若いというだけで評価されていることに気づかないといけない
カテゴリ:世の中の事 2012/04/26
WE LOVE AKITAとしてよく活動に参加していたころのこと。
「秋田」に関わる人の中で、僕は比較的若い層にあたるようです。
(最近は活動的な学生が増えてきたので、そうでもなくなりましたね)
そうすると、「若者が秋田のためにがんばっている」と地元紙に紹介していただいたり、県の方から声をかけてもらったり、「がんばってね」と応援してもらったりと、ポジティブなレスポンスが集まりやすかったように思います。
一方で、僕自身は「周囲の反応が少し良すぎる」と感じています。
これまで僕がしてきたことなんて、「思いがあれば誰にでもできること」だからです。
この「思いがあれば」が曲者で、正直なところ、思いがある人自体が希少価値と思われている(し、実際その傾向がある)節があります。
しかも「頑張っている若い人」もレアものです。「秋田のために頑張っている若者」はそれだけで評価されてしまう原因がここにあります。
枕詞に気づかないと、後で痛い目に会う
高校生や大学生が故郷への思いを語ったり、将来の夢を表現したりすると、たいていは「いい」反応がかえってきます。
「すごいね」「よく考えているね」
これに気をよくしてはいけません。
「(高校生の割に)すごいね」「(大学生にしては)よく考えているね」
こう枕詞がついていることに自覚的でないと、社会に出てから(或いは一定の時期を過ぎると)痛い目を見ることになります。
「で、考えているだけで何もしていないんでしょ?」「そんなの、社会で通用しないよ」
今までずっと誉めそやされてきたのに、突然カウンターパンチを喰らうかもしれません。
これは特に「プレゼンがうまい」人によく見られる傾向であるように思います。
見た目で評価されるのは若いうちだけ
中身(実)がなくても見栄えや”聞こえ”がよければそれだけで評価されるのが若者です。
若いうちに周囲から称賛されるとその評価に固執してしまうことがあります。
そうすると「何を言えば周囲は褒めてくれるだろうか」と、次第に周囲の目ばかり気にすることになるわけです。
すばらしい夢を持っていることよりも、その実現に向けて具体的な一歩を歩んでいることの方が本質的であるはずです。
しかしながら、立派な夢を語るだけで若者を誉めそやしてしまう風潮が日本にはあります。
(若者に社会を変えて欲しいと願う、無責任な期待感が蔓延しているからかもしれません)
見た目で評価されるのは、残念ながら若いうちだけです。
周囲の視線ばかり気にしていると、メッキ塗りに必死になるあまり、中身が一向に進歩しないなんてこともありえます。
口だけにならないよう手を動かさないといけない、というのがここ数年僕がずっと思っていることでもあります。