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取材の意味、あるいは取材されるということについて

カテゴリ:自分事

総務である僕にとって、視察対応も業務の一つ。
今年になって急激に視察数は増加傾向にあるが、
本来業務である教育活動そのものに影響が出ないよう、
視察日程を勝手ながら集約させていただくような事態にある。

同じような課題を抱える自治体や学校が、
ヒントを得るためにこの島へ足を運ぶという状況には
つい恐縮してしまうという意味では、嬉しい悲鳴なのだが。

そんな中、大学生が大学での学びの一環で、
あるいは研究の対象として僕たちの取り組みを
取り扱ってくれるケースも目立つようになってきている。
そんな彼らの取材の対応も僕の業務の範囲内にある。

大学生の無邪気さ、あるいは残酷さについて

大学生なので、例えば依頼の礼儀がなってない、とか、
社会人と比べて劣る点があるのは致し方ない、と思っている。
気になった点について注意するようなこともあるが、
まあ、これくらいなら「学生だから」という割り切りで済む。

今年になって僕の心に引っ掛かりだしたのは、
鞘のない刀をおもちゃに遊ぶ子どものような彼らの無邪気さだ。
むき出しで、遠慮がなく、危険であるという自覚がない。
(もちろん、みんながみんなそう、と言うわけではない)

礼儀を知らない、とか、取材慣れしていないとか、
学生から受ける取材の問題点なんてきりがないが、
(社会人に該当する僕だって100点を取る自信はない)
それら”お作法”とは別のところに僕は違和感を覚えている。

その結果、僕の心の中に滓がたまる。
なんだかフェアじゃない」というぼやきが。

取材されるということとその非対称性

調査研究というのは何らかの仮説を持った人が、
それが正しいかどうかを検証するために行う。
従って、検証の材料(エビデンス)を集める必要がある。

僕は卒論に実験を必要としない理系だったので
正確な記述をする自信はあまりないが、
少なくとも僕のところを訪れることになる学生たちは
その「材」料を「取」りに来ている、と言える。
だから、「取材」、と言う。

ここまでは否定・批判のしようのない当たり前のことだが、
僕がここで取り上げたいのは「取材の非対称性」である。

つまり、取材においては材料にされる側の人間が
(誇張ではなく)圧倒的に不利という事実がある。

問題は、来島する学生たちにその自覚がない、という点にある。

先に「取材の非対称性」について思うことを述べたい。

・取材される側が話すことは取材する側の影響を強く受ける

取材される側は材料を持ち、取材する側はそれらを持たない。
しかし、その材料を取材の場に出してよいかは
取材する側の目的と質問によって決められる。

そのときに取材される側に許されている選択肢は
手持ちのカードの中から場に出すものを選ぶか、
あるいは何らかの事情で都合が悪ければ黙秘するか、
でたらめに言いたいことを言う(ことで信頼を失う)しかない。

・材料の採用権限は取材する側にある

取材は何らかのアウトプット、あるいは
そのためのインプットを目的として実施される。
従って収集された材は最終的な目的に沿って
取材する側が取捨選択することになる。

 

取材する側/される側の権利には大きな差がある。
そういう意味で取材される側は常に、
取材する側にいいようにされるリスクを伴っている。

学生たちの「問題」

学生たちは”善なる”目的で研究をしているはずだ。
誰かを傷つけるためにわざわざ離島に足を運ぶなんて
相当な悪人であってもやりそうにない。

しかし、取材という刃物の取り扱いの注意を怠ることで、
不幸なことに僕が感じたようなもやもやを生み出している。

ある取材は、次のようなやり取りだった。

取材を依頼する段階で、彼らは企画案や研究計画書を
送ってくる(送ってこなければこちらから要求する)。
それをざっと読み、ある程度イメージを以てその場に臨む。

お互いが席につく。学生たちが簡単な自己紹介をする。
(複数人で来るときは片方が主に喋ることが多い)
事前に送られてきた取材目的をほぼその通りに喋る。
忙しい中ありがとうございます、と言われる。
こちらは長めに自己紹介をする。
よろしくお願いします、と言う。
じゃあ早速、という感じで質問が始まる。
(あるいはこちらが資料を基に説明を始める)

そこから、あまり心地よくない時間が続く。

こちらが話したことを深堀りせずに次の質問に飛ぶ。
(趣旨に沿っているであろうと思って話したのに)

幾つかの質問が間違った前提に基づいている。
(事前に資料を読んできたと言っているのだが)
(もちろんここで訂正を入れる)

つながりがわからない不連続な質問が繰り返される。
(何を話していいかだんだんわからなくなる)

隣にいる学生が不連続な質問で流れを断絶させる。
(企画書は1部しか送られていなかったはずだが)

自分の中で徐々にエネルギーが失われるのを感じつつ、
とにかくあまり複雑に考えずなるべく質問の通りに
答えるということを繰り返すうちに、時間切れとなる。
(後に続く予定がなければ少し延長する場合も多い)

結局、彼らは何が聞きたかったのだろう。
僕は、彼らの聞きたかったことを話せたのだろうか。

徒労感とか手応えのなさとかいう類のもやもやを抱えつつ、
彼らを見送る。ありがとう、と言い、彼らはその場を去る。

後日、ありがとうございました、伺ったことをまとめたので
誤り等ないかご確認いただけますか、と連絡が来る。

中身を一読し、がっくりと肩を落とす。

僕たちの取り組みの経緯は”編集”されてしまっている。
課題が強調され、しかもそれに対する努力に言及はなく、
(課題への対応を説明する機会がなかったのだから当然だが)
僕らが(彼らの想定通りに)壁に直面しているかのような印象が残る。

そうして、気づくのだ。
事前の説明や当日の質問からは想像し難いところに、
「取材の目的」が置かれていたのだということに。

率直にこちらの印象を述べるならば、
だまし討ちにあったような気分だ。

本来の意図を隠し、誘導するように質問を重ね、
言質が取れたら深掘りすることもなく取材完了。

きっとそんなつもりはないだろうが、
「わざわざ来てくれたからには」という僕の誠意が、
さらに後味を悪いものにしているのだからしょうがない。

まとめ―お互いに誠実であるために

長々と書いてしまったが、要は愚痴を言いたかっただけだ。

彼らの意図をきちんと確認しなかったのは、
どうしようもなく取材される側の僕の落ち度だった。
きっと彼らも消化不良だったのではないかと思う。

まずは彼らの本来の目的をきちんと聞く。
そこに時間を惜しまないことで、きっといい結果になる。

ただ、それでも少し気がかりなのは、
批判的な仮説を持つ学生が少なからずいることだ。

それ自体は決して悪いことではないが、
特にコミュニケーションもとっていない段階から
そういう態度で臨まれると余計に疲労感を覚える。

「こんな立派な施設、本当に必要なんすか?」

とある大学のゼミ合宿の一環で見学に来た学生が
文字通りのけんか腰だったことが強く心に残っている。

僕自身、立派な新校舎が建ったことの重圧を感じている。
だからこそこの校舎をよりよく活用したいと願うし、
島に住む人たちに積極的に利用してほしい、と思う。

そのときはついかっとなり必死に意義を強調したが、
学生相手になかなか情けない対応だったと恥じている。

次からは、「君はどう思うの?」と聞くことにしたい。
話は、それからだ。

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