「やりたいこと原理主義」と地域の限界

カテゴリ:自分事

「やりたいことをやればいいじゃん」

秋田に帰ってからよく耳にするし、自分自身口にすることの増えた言葉の一つだ。親や友人、先生、地域から受ける期待というものは確かにあるし、周りを見渡した時に自分だけ違う道を進むというのはいかにも怖い。しかも、その道が安全だとは限らない。それでも、「やりたいことをやればいいじゃん」というのが僕としてはなんとなく善なることのように思えてしまっている。

もちろん、そう考えない人もいる。それはそれでロジックとしても十分に理解できるし、安易に否定するべきものでもない。幸せのカタチは一人ひとり異なる。このブログのタイトルは「秋田で幸せな暮らしを考える」としているが、理想的な単一のモデルがあるのではなく、それぞれが自分なりの幸せを追い求めることがあるべき姿なのだろう。秋田に戻ってきてから、あるいは海士町での経験を経て、ぼんやりとそうしたイメージが見えてきた。

それでも。

僕自身はやっぱり「やりたいことをやる」というのが一番いいことだ、とどうやら思っているらしい。あるいは「ありたいようにある」というのがより適切な表現かもしれない。いずれにせよ、僕自身のポジショニングが変わるタイミングがすぐに訪れるような気配はない。そう考えない人もいるということは念頭に置きながら、結果的にポジショントークをしてしまうケースはこれからも出てくるだろう。

「やりたいこと原理主義」。人口減少が急速に進む秋田において、教育が目指すべき方向は、こっちにある、と思っている。まず第一に、そっちの方が楽しいだろう、ということ。もう一つは、これから地方が直面する「生産性」という課題に対するソリューションとして。そう考えるのは、”一人ひとりがありたいようにあり、やりたいことに打ち込んでいる瞬間こそが、最もその個人のエネルギー量を最大化できる”という個人的な考えが前提としてあるから。といっても、そんなに複雑な話ではない。ドライな考え方だけれど、労働人口が減少するのはわかっていながらそれなりの生産性を保ち、経済を回すために、先進国の中で労働生産性の低い日本においては、一人ひとりの生産性を高めるというのが有効な手段だと思うからだ。

現行の日本の教育制度では、残念ながら最大公約数しか掬えない、という印象がある。秋田は確かに学力日本一という結果を残しており、特にいわゆる「落ちこぼれ」をきちんと拾っている、という点はきちんと評価されるべきだと思っている。しかし、それはあくまである定められた枠組みの中に子どもたちをしっかりと押し込めるための教育でしかなくて、取りこぼしがぽつぽつと出ている。端的には不登校や発達障害、あるいは低偏差値の子どもたちだ。たぶん、その取りこぼしも、全国レベルで見れば非常に少ないのだろうとは思う。が、秋田はこれから人口減少の最前線に突入する。現行の教育制度での取りこぼしを「致し方ないもの」として目をつぶり続けることが果たしてできるのだろうか。

偏差値という物差しによって「優秀」とみなされた子どもたちであっても、彼/彼女ら一人ひとりの生産性が最大化される保証は、この学校教育ではたぶん無理だ。むしろいさぎよく諦めてしまった方がいいのだろうけど、学校教育はそのつもりもなさそうで、なんとなく、行き詰った感がある。高校生100人がいれば、大学に入り正社員になり3年間働き続ける、という人間は1/3ほどだ、という調査もある。そのストレートを前提として”キャリア教育”が実践されているとしたら、限界が来るのは当然と言えば当然なのだけど。

僕は別に秋田の学力日本一を批判しているわけではない。「学力日本一になってどうするの?」という疑問が浮かんでしまうところに、批判的にならざるを得ないというだけだ。五城目町は、移住者が入り始めた時期から一部の人間の裏テーマとして「世界一子どもが育つまち」という方向性を打ち出している。「世界一」を掲げた途端に、偏差値という物差しの意味が瓦解する。世界の教育はより多様であるからだ。そして、そこに、自由と責任が生まれる。あらゆる可能性を手段として検討することができるが、きちんと「子どもが育つ」というところにコミットが必要だ。量的な評価の可否は別にしても。

正直、今の秋田を見ていると、ちょっと息苦しさを感じる部分がある。地域の大人たちから子どもたちに向けた期待が否応なく高まっているのだ。自分たちの世代がどんどん都会を目指したせいで人口減少が進んだというのに。そうした大人たちからのメッセージの多くが、子どもたちの視点を欠いているのだから、なかなか困ったものだ。結局、それは教育の課題と紐づいているように思う。「子どもも一人の人間である」という前提が欠如している、という点で。

「一人ひとりを大切にする」と書くと、なにをそんな当たり前のことを、と思われてしまうかもしれない。でも、それが仮に当たり前だとして、「いやいや、全然一人ひとりを大切にできてないですよね?」というのが僕の見ている景色だ(これは別に秋田に限ったことじゃないことは書き加えておく)。はっきり言って、「やりたいことをやる」を実現するのは難しいし、僕自身の中にもノウハウがあるわけではない(他人よりは経験があるのかもしれないけれど)。それでも、この方向が僕の目指すべき道なのだろうな、とはぼんやりとした確信がある。

一方、それを受け止める地域の側も変わっていく必要がある。その地域で「やりたいこと」が実現しそうにないから、その地域から若者たちが出ていってしまうのだと思う。居場所と役割と出番があるから、その地域にいよう、という意思が生まれる。他の誰でもなく、「あなた」にこの地域にいてほしい、というメッセージがあるから、地域の一員としての自覚を持つことができる。

やりたいことをどれだけやれるか、その範囲がそのまま「地域の限界」なのではないか。先日の矢島高校でのフォーラムに参加したときに、思わず口をついた言葉だ。我ながら過激なことを言ってしまったと思うが、ぽろっと出てしまったのはまさにそれが本音であったからだ。自分たちの世代が見捨てて来た地域を次の世代に見放されたくないのであれば、自ずと考えるべきことが見えてくる、と思う。話は、それからだ。

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「起業したい」んじゃなくて「起業するだけの力が欲しい」と言い換えてみたら

カテゴリ:世の中の事

先日、超多忙なタイミングで五城目町に遊びに来た学生と飲みながら出てきた話。

秋田の大学生と話していると、「起業したい/興味がある」という声を聞くことがたまにある。なんとなく、それって「起業するだけの力が欲しい」というのが本当のところなのではないか、と感じることが少なくない。そしてそれは僕自身すごく共感するところでもある。「力が欲しい……」なんて書くと、ちょっとダークサイドに落ちてそうな台詞だけど。

「起業したくてこの会社に入った」という発言についても、そういうわけで「力が欲しいのね」と読み替えるようになった。本当の本当に今この瞬間に起業したいと思っているのなら、すでに着手しているはずだからだ。

こんな感じのことをその学生に話すと、「いや、まさにそうですね……」と。まずは力を身に付ける。そして、到達したその地点から、改めて世界を眺めてみる。これまでは「難しいかもしれない」「どうせ無理だ」と無意識に思いセーブしていたものがあったかもしれない。力は自信に変わり、自信は視野を広げる。そうして「やりたいこと」を感知するセンサーがより精緻に働きだす、ということもあるかもしれない。

これは、例えばキャリア教育のプロセスとは逆かもしれない。キャリア教育的文脈なら、まずは「やりたいこと」を見つける手順が先にくる。方向が見えてきたら、内発的動機づけが作動して、その人は前進できる、という算段だ。そのプロセスで得た経験を血肉としながら、「やりたいこと」を実現しよう。そうしたメッセージは、至るところに溢れている。さて、それが唯一のやり方だろうか。

さっき、「おこめつ部」の「種蒔~Workshop&Training~」という3日間のプログラムに参加した学生と飯を食べてきた。「自分のやりたいことを考えるみたいなプロセスが全くなく、ひたすらスキル習得にフォーカスを当てていたのが、逆に良かった」という意見があった。確かに、そうかもしれない。自分の内なる声を探る作業はそう簡単ではない。認定NPO法人カタリバの主催する「東北カイギ」では、社会人や大学生を大量投入して高校生の内省をサポートした。裏を返せば、それだけ内面を探るのは大変で負担のかかる作業だ、ということだ。

「やりたいこと」をひとまず脇に置き、ひたすらにスキルアップと実践の機会を提供する、というのは、実はありなのではないか。もちろん、そこには良質なインプットとワクワクするような実践の場が必要ではあるけれど、内省を支援するよりはマンパワーもかからないように思える。

あくまで仮説なのだけれど、こうした気づきをぼんやりと念頭に置きながら、手を動かした後に手元に残ったものから考えることの可能性について考えていってみたい。

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シンプルに物量に頼るということ(ワークショップのはなし)

カテゴリ:自分事

この週末はいわゆるワークショップに計3回立ち合い、そのうち2回については企画とファシリテーターを務めた。そこで得られた一つの結論はシンプルなもので、ワークショップにおいては「物量に頼る」べきシーンがある、ということ。

それは、先日東北芸術工科大学で開かれた「東北カイギ」で目の当たりにした、最大で高校生1.5人に対して大人or大学生1人という超充実した2泊3日(のうちの2日目と3日目)を見たことが一つのきっかけとなっている。3日間で高校生たちが変わる。それを実現しているのは、ときに変化への戸惑いや恐れがあったとしても寄り添い続ける人たちの支援だったと思う。

10/24に五城目高校の2年生約100名に対して実施されたワークショップには、明治大学、明星大学、東京学芸大学の学生が関わってくれた。「東北カイギ」とは異なり、高校生たちはみなその場に望んで集まったわけではない。だからこそ、学生たちの存在は、変化を恐れ、平常運転に戻そうとする慣性の渦中にある高校生たちのアンカー(錨)として効果的に機能していた。

もしかしたら、非常に有能なファシリテーターであれば、その場を見事に収めることもできたかもしれない。夜を徹して考え抜かれ入念に準備されたワークがあれば、あるいは学生たちの「物量」に頼らなくても高校生たちの変化を安全に促すことができたかもしれない。しかし、そうした可能性を追及するよりも、シンプルに「物量がモノを言う」という法則に従う方が、よほど賢いように思えてしまったのだ。

もちろん、「量より質」と単純に割り切れるものではない。今回、五城目にはるばる来てくれた学生たちは、一人ひとり「いいやつ」だった。どこに出しても恥ずかしくないような人物が集まり、かつお互いが個性を遺憾なく発揮できているという、稀有なパーティーだったと思う。人に恵まれたことは認めざるを得ない。

それでも、僕は物量にシンプルに頼る可能性に注目したい、と思う。ファシリテーターの役目は、一人で担わなければならないものではない。己の力が及ばぬ可能性があるならば、単に他の人に頼ればいいのだ。予算の兼ね合いはあるだろうが、そこに創意工夫を投下する価値はある。少なくとも、PCの前でうんうん唸りながら当日の資料の準備に膨大な時間をかけるよりも生産性が高い結果になることの方が多いのではないかと思う。

以上を踏まえ、僕が今後ワークショップの企画・運営に携わることになれば、自らのベストを尽くそうとするのはもちろんのことだけれど、素直に自分一人では到達の難しい領域があることを認め、物量作戦が取れないものか頭を巡らしてみる価値はある、という結論に至っている。限られた予算の中でも最寄り駅までは来てくれる大学生を2,3名でも集められれば、それだけアンカーは増える。いきなり実戦に投入するのが難しければ、あらかじめ彼らを育てておくというアイデアもあり得る。事前の仕込みの時間を設けることは、僕自身の経験値にもなるわけで、結果的にワークの質は高まる。労力がかかるということ以外にはいいことしかない。

 

ここまで書いてみて、「そもそも、ワークショップってそんなに価値があるの?」という意地悪な問いが自分の中から出てきた。もちろん、ワークショップは、ただの手段であり、目的ではない。それでも、このワークショップ後進県・秋田においては、もう少しその価値を追及してみる意義はある、と思う。ワークショップの中で重んじられるコミュニケーションの形態を浸透させるだけでも、地域社会に少なからぬインパクトが生まれるのではないか、というのが僕の仮説だ。そういう視点で、もう少し、ワークショップというものを秋田の中で取り扱っていけたらと思う。

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