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誰の身にも起こること、と思っていない人が多すぎる

カテゴリ:世の中の事

自分の子どもの死体を遺棄できる心境を思う」という前記事の流れで。

自分の子どもを放置して死亡させた母親に対する、mixiニュースに便乗した日記のバッシングの強さと対照的に、 ちきりんさんとか、dankogai氏とか、きちんと正面からこの事件を見つめている人も多い。
前記事もTwitterで何度かRTしていただき、このブログの半月分のアクセスを一日で達成してしまった。
それだけこの事件で「違和感」を覚え、僕の記事に少しでも共感してくれる人が多かったのだと思う。

個人的に読んで嬉しかったのは、切込隊長BLOGのちょっとした一言だったりする。

個人的には、核家族問題の一種だとも思っているので、祖父祖母も含めた大家族と核家族の中間のような形態がうまくつくれるといいなと。

僕の中学の同級生にも、早々に結婚したり、仕事を辞めてしまっている人もいる。
でも、なんだかんだで、家族と一緒に暮らしているので、それなりに生活できている。
親に万が一のことがあったら、なんて考えると、彼らも途端に不安になるだろうけど。

万が一」 それが自分に降りかかると思っていない人が多い、と思う。
僕が心配性なだけならいいんだろうけど。

・貯蓄もなく、頼れる家族もなく、独身で、二人の子どもを育てる。
・突然、遺伝性の重病にかかり、全く働けず、精神を病んでいた妻が自殺してしまう。

というような状況になったとき、自分が平常を保てるかと言うと、あまり自信がない。
それなりにいいところへ就職できたのに、心を病んでしまった同期も少なくない。
そんな人たちを見て、「自分とは無関係」「自分は大丈夫」なんて思えない。

僕の違和感はここを出発点としている。
自分が自信を持てないことを、他人に対して強く言えるという精神が理解できない。
「育児を放棄するくらいなら子どもを生むな」と、なかなか言えない。(※)

残酷な精神を持ち合わせていたり、倫理観が欠如した人だけの問題。
「世間」はそういう「勧善懲悪」で済まそうと躍起になっているように見えてしまう。
誰か特定の人を犯人に仕立て上げる。
分かりやすい構図で見せるために、犯人探しに終始する。

「もし私が同じ状況に立たされたとしたら」と想像する意欲は失われる。
「誰にでも起こりうること」ではなく、「特別な人の問題」として処理しようとするのにつられて。

それが何の解決になるだろうか。
社会の矛盾から生まれた膿を必死で洗い流すことに一生懸命になっても、 その膿の元となる「病原」の治療は一向に進まない。
「普通の人」たちが、「特別な人」を排除して、社会の健康を守ろうとしている。
そんな構図に見えなくもない。乱暴すぎるかな。

罪は罪として、冷静な判断の元に裁かれるべき、というのに全く反対する気はない。
でも、それで万事解決すると思えるほど、僕は能天気にはなれない。
こんな状況を見ると、社会保障がどうこう言えるような雰囲気じゃないなと思ってしまう。

「自分には万が一のことはありえない」という前提がこの社会のどこかにあるから。
みんな、自分が「普通の人」の範疇に収まり続けると思っているから。

「もしも自分が…」という不安を社会全体で和らげましょう、というのが社会保障だと思う。
「特別な人」のためのものじゃない。 「誰にでも起こりうること」が「たまたま実際に起こってしまった」場合の助け舟。
そういうコンセンサスが取れていないと、社会保障は成り立たないし、「国」なんていらない。 と、思う。

余談。
自己責任って、誰が教えたんだろう。教えられた記憶ないんだけど。 どこにその論理が埋め込まれていたんだろう。学校?

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