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リア充と非リアの分かれ目についてのちょっとした仮説

カテゴリ:世の中の事

備忘録的に。

世の中には2種類の人がいる。
1つは「リア充」、1つは「非リア」である。

自分を取り巻く周囲の環境に適応したいという欲求と、
適応しろという外部からの要求は常に存在する。

そういう中で、「自分はこうしたい」という欲求や、
そのために生じる環境への違和感も(恐らく)必ず発生する。

前者を優先させた結果が「リア充」であり、
後者を優先させた結果が「非リア」。

 

もう少し踏み込んで表現しよう。
「適応」を重視し、環境の中で地位を獲得する「リア充」。
「適応」よりも自分の「純度」を保つことを重視した「非リア」。

こうした見方をしてみると、
「適応」の結果「純度」を損ない続けていた「リア充」は、
環境変化に弱いのではないか、と思えてくる。
「リア充」は恐竜なのだ、という見方。

一方、「非リア」の中からは「純度」を保てる環境を選ぶ、とか、
「純度」と「適応」を両立する可能性を模索する者も出てくる。
それは、必然的に変化をもたらす動きだ。
もしかしたら、最後に生き残るのは「非リア」なのかもしれない。

ちなみに、「適応」が自分の「純度」を損なわないあり方が
生来的に実現できてしまう者もきっといるのだろう。
そういう者たちは”真性”の「リア充」と言ってよく、
下手にベンチマークや憧れに設定してしまうと危ない。

 

こんなことを考え始めたのは、いわゆる「リア充」として
大学生活を謳歌していた人が就職活動で突如として躓き、
あるいは何か言っているようで何も言っていないような
志望理由を暗唱し始める、という事態を見てきたからだ。

ある環境に「適応」し、マジョリティで居られたからと言って、
異なる論理が働く環境への移行がうまく行く保証はない。

「適応」の誘惑の中で自分の「純度」を保ち続けること、
「自分の内なる声に耳を傾ける」ことができた人が
僕の周りには多いし、楽しく暮らせているし、
「純度」を高め維持するための感性を磨くべき、
という風潮も徐々にだが確実に浸透してきている。

 

「適応」と「純度」の両立という課題は、
多くの人が学校生活で直面してきたことだ。

そして、これまでは「適応」への要求が過剰だった。
結局はそれが僕の問題意識なのだと思う。

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