテンシーの一部分でいい。
何を伸ばすかを本人が選んでもいいはずだ。

大きな成長には「自己変革」が必要かもしれない。
でも、オオゴトにするのは一旦止める。
代わりに、現時点で任されている業務の範囲で
必要なマインドセットに焦点をあてる。
どうしてもスコープを大きくしたいのならば、
ステップを細かくするように配慮してみる。

現在地から遠いところに目標を置かず、
一つひとつキャリアを積み上げられるようにする。
長期的なキャリアプランに重きを置かず、
月単位でステップアップできるようにしてみる。

組織が理想としたい成長ステップとは別に、
一人ひとりの「手前から」のキャリアプランを考える。
それが、本記事での提案である。
(至極当然な話で大変恐縮なのだが)

なぜ「手前から」なのか

通常、キャリアプランは理想から考える。
その場合、まずは理想がなければ始まらない。

ところが、将来像やありたい姿が明確でない場合に
組織の枠の中でそれを考えるのはいかにも制限が多い。
キャリアを描くのに適切な理想が生まれない恐れがある。

また、組織が個人にキャリアプランを求める場合、
そこで前提とされる理想像が狭い可能性もある。
「企業を将来を担う人材になってほしい」と言うとき、
必ずそこにいる個人が考慮されている保証もない。
結果、組織側の押しつけでしかない、ということもある。

無理に理想を求めない。とはいえ、その人には
今のポジションにおいて着実に成長してもらう。
そのために、現状から考えてみる。
一つひとつ、できることを増やしてもらう。

スキルと知識が増えれば、視野も広がる。
次にできそうなことが徐々に見えてくる中で、
現在地より少し遠くに目標を置くこともでてくるだろう。
そうしたら、勝手に成長したくなるかもしれない。

別に3年待て、というわけではない。
数か月の変化でも景色は違って見えてくる、と思う。
準備ができてから、成長の傾きを上げていけばいい。

現状での限界値は本人が自覚する。
突破するかどうかも本人が決めるものだ。
視野が広がれば、ある程度の方向性を持って
次の未知なる一歩を踏み出せるかもしれない。
それまでは足場をしっかり固めてもらう。

それだけで、よいのではないだろうか。

この記事で言いたかったこと

要は僕自身がついつい成長の角度を
他人に求めてしまうタイプであって、
この記事は自分を落ち着かせるために書いた。

もう少し具体的に突っ込んで核と、
僕が仕事を共にする人に対して
「成長欲求」とか「好奇心」という類のものを求める。
(そして、願わくばそれが行為に表れていてほしい)

そこから生まれる前向きさと出会うとき、僕は、
自分のふがいなさを呪いながらなんとか踏ん張れる。

そうでない人と仕事を共にするとき、
無意識に「成長の角度を上げろ」と要求してしまう。
僕のそんな身勝手な要求はさっさと諦めて、
相手にはより現実的なステップを踏んでもらう。
そうした方が互いにロスがなく、生産的なのかもしれない。

そんなことを最近考えたというお話です。

なんだかこの本↓を読めばいい気がしてきた(未読)。

 


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