失われる秋田への眼差し-特集「忘れられた秋田人」
カテゴリ:自分事 2012/01/25
アサヒコムの秋田版に「忘れられた秋田人」という特集記事が組まれています。
2012年1月5日から1月13日という新年早々のタイミングでアップされており、震災の翌年に東北に位置する秋田のこれからを見つめなおす意図があったのではないかと思います。
特集のタイトルは今なお慕う者の多い民俗学者・宮本常一の著書「忘れられた日本人」になぞらえたものです。
宮本常一はフィールドワークに数多く出向き、農山漁村のありのままの姿を記録しました。
自ら集落を練り歩き、地域の人と会話を交わす。「日本」に注ぐその暖かな眼差しを現代の日本で再現しようという、記者の意気込みが感じられます。
(個人的にも「忘れられた日本人」は一読をお薦めします。昔の日本の暮らし、そこに生きた人々の姿がありありと目に浮かぶ描写は圧巻です)
特集は全10回組まれています。
この特集で初めて知ったことも多く、とても有意義な記事ばかりです。ぜひお読みください!
- 10.旅する巨人・宮本常一の魂 (01/13)
- 9.口承で紡がれる「昔こ」 (01/12)
- 8.伝統の魚しょう しょっつる (01/11)
- 7.能代の「べらぼう凧」 (01/11)
- 6.酒造の技術者・山内杜氏 (01/11)
- 5.秋田の玄関「土崎港」 (01/07)
- 4.大屋が育んだ納豆 (01/06)
- 3.ナマハゲのお面 (01/05)
- 2.八郎潟の漁師は今 (01/05)
- 1.最後のマタギたち (01/05)
忘れられゆくものたちへの眼差し
現代に生きる僕たちは資本主義の恩恵に預かりながら”豊かな”暮らしを享受しつつ、思い出したように失われていく何かに目を向けることがあります。
しかし、失われていく何かは同時にこれまでの資本主義においては評価のしようがなかった代物であるということを自ら示しています。
(自然の摂理と言うべき)資本主義から脱却することが不可能な僕たちは、それらに一瞥をくれるのがやっとだったのです。
なぜ僕たちは古くから伝わるもの、文化と呼ばれる類のものを無視することができないのでしょうか。
そこには何らかの寂しさやノスタルジアが含まれていることは容易に想像できます。
あるいは、一種の罪悪感が目を反らさせないように作用しているのかもしれません。
失われていくものに目を向けたとき、多くの場面で「僕たちはすでに当事者でなかった」と気づかされることがあると思います。
この無力感とも言うべき感覚によって、もはや目を向けること”しか”できないのかもしれません。
失われていくものたちは、資本主義の外部でひっそりと消え去るのみですが、その内部に組み込まれている僕たちにも何らかの喪失感をもたらします。
失われていくものたちは、きっと何らかの形で、僕たちと繋がっていたのでしょう。
しかし、とても悲しいことに、僕たちはその喪失感を以ってはじめて失われていくものたちの存在を強く認識するようになっています。
それでも、目を背けずに
誰しも喪失感を味わいたくはないはずですが、問題は当事者の資格を得るためには多大なるコストを支払う必要があることです。
無力感も習慣化すれば諦めに変わることもあるでしょう。
それでも、失われていく何かへ向ける眼差しを絶やさないことはいつだってできます。
目を背けないことが結果的に何かいいことに結びつくとも限りませんが、向き合うことすら辞めてしまったらそこで可能性が途絶えてしまいます。
グローバリゼーションの進行により、社会は僕たちを短期的な利益に目を向けるように働きかけます。
ここでも、「何かいいこと Something Good」の精神が必要です。
「Do Something Good」
何か具体的に良いことをもたらすかどうかはわかりません。
しかし、可能性を閉ざせばどうあっても良い方向に流れることはありません。
僕たちは、「より良い社会」「あるべき姿」「Something Good」に投資することを文化とすべき時代に生きているように思います。
僕たちは、心のどこかにある喪失感や無力感を無視するかどうかで、21世紀を20世紀の単なる延長するかどうかの岐路に立っているように思います。
利益に直結するかどうかわからなくても、「可能性」に投資する。
21世紀は一人ひとりの姿勢が問われる時代なのではないでしょうか。