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正論が前提とするものとその望ましくない影響について

カテゴリ:自分事

「人と人とのかみ合わせを良くする」

僕が掲げているこのテーマについて吟味するとき、
そこにある前提を置いている、と気づく。

「ある人の言動は(結果が周囲の不利益になるとしても)
元々は”善”なる動機に基づいていると考えてみる」

もしかしたらこれを「性善説」と呼ぶのかもしれない。

ある2人がかみ合っていないとき、
いずれかあるいは両方が相手の動機を「悪」とみなしている。

『結果が「悪」であるならばその出所も「悪」だ』

相手を「悪」とみなしている2人が、
協力的な関係を気づけるようになるだろうか?
残念ながら、その見込みは薄い。

チームとして有機的な行動が求められるとき、
あるいは問題解決の場面であっても、
”善”であると仮定して臨むのが良い、と思っている。
(もちろん言う程簡単ではない)

相手を「悪」とみなして”善”であろうとする傾向について

最も厄介なのが、積極的に「悪」をつくることで
自分だけは”善”を保証される状況に持ち込もうとする傾向だ。

これはいわゆる「」のことだ。
自分の立場を強化するという目的でやり取りが為される。

批判や中傷というのは比較的分かりやすいケースだ。
感知しやすく、周囲の抑止もしやすい。
そうした行為は良くないという共通認識が得やすいからだ。

より深刻なのは、野放しにされがちなケースだ。
一見して”善”なる振る舞いのように見え、
しかし確実に相手を「悪」の側へ突き落す。
「正論」には、ときにそうした働きがある。

振りかざされた「正論」には気をつけた方がいい。
さらに言えば、その「正論」の精度が高いほど、
修正しがたいという意味で根が深い。

「正論」を投げかけられた相手は「悪」となる

AさんがBさんにある「正論」Cを発したとき、
「BさんはCを知らない」、「BさんはCに反する人だ」
という認識がAさんの前提になっている。

そこにはBさんがもしかしたらCを知っていたかもしれない、
Cに反するつもりがあったわけではないかもしれない、
という性善説的な可能性が認められる余地がない。

さらに、この時点でAさん、Bさんの周囲は
Aに賛同することがほぼ決まる。
Cは「正論」であるがゆえに覆すのが難しいからだ。

Bさんの真なる動機に対する配慮よりも前に、
まず善悪の判断が下るのは望ましいことなのだろうか。

結果でなく動機に注目せよ

僕の主張は、従って「悪」と見なされる行為であっても、
その真なる動機に配慮せよ、ということである。

結果に共感できなくても、その発端となった感情には
共感することが(理想的な意味で)可能だと思っている。
繰り返しになるが、もちろん簡単なことではない。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。
その意味するところともしかしたら近いのかもしれない。

蛇足だが、こうした僕の人間観は
ただただ「ひとの話をきく」という体験に基づいている。
判断や評価を棚上げすることで一瞬見えた世界が、
理想であっても掲げてみたい、という気にさせてくれた。

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