“give and give”の精神は多数の”take”から始まるかもしれない
カテゴリ:世の中の事 2014/11/26
「日々、周囲への感謝を忘れないようにしなさい」
この耳障りの良い言葉には、見落とされているものがあると思う。
ある事象に対して感謝が先行するということはあるのだろうか。
周囲の人や自分が今いる環境に対して感謝するためには、
感謝するだけのものを受け取る必要がやはりある、と思う。
「日々、感謝する」という態度が表出する瞬間とは、
例えるならコップから水が溢れるときにも似ていて、
与えられ続けてきた蓄積が、ある時点から感謝に転移する、
そういう類のものなのではないかというのが最近の仮説だ。
“give”は”take”から始まるかもしれない
ビジネス書なんかでよく言われることに
「”give and take”ではない。”give and give”だ。」という言葉がある。
はじめから見返りを求めてはいけない。
見返りがなくとも与え続けることで初めてリターンが来るのだ。
そんな感じの解釈だったと思う。個人的には割と好きな言葉だ。
「感謝」について色々と考えているうちに、
“give and give”もまた、前提として”take”が必要ではないかと気づくに至った。
“give and give”する側になるには、
“take”する側(“give”される側)にまずなっておくべきなのではないか、と。
見返りを求められない好意を受けていたことが、
見返りを求めない”give”を提供する側の素養となる。
また、”give”は”take”のニーズによって成り立つ行為だ。
“take”したい人がいて、それに応じられる人が”give”をする。
与えることの喜びは、与えられる喜びから学ぶことができる。
そんなことを思っている。
まとめ:海士町・多井地区の事例から
この記事の結びとして一貫性を保てないかもしれないが、
ブログを書いている最中、頭をよぎっていたエピソードがある。
海士町第四次総合振興計画の別冊のコラムで紹介されている話だ。
2008年の夏、海士町の多井という当時わずか15世帯の地区に、
岡山県倉敷市にある福祉系大学の学生が約1か月間滞在した。
福祉を学ぶ彼らのモチベーションは、
地域に暮らし地域の人を助ける、お世話をする、そんなところにあったろう。
彼らは多井の公民館で生活していたが、
公民館には家電はなく、旧式の洗濯機の使い方などわかるはずがない。
食材をもらっても調理方法が分からない。
結局彼らは、当初の想定とは裏腹に地域の人に助けてもらう生活を過ごした。
それがかえって多井の人たちが「ありがとう」と言われる機会になったという話だ。
他人に施す、与えるということが高齢者にとってささやかな生きがい、やりがいとなり、
その機会を提供したのは”give”ではなく”take”の側にある学生だった。
このコラムは「福祉」の意味を問いなおす形で締めくくられる。
“give and give”という言葉の意義は、その先にあるような気がする。