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「基礎」以上の学力を求める日本の大学入試のジレンマ

カテゴリ:世の中の事


まとめ

・現行の大学入試は「基礎」の定着を評価しない(多くの人には難しすぎる)
・「基礎」が評価されないから、「勉強する/しない」層の区別、自由競争の激化などが起こる
・高校進学率9割以上の時代にセンター試験が対応できていない
・でも、大学入試は入口と出口が強く結びついているために変化できない(ジレンマ)
・出口(就職)で、偏差値(入口での評価)が未だ評価されているのはその現れである

センター試験は難しすぎる?

入学試験とは学力を測る行為ではなく、学力をネタに足切りの線引きを行う行為である。

結局、センター試験の国語は基礎的な学力の達成度を測る指標とではなく、技巧的な構文解析、文脈解析の指標としてしか機能していない。

大学入試は学力を計るものではないことを改めて感じる – あらきけいすけの雑記帳

いまさらセンター試験の話題ですが、ようやく今年の現代文を解いてみて、思ったところを。

出題された小林秀雄の文章に”凄み”を覚えつつ、冒頭の記事を読み直してみました。

結論から言うと、僕もこの記事に概ね同意です。

といったものの、ここには戸惑いもあります。
個人的な話ですが、僕自身理系ではあるものの、大学入試の現代文は結構好きなんです(得意ではない)。
教科指導など生徒との触れ合いを通じ、現代文が問う力の重要性も徐々にですが認識するようになりました。
そういう事情があるため、現代文を、ひいては大学入試を否定するというのは自己否定につながる恐れもあるわけです。

しかし、ここで「センター試験(大学入試)は適切であるか」の一点に的を絞ると、これもまた容易には頷くことができません。
具体的な話をすれば、「読み物」としての修辞技法を駆使した小林秀雄の文章を読解できる能力が、すべての高校生に必要とはやはり思えないからです。

多分、「技術立国」を目指した教育の文脈で、高校3年程度の過半の人口に対して、国語に関する基礎的な学力を測るには、出題の題材としてはもっと素直でロジカルな文書、例えばOECD報告書のアブストラクトのような文書を読ませて、内容の正確な読み取りがどこまでできるかを問うべきだと思う。標語的に言うなら「TOEFLやTOEICを日本語にしたようなテスト」で、センター試験のような量の文章を出題し、ひねくれた文章の読解がうまいから点が高いのではなく、多様な分野の論理的で素直な文章をトータルの分量をかなり多めにして出題し、素朴に語彙が多くて正確に速読できるほど点が高くなる(「選別」ではなく能力測定が目的なので母集団の得点分布は気にしない)という形になるような試験であれば、学力を測るツールとして機能するのではないかと思う。

大学入試は学力を計るものではないことを改めて感じる – あらきけいすけの雑記帳

あらきけいすけ氏の主張は「基礎的な学力を測る」という点に立脚しています。
この点から見ればセンター試験は難しすぎるものであり、「基礎」を大幅に超えているのは間違いないでしょう。
「基礎」とは誰もが身につけなければならないものですから、その評価のための試験は、得点が90%以上の生徒が5割いても不思議ではありません。
「基礎」を測るとするならば、全国の高3生(しかも就職/専門組のほとんどが受験しない)の平均点が100点/200点というのは不適切といわざるを得ません。
あらき氏が言うとおり、日本の学力試験の実質的な目的は学習の到達度の計測でなく、あくまで受験者の序列化にあるわけです。

及第点で満足しないことの弊害

「基礎」の定着に対する評価がないことで、2つの弊害が起きているように思います。

まず一つは就職/専門組の学力・意欲の低下です。
彼らは受験競争に参加する気がないので、低評価であろうと卒業できれば御の字です。
彼らは「基礎」を身につけたかどうかをチェックされることなく社会へ出て行くわけです。

もう一つは過剰な知識習得競争です。
教育の質と量をどこまで追求しても足りないのですから、自由競争になります。
つまり、強いものがより強く、弱いものはいつまでも弱い、という構図ができるのです。
条件不利地域においては公教育の側から低学力層の学習機会の増加を働きかけるケースが少しずつ出てきています。
いわば学校教育という市場における社会保障ですね。
この流れは低学力層の生徒が逆転する見込みが少ないということの裏返しである、とも言えます。

及第点が取れるということが評価されるようになれば、この2つの問題は解消されるでしょう。
検討が進められている「高大接続テスト」はこの文脈に属するものと捉えることもできます。

日本の大学入試が抱えるジレンマ

まず、日本のいいところ。受験地獄というふうに、少し大げさに書きましたけれども、私の世代も割と受験地獄の世代で、とにかく必死にいろいろな知識を詰め込みました。去年ノーベル賞をとられた日本人の方も、私は受験地獄の支持者だというふうにおっしゃっていましたけれども、私も支持者です。アメリカに行ったときに、やはりよりどころになるのは、司法試験の勉強もそうだったのですが、豊富な知識であり、私はたまたま世界史も受験で選択していましたから、そういった世界の歴史ということもほかの外国人に比べてもそんなに負けている感じはしないと思い、大いに受験勉強に対して感謝しました。ですから、豊富な知識であったり、あるいは日本の大学入試に受かる、これは相当高い事務処理能力が要求されますから、それが証明されるのですごくいいものだと思っています。それから、自己マネジメントをして、膨大な量の勉強量をどうやって体を壊さずに、精神的にも安定させながらこなしていくか。そういうマネジメント能力、勤勉さという意味でも、日本の受験に私は賛成であり、今の高校でもそこから逃げるなというふうに指導しています。

中原徹氏(大阪府立和泉高等学校長)意見発表:文部科学省

しかしながら、大学が基礎学力以上を受験生に求める理由もまたあるわけです。
民間出身の校長である中原氏の言葉をここに紹介していますが、僕もこの意見は納得できます。
膨大な知識を体系的に身につける過程で鍛えられる力もまたあるわけです。

企業が大学生を大学の偏差値で順位付けすることには一定の合理性があります。
中原氏の言うように、受験戦争をくぐり抜けたからこそ、大学の偏差値は本人の”実力”とある程度相関するように思われます。
つまり、大学入学時点での評価がまだまだ支配的な位置を占めるわけです。
大学の入り口と出口の構造とが強く結びついているからこそ、大学入試を変えるのは難しい。

これも昭和の頃まではよかったかもしれませんが、いまや大学全入時代です。
高校進学率も9割を超え、うち7割が普通高校に通うのですから、現実的に考えれば、すべての生徒にとって勉強が”実力”を鍛える最良の手段である、と言い切るのは難しい面があります。

この流れの中で「基礎」以上を求めるセンター試験が適切と言えなくなってきているはずです。
センター試験とは異なる種類の評価が求められている、と考えるべきかもしれませんが。

ここに日本の大学入試が抱えるジレンマがあるように思えます。
とりあえずは僕も現行の教育制度の中でやれるだけのことをやっていきたいところです。


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