グローバル人材の要件-大企業ではなく日本社会が求めるモノ
カテゴリ:世の中の事 2011/11/26
Facebookにポストしたら、意外とリアクションが良かったので。
Twitterでグローバル人材の定義の奥行きのなさを嘆く声があって、なるほどなあと思った。
社会が望んでいる「グローバル」とは、戦うフィールドの広さではなく、守るべき対象の範囲の広さなのだと思う。
世界で戦っても、それが会社のため、自分の生活のためなのであれば、20世紀の延長でしかない。
隣人のため、地元のため、地域のため、日本のため。背負うものが大きくなる方が、よっぽど大変なんだよね。でも、それこそが今、世の中に、21世紀に必要なこと。
大企業に求められる「グローバル人材」なんていらない
このつぶやきを見て、すぐさまとあるブログ記事を思い出したのでした。
子守さんが今朝の新聞記事から、ユニクロの柳井会長兼社長の「グローバル人材論」を選んだので、それについてコメントする。
柳井のグローバル人材定義はこうだ。
「私の定義は簡単です。日本でやっている仕事が、世界中どこでもできる人。少子化で日本は市場としての魅力が薄れ、企業は世界で競争しないと成長できなくなった。必要なのは、その国の文化や思考を理解して、相手と本音で話せる力です。」
ビジネス言語は世界中どこでも英語である。「これからのビジネスで英語が話せないのは、車を運転するのに免許がないのと一緒」。
だから、優秀だが英語だけは苦手という学生は「いらない」と断言する。
「そんなに甘くないよ。10年後の日本の立場を考えると国内でしか通用しない人材は生き残れない。(・・・)日本の学生もアジアの学生と競争しているのだと思わないと」
「3-5年で本部社員の半分は外国人にする。英語なしでは会議もできなくなる」
内田樹氏のブログに、ユニクロの柳井会長兼社長のコメントが引用されています。
ユニクロといえば、いまや日本を代表するグローバル企業。
なるほど、今の企業が求めるグローバル人材のエッセンスが見え隠れしていますね。
しかし、同じ記事で内田樹氏はこのグローバル人材要件に対して難を示しています。
私は読んで厭な気分になった。
(中略)
この理屈は収益だけを考える一企業の経営者としては合理的な発言である。
だが、ここには「国民経済」という観点はほとんどそっくり抜け落ちている。
国民経済というのは、日本列島から出られない、日本語しか話せない、日本固有のローカルな文化の中でしか生きている気がしない圧倒的マジョリティを「どうやって食わせるか」というリアルな課題に愚直に答えることである。
端的には、この列島に生きる人たちの「完全雇用」をめざすことである。
老人も子供も、病人も健常者も、能力の高い人間も低い人間も、全員が「食える」ようなシステムを設計することである。
「世界中どこでも働き、生きていける日本人」という柳井氏の示す「グローバル人材」の条件が意味するのは、「雇用について、『こっち』に面倒をかけない人間になれ」ということである。
雇用について、行政や企業に支援を求めるような人間になるな、ということである。
そんな面倒な人間は「いらない」ということである。
そのような人間を雇用して、教育し、育ててゆく「コスト」はその分だけ企業の収益率を下げるからである。※太字は引用者による。
国民が、日本社会がエリートに期待しているのは、内田樹氏のいうところの「国民経済」なのです。
しかし、そのエリートが押し寄せる大企業には「国民経済」の観点が抜け落ちています。
自由化を進め、競争を促進し、競争に勝つものに資源を集中させ、それ以外の部分に再分配するという「トリクルダウン」という発想は、資本主義の100年間が示したように、現実としてはほとんど機能しませんでした。
この競争の時代の結果残るのは、逃げ切りを図り肥大化したグローバル企業と、搾取され疲弊した人々でしょう。
企業が求めるグローバル人材育成に注力したところで、それが日本社会にとって効果的な投資なのかどうか、疑問を抱かずにはいられません。
「グローバル人材」の要件を再検討する
大企業が世界で闘うのは、なんのためでしょうか。
飽和しつつある日本の消費市場に依存していては、企業の持続的な成長、引いては企業の存続の可能性が狭まるからです。
ほとんどの場合、グローバル企業は自分たちのために海外の市場に手を伸ばしているのです。
世の中はグローバル化していますが、これは21世紀のあるべき姿というよりは、20世紀の資本主義の当然の帰結と言えます。
あれだけ反省の声が絶えない20世紀の延長線上で闘うことで、「国民経済」は改善されるのでしょうか。
ユニクロの柳井会長が掲げる「グローバル人材」の要件は、限界を露呈した資本主義の生み出した概念に過ぎません。
この20世紀型の要件を満たす人材は、「国民経済」に寄与することなく、相変わらず格差を野放しにし、疲弊する人々を減らすどころか増やす方向へ事を進めていくように思えてなりません。
21世紀に生きる僕らが本当に求めている人材要件とは何かを考える必要があります。
ヒントは、前述の「国民経済」という観点にあります。
そのエッセンスは、
>老人も子供も、病人も健常者も、能力の高い人間も低い人間も、全員が「食える」ようなシステムを設計すること」
という点にあります。
これは国レベルで言えば、社会保障の枠組みの話、再分配の議論です。
自治体単位になると、公共サービスや制度設計の問題になるでしょう。
これを個人レベルで考えると、どうなるでしょうか。その先に、あるべきグローバル人材の姿が見えてくるように思います。
「国民経済」を実現する人材像とは
一面的な見方をすれば、「国民経済」を追求し、実現に結びつける人材とは、他の国民が「食える」ようなくらい稼げる人材のことです。
この解釈では経済性のみに注目がいくので、もう少し柔軟な見方が必要でしょう。
21世紀のグローバル人材がもたらすべき効果について具体的に検討する前に、まず概念的なところから。
冒頭にあるように、僕としては「グローバル」とは闘うフィールドでなく、守ろうとする対象の範囲と捉えています。
守るべきものが自分や組織だけであった20世紀の資本主義を反省すれば、そう考えるのが僕にとっては自然なことでした。
資本主義の進展と共に生じる予測不可能なリスクを、個人が自分自身や家族といった単位を守ることで対応する社会こそがグローバル社会の結果だったとは、ジグムント・バウマンも指摘するところでした。
一層の個人化が進む流れを認めるその一方で、それに抗するように、徐々にではありますが「コミュニティ」というものが確実に見直されてきています。
個人の「自由」が拡大した結果、「安全」が失われた時代において、個人や家族を超えた「コミュニティ」という単位によって「安全」を取り戻そうという動きは、日本各地で起こっています。
これらを踏まえたうえで、これからのグローバル人材に求められる「グローバル」性とは何か?
僕は、”国境を超える”という元々の意味からもう少し踏み込んで、個人や家族といった単位―ローカル―の対比としてのグローバルというとらえ方をするべきだと考えています(ちょっと無理矢理?)。
守るべき対象を、知人、隣人、地域、国…というローカルな単位の枠組みを超えるように設定する。
これが21世紀型で求められるグローバル人材の条件の基本的な考え方となるのではないでしょうか。
これまで:「どこで闘うのか」 ⇒ これから:「何のために闘うのか」
生産性を向上させるためには、闘うフィールドが重要になります。
しかし、生産性向上は「国民経済」をむしろ脅かす雇用のシュリンクを招くことも忘れてはいけないでしょう。
生産性の追求は一定程度必要とは思いますが、常に守るべきもののことを念頭に置かなければなりません。
守るべき対象(=ステークホルダー)は少ない方が楽なのは当たり前です。そっちの方が生産性は上がります。
一方、個人や組織というローカルな単位を超えて守るべき範囲を拡大させるのは非常に難しい。
ビジネスモデルの構築にしても、検討すべき変数が増えるわけですから、一筋縄ではいけません。
この困難にあえてチャレンジする人材が、日本中で(そしておそらくは世界中で)求められているはずです。
概念的な話題に終始してしまいました。
21世紀における「仕事」とか「働く」という価値観の変化する予兆を感じながら、今後徐々にこの議論を深めることができたらと思っています。