「鶏が先か卵が先か」問題と中動態についてのメモ
カテゴリ:自分事 2016/01/27
社会構成主義の本を読んでみたり、
「成長」や「対話」というものについて探求したりするにつれ、
だんだんと”直感”や”なんとなく”に頼ることが増えてきた。
同僚としてはとても扱いづらい部類になるのだろう。
なにせ、最近、自分でも驚くほどに、日々の考え事が、
「鶏が先か卵が先か」問題に行きついてしまうのだ。
こうなると言葉で説明するのをあきらめたくなる。
システム思考の場合
システム思考の本には、たとえばこんな記述がある。
「問題の原因と結果はすぐ近くにある。だから問題の近くに解決策があるはずだ」という直線的なアプローチは、単純なシステムの時代には通用しましたが、複雑なシステムにおいては、通用しません。複雑なシステムでは、原因と結果が近くにあるとは限らないためです。
あらゆるものが複雑化した現代に、直線思考は限界を迎えた。
だから、今起きていることをもっと広い視野で捉え、
因果関係のループ図を見出し、真なる問題を探そう。
システム思考という方法は、
これまでと違う新たな理性の発揮の仕方の提案だと思う。
こうしたアプローチをとることで、
「鶏か卵か」問題はなるほど決着がつきそうではある。
しかし、いつでもどんな問題に対しても、
まとまった時間を取ってループ図を描けるとは限らない。
いつも十分な情報が得られているとも限らない。
結局はシステム思考も理性の所業。
ここが今のところのジレンマになっている。
中動態という考え方
リビングワールド代表の西村さんの昨年の動画。
ダイジェストではあるものの、ここで面白い発見があった。
「中動態」という概念である。
「現在の英独仏露語のもとになった諸言語の動詞体系には、長きにわたり能動態と受動態の対立は存在しなかった。その代わりに存在していたのは、能動態と中動態の対立である」
(「精神看護」2014年1,3月号連載・國分功一郎さん)
「鶏が先か卵が先か」問題の果てに辿り着いた
「する」でも「される」でもない「中動態」の世界。
調べてみると、なかなか興味深い記述が出てくる。
中動態とは何かと言うと、「その行為に主語がとくに関与し、結果が主語に関係をも つ点にある」(風間喜代三著『ラテン語とギリシア語』)。
http://www.ec.it-hiroshima.ac.jp/sakemi/Grammar/middle.pdf
英語では再帰代名詞を使うものや、
受動態でも「I was disappointed in him.」のように
「by」を用いないケースで、中動態的な意味があると取れる。
國分氏の文章について言及しているブログもあった。
意志は少しも行為の源泉ではないむしろ、行為の準備が整った後で意志は立ち上げられているという最近の脳科学研究を踏まえながら、文法問題から、思考の可能性条件をさぐりつつ、
「人が何ごとかをなす」とはどういうことなのか、を丁寧に解き明かしてくれる。
中動態は、僕の目にはあまり「理性的」に見えない。
西洋の対比としての東洋思想っぽい、と言えばよいだろうか。
システム思考は複雑性を前提としている点で東洋的だが、
数値解析的にモデリングして近似値を求めるアプローチに見える。
その一方で、複雑性のど真ん中に飛び込んだときに
むしろいきいきとするような感性もまた、
人間には備わっていた(る)のではないか、と思う。
常に頭でっかちになりがちな僕としては、
だからシステム思考に飛びつくのは時期尚早という感じ。
「鶏が先か卵が先か」
この問題に白黒をつけることにもはや情熱はない。
どちらでも構わないからとにかく飛び込むしかないのだ。
少なくとも今の僕にはその手立てしかないように思える。