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「資本主義から市民主義へ」の読後メモ(後編)

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言語・貨幣・法から法人論へ

話題は資本主義と貨幣論から、徐々に法人論へ移行します。

岩井克人氏の法人論は「会社はこれからどうなるのか」で展開されているもの。
それを端的に表現する言葉が、「会社はモノであってヒトであり、ヒトであってモノである」です。

― (中略)株式会社の商品は会社のものであっても株主のものではない。百貨店の株主であっても商品を勝手に持ち出すことはできない。会社は株主に対してモノであるが、それは株券というかたちであらわされる。同時に、会社はヒトでもあって、商品を勝手に持ち出した株主をヒトとして訴えることができる。

資本主義から市民主義へ

面白いのは、実は人間もまた「ヒトであり、モノである」という二重性を持っているという指摘です。

― (中略)会社はこれからどうなるかは、会社の問題だけでなく、国家の問題、人間の問題でもある。人間自体がモノでありヒトであるからです。モノであってヒトであるのは会社だけじゃない。(中略)岩井さんは奴隷制の問題についても少し論じられていますが、当たり前ですが人間だけが人間を奴隷にするわけです。イヌはイヌを奴隷にしない。人間が人間を奴隷にするのは、自分自身を奴隷化できたからです。自分の身体を対象化し、モノを扱うように扱えるようになったからです。それから同じように他人を扱えるようになった。ヒトであってモノであるというのは人間そのもののことであって、人間そのものが法人としてあるとしか言いようがない。この問題は、古代の問題であると同時に現在ただいまの問題でもある。

資本主義から市民主義へ

岩井 人間はヒトとモノという二重性をもっているから、はじめて近代人の定義ができた。フランス革命などでの基本的人権の宣言で、人間は誰にも支配されない自立した主体になったというわけですが、それは人間が自分自身をモノとして完全に所有しているということにほかなりません。

資本主義から市民主義へ

この二重性の起源となるのが、つまり人間が人間になり、法人になったのは、「言語・法・貨幣」という社会的産物です。

岩井 人間とは何かと問われたら、ぼくは、言語を語り、法にしたがい、貨幣を使う動物だと答えます。言語、法、貨幣といった社会的媒介について思考することは、そのまま人間について思考することだと思っているのです。

資本主義から市民主義へ

法によって人間の関係は、力の強弱とは独立した「義務」と「権利」のような抽象的関係になり、
貨幣によって交換は、見知らぬ人であっても、抽象的な意味での人間の間で成立するようになりました。

岩井 人間とは社会的な動物ですが、それは、言語・法・貨幣を媒介として、お互いを抽象的な意味での人間として認め合うことによって社会を形成する動物という意味です。

資本主義から市民主義へ

「法人」という言葉は文字通り法の下の人ですね。
言語・法・貨幣を媒介として人間は抽象性を持ち、法人となるわけです。
ここから、法人論が掘り下げられていきます。

岩井 法人の成立については、ぼくは間主観性、というよりも社会的承認が不可欠であることを強調します。現在のアメリカの主流派経済学の連中や、それに影響を受けた法学者たちは、法人とは単なる契約にすぎないと言っています。でも、たとえばいまAさんとぼくが法人をつくりたいと思って、二人のあいだでどんなに詳細や契約書を書いたとしても、ほかの人間が、Aさんとぼくがつくった団体をAさんやぼくとは独立の主体であると認めてくれなければ、法人としての機能を果たすことができません。ほかの人間と契約を結べないし、独自にモノを所有することもできない。つまり、法人という制度にかんしては、他人による承認、もっと一般的には社会的な承認が絶対に必要なのですね。もちろん、「人の噂も七十五日」ではないけれど、社会的な承認などというのは移ろいやすいので、それを国家が法律化して、制度として安定させたものが、法人です。

資本主義から市民主義へ

法人という概念によって交換と契約の主体は拡大されます。
ヒト(個人)でなくても、経済の担い手になれる。
それが利潤を生むためのシステムである資本主義の要請であるというわけですね。

岩井 法人がなぜ成立したか。これは組織、人間および人間以外の集まりにもかかわるわけです。会社だったら人の集まりですね。それからよく出てくるものに財団法人というのがあります。財団法人というのはよく考えると変なもので、これは何かというと、たとえばお金持ちが財産を寄贈してたとえば美術館をつくる。するとこの美術館は寄付者が所有しているものではないんです。これは寄付されたお金―たとえば銀行口座―を法律上はヒトとして扱うということです。財団とは財産に付随する組織ですけど、端的に言えばお金の集まりをヒトとして扱うということなんです。(中略)美術館が新しい美術品を買うときは、財団法人の名前で買う。たとえば美術品を盗まれて訴える場合にも財団法人の名前で訴える。だからこれはお金がヒトとして振る舞うということなんです。そんなふうに組織やおカネをヒトとして振る舞わせ、モノを所有させることによって、資本主義経済は、交換と契約の範囲をうんと拡大した。それがなければ資本主義はこんなに発達しなかったと思う。

資本主義から市民主義へ

資本主義の権化であるかのような法人というものを掘り下げていくと、
話は徐々に岩井氏の法人論の重要なテーマである「信任論」へと誘導されていきます。

岩井 資本主義とはほんらい、契約社会だと言われているわけですが、その契約関係を拡張すればするほど、必然的に倫理性を要求する信任関係も拡がってくるわけです。

資本主義から市民主義へ

どういうことかと言えば、たとえば法律上の後見人は、後見人になった途端に自己の利益でなく、被後見人の利益を追求しなければならない。
これは個人の利益追求のみを是とするアダム・スミスの考え方と反発せざるをえません。
つまり、被後見人と後見人は信任関係にあると見ることができます。
弁護士とクライアント、医者と患者の関係も、互いに自己利益追求が第一となれば、法的には過失があった場合を除き、勝訴や症状の改善は全く保証されないわけです。
したがって、そこには信任関係が含まれざるを得ない、というのが岩井氏の主張です。

岩井 こうして成立した法人、たとえば株式会社にしても、かならず代表取締役としての経営者が必要となるわけです。ほんらいはヒトじゃないモノである会社をヒトとして振る舞わせるために、その面倒を見る生身の人間が必要とされる。財団の場合には必ず理事がいるわけです。お金の集まりがただ転がっているだけでは何もできない。財団の理事は会社の経営者と同じで、ほんらいはお金の集まりでしかない財団が、ヒトとして美術品を管理し、人として契約を結んだり、人として訴えたり訴えられたりすることを、ただのお金の集まりの代わりにやってあげる、そういう存在なわけです。財団はそういう理事を必要とする。その財団と理事、会社と経営者の関係は必然的に…

 信任関係ですね。

岩井 ええ、信任関係を生み出す。一方が他方を一方的に信頼することによってしか成立しない関係を生み出す。この関係が成立するためには、信頼を受けた側は、自己利益を押さえて行動しなければならない。つまり倫理性を絶対に要請してしまう。こうして資本主義のまさに中核に信任関係、倫理が登場するわけです。

資本主義から市民主義へ

資本主義の論理的帰結として、利益追求のために、信任関係、倫理が求められる。
これは驚きを持って受け止めるべき議論と言えるでしょう。

著者の法人論はこの信任論や株主主権論批判、コア・コンピタンスの強調を絡めつつ、
ポスト産業資本主義における利潤の源泉がヒトである、という議論を提示しているようですが、
詳細は「会社はこれからどうなるのか 」をどうぞご参照ください。

さて、資本主義の中に「倫理」が必然的に求められることの”発見”が、
著者が「市民社会論」へ目を向ける契機になりました。

資本主義にも国家にも還元できない市民社会

岩井 ただ、一歩、社会的責任論に足を踏み入れると、単純な私的所有権の枠組みをちょっとはずれてきます。ぼくの市民社会論は市民社会の定義がまだはっきりしていないんだけど、現在のところとりあえず、市民社会とは資本主義にも還元できなければ国家にも還元できない人間と人間の関係であると定義しています。資本主義的な意味での自己利益を追求する以上の、何か別の目的をもって行動し、国家の一員として当然果たさなければならない責任以上の責任を感じて行動する人間の社会ということです。それが社会的責任だと思います。
(中略)要するに、そのなかではお互いがお互いに対して、資本主義的な自己利益、自己責任という意味での責任にも、国家における法的な義務としての責任にも還元できない責任を考え始める市民社会ですね。

資本主義から市民主義へ

これまで著者が追求してきた資本主義の垣根を飛び越えて、市民社会論へ。
そこには資本主義や政治のシステムの枠外で求められる、社会的責任の議論がありました。

岩井 たとえば市民社会で障害者の権利についての主張が始まる。だが、それが人々の政治的なコンセンサスにまで高まると、法律化されて国家の側に吸収されちゃうし、あるいは社会的な責任を果たすべく、NPOとかで活動してうまくいくと、そのうちに採算がとれ始めて資本主義に吸収されたりします。

資本主義から市民主義へ

こうして持ち上げられた市民社会の在り方は、ややもすると既知のことに思えます。
例えば、「新しい公共」、「行政と民間の協働」のようなキーワードに容易に結び付けられるような。
著者も「うっかりすると、心が優しいだけのいい加減な議論になっちゃう」と漏らしています。

岩井 いずれにせよ、逆説的だけど、国家にしても資本主義にしても、人間がお互いに責任感をもって行動しているような市民社会的な領域の存在を許すだけの余裕がなければ駄目なんです。そして、この領域が増えてくると、たんなる資本主義の単純な私有財産の枠組みにも、国家が定めた法律の枠組みにも入りきらないプラスアルファが、市民だけでなく、会社にも要求されるようになってくる。

資本主義から市民主義へ

 「国家」、「資本主義」、「市民社会」の3つの領域がどのように関係しているのか。
より具体的に言及されている箇所を引用します。

岩井 市民社会とは何かというと、いろいろな定義があります。カント-ヘーゲル的な視点では、この市民社会が国家と同一視されています。これに対して、アダム・スミスやマルクスや他の多くの経済学者にとっては市民社会はブルジョワ社会ですから、資本主義とほぼ同一視されている。つまり、従来、市民社会には二つの規定の仕方があったということです。(中略)つまり、市民社会は国家の側面と資本主義の側面の二つをもっていて、前者には法が、後者には貨幣が対応するわけです。
最近では、国家でもなければ資本主義でもない、第三の社会領域としての市民社会ということがよく言われます。ぼくも、市民社会とは国家にも資本主義にも完全には還元できない第三の領域であると考えています。しかし、同時に、国家と、あるいは資本主義と同列の水準で別の社会が自己完結的に存在しているとも考えていません。市民社会的なものとは、最終的には、法が支配する国家か、貨幣が支配する資本主義を補完するシステムであると思っています。

資本主義から市民主義へ

国家は法に、資本主義は貨幣に対応する。
では市民社会は何に対応するかと言えば、それは言語に他なりません。

岩井 言語は法も貨幣も、それを前提としているという意味では、より根源的であり、とくに人間の倫理的な活動ということではいちばん重要な部分になってくる。それだから、この国家、資本主義、市民社会という図式においては言語が市民社会に対応することになるわけです。

資本主義から市民主義へ

たとえば、国家を補完する市民社会とは、どういう働きなのでしょうか。

岩井 お互いの尊前がお互いに承認され、国家がそれをきちんと保証するということになって、その尊厳の承認が法的な権利というかたちをとる。法律ができれば、たとえば尊厳をもって扱われなかった場合は、権利が侵害されたとして裁判所に訴えることができるようになる。つまり、このような国家による法的権利が確立していない状態において、人間がお互いに尊厳を持った存在として遇し遇されるということをつねに問題にしつづける場が、まさにぼくの言う市民社会なのですね。それがきちんと確定すると法治国家になる。

資本主義から市民主義へ

 これは非常に重要な示唆です。
つまり、法治国家はその外部である市民社会があって初めて法治国家たり得る、ということになります。

法も貨幣もそもそもが自己循環論法によって成り立っている、
つまりなんらの根拠を持たない、デファクト・スタンダードとして存在するために、
その不安定性を補完するような第三の領域が求められるということです。

繰り返しになりますが、例えば貨幣は貨幣であるというだけで貨幣として利用されているのであって、
誰もその貨幣を信用しなくなり、利用しなくなれば、途端に貨幣は実効性を失うという矛盾を抱えています。
法もまた暴走の可能性を秘めている。それはナチス、ヒトラーの例を出すまでもありません。

 

貨幣論から始まった旅は、貨幣と法の不安定性を暴き、法人論に展開され、
それを受けて倫理性の必要があぶりだされる結果となりました。

3.11を受けてますます「市民社会」的領域への関心が高まる中、
「現実的に必要だから必要」と希望にすがるように第三の領域を要請するだけでなく、
岩井克人氏のような論理の積み重ねこそが求められるのではないか、そう思います。

21世紀はまだ始まったばかり。
市民社会をあるべき姿で定着させるためにも、著者の論の後先に今後も注目したいところです。


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