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消費者的態度ではなく生産者的態度をとるために

カテゴリ:自分事


消費者的態度の容易に想像される末路

「受身ではいけない」「主体的に行動しなければならない」

予測不可能で不安定な21世紀を生きるためにとるべき態度というものがある気がしています。

世間的な尺度で自らを評価し、レールに沿った人生を歩むことが個人の幸せを保障するとは限らない。
それを証明してくれたのが20世紀という時代でした。

「こうあるべき」という言説が自らの信念とは異なるところで語られるとき、
それを真に受けるかどうかは本来的に個人に委ねられているはずです。

「みんなそうしているから」
「世間一般的にその方が良いと言われているから」

これらは、自分の人生を決めていく上で何の参考にもならない情報です。
数の論理に負けて、あるいは表面的なコピーに踊らされて、人生を歩んでいく。

ピュアすぎるほどにピュアな消費者的態度をとることの末路は、
少しばかりの想像力を働かせるだけで容易に想像がつくと思うのです。

もちろん、世間的にうまくいっていると評価されるような人生を歩む人もいるでしょう。
しかしそれが本来的な幸せなのか?と自問自答したときの絶望感を想像するだけで、
消費者的態度に潜む恐ろしさを回避したい、と僕は思うわけです。
僕だけではない。ますます多くの人が、「自分の幸せって何なの?」と考え出しています。

それは「フリーエージェント社会の到来」で描かれる社会のあり方と一致します。
ダニエル・ピンクは「テーラーメード」の生き方・働き方を探す人が増えている、と指摘します。

生産者的態度の難しさ

消費者がだめなら生産者。

安易な発想ですが、自分のサイズに合うものがなければ、自分で作るしかない。
そういう覚悟が伴うことで、人は自ずから生産者的に振舞うのではないかと思います。

覚悟

ここに生産者的態度の難しさがあるように思えます。

自らの正解を自らが定義し、つくりだすこと。
正解を選ぶのではなく、選んだ選択肢を正解にすること。

世間の尺度はここでは無用なものです。
自らの価値基準で物事をはかるためには、価値基準自体を自らつくりだす必要があります。
そのためには、自らが何を望むのかを言語化する作業が常に問われることになります。

消費者的態度と生産者的態度を分かつもの

これら二つの態度を隔てるものはいったいなんなのか。

僕の長年の自由研究のテーマであり、いまだ明確な回答が見つけられていません。

一つに「言語化」の能力の”格差”がある、と思います。
「言語化」の能力が求められる社会になりつつあることと、
消費者的態度で本来的な幸せをつかめるとは限らないということとは、パラレルな関係にあるはずです。

もう一つ、消費者的態度と生産者的態度を分かつものとして考えられるものがあります。
それは、「時間的な遅れ(delay)」に由来するものです。

何か新しいことを始めたとき、その成果が得られるまでにはタイムラグがあります。
一方、既存の考え方や手法、具体的なものを取り入れれば、成果はすぐに得られるものです。

既存の携帯電話に代わる新しいモバイル機器を自ら考えるのは非常に骨があります。
しかし、iPhoneを買えばとりあえずはニーズを速やかに満たすことができるかもしれません。

完璧に自分に合ったものは自らつくるしかありません。
一方で、成果が出るまでにはそれなりの時間がかかります。

その時間を待てるかどうか。
時間的遅れを認識し、成果が出るまで研鑽を惜しまずにいられるか。
あるいは、成果が出るまでの、自ら作り上げていくというプロセスを楽しめるかどうか。
そこにポイントがあるように思えます。

代替物がいくらでも流通している世の中で、自ら考えることはますます難しくなっています。
だからこそ、「生産者的態度」のとり方を考える必要がある、そう思っています。


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