若者をレールから外させようとする無責任な大人たち
カテゴリ:世の中の事 2013/11/04
茂木健一郎に騙されて通信制高校からAO入試受けた結果wwww
東大生をバカ呼ばわりして煽った茂木健一郎氏の被害者がここにも。
僕は丁度、テレビを見ていた。すると、僕と同じ高校生なのに、学校とは別に団体を作ってボランティア活動に従事したり、あるいはビジネスで大人の人と渡り合い、あるいは海外で外国の経営者や政治家と直接話し合っている高校生が特集されていた。いわゆる「意識の高い学生」である。
今ではどうやらこの言葉は大学生を主として使われているらしいが、僕の場合この意識の高い高校生を見て衝撃を受けたのである。そして、「これこそ今僕がやるべきことだ」と「気づいて」しまったのであった。
本当の意味で「突き抜けている」学生は、たいていの場合自分が突き抜けていることにさえ気がついていない天才肌なのだ。確かに、「これこれこうで、こうしたいから自分はこうする」と、自らの情熱を制御して結果的に周りから見て突き抜けている学生も、いるにはいる。片手で数えられるほどには。
それ以外は、「気がついたら自分は周りから持ち上げられていて、テレビや雑誌からも取材を受けて、なんか大学にも推薦で合格していた」ってタイプだ。
これは起業とかにもいえるだろうが、どちらにしろ、本気で高校生時代に才能を開花させ、抜きん出ることのできる学生はほんの一握りだということを肝に銘じておいたほうがいい。あくまで僕の予測だが、そんな人は興味を示し集まってきた中で一万、いや十万人に一人いるかいないかだろう。
身近に近い事例があったので、他人事として流すことのできない切実さがありました。
大学生や若者を社会貢献や起業に駆り立てる言説は数多くあります。
若者たちも自分の評価が”括弧付き”のものであることになかなか気づけません。
高校生や大学生が故郷への思いを語ったり、将来の夢を表現したりすると、たいていは「いい」反応がかえってきます。
「すごいね」「よく考えているね」
これに気をよくしてはいけません。
「(高校生の割に)すごいね」「(大学生にしては)よく考えているね」
こう枕詞がついていることに自覚的でないと、社会に出てから(或いは一定の時期を過ぎると)痛い目を見ることになります。
「で、考えているだけで何もしていないんでしょ?」「そんなの、社会で通用しないよ」
今までずっと誉めそやされてきたのに、突然カウンターパンチを喰らうかもしれません。
これは特に「プレゼンがうまい」人によく見られる傾向であるように思います。
高校に入学し、大学に入学し、新卒で就職して3年間働く、いわゆる「ストレーター」が4割程度と言われる時代。
終身雇用制が半ば崩壊し、レールに乗りつづけることが難しくなっているのは事実です。
そうした時代背景から、若者に対して「レールから外れろ」「学歴なんて無駄だ」と主張する人が増えています。
茂木健一郎氏はその典型例ですね。果ては「海外に行け」、「起業しろ」なんて言い出すわけです。
「レールから外れろ」と言うこと自体には反対しません。
わずか1年半で会社を辞めて離島に移住した僕も「レールから外れた」側です。
僕が言いたいのは、「レールから外れろ」という言葉に責任を持て、ということです。
「レールに乗る」ことは、レール自体の信頼性が落ちた現在もなお、リスクの低い選択肢です。
同じ道を通る人が多いからこそ、可能な選択肢の幅を広くとることができるのも大きなメリットです。
逆に言えば、「レールから外れる」とはリスクをすべて自分で引き受け、自ら道を拓け、ということ。
若者にリスクの高い選択をさせることに対して、大人たちはどこまで責任を持てるのか?
無責任な大人たちばかりの世の中に辟易している僕が言いたいのは、その一点です。
リスクを引き受けない「無謀」な若者を、これ以上増やさないために。