NVC(非暴力コミュニケーション)についてー場づくりカレッジレポート

カテゴリ:自分事


この記事は、2017年12月9日-10日に京都で行われた「場づくりカレッジ2017 第4講 共感力を味方にしたファシリテーション~共感コミュニケーション(NVC)~」に参加したレポートを兼ねて、NVCというコミュニケーションの一つの在り方を紹介するものです。このセミナー参加に際し実施したpolcaにご支援いただいた皆様、本当にありがとうございました。

本文の構成として、まず先に京都でのセミナーに参加するまでの経緯と、当日のプログラムについて触れます。NVCについて僕なりの説明をするのはその後になりますが、結論だけ気になる方は前半は飛ばしていただいて結構です。なお、別記事で「中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)」との関連からNVCを扱う予定です。

NVCの簡単な紹介と、僕がNVCを学びに京都まで行ったわけ

はじめに、NVCの概要について。NVCは「Non-Violent Communication」の略で、直訳すると「非暴力コミュニケーション」となる。その他、「共感コミュニケーション」「人を思いやるコミュニケーション(Compassionate Communication」と紹介をされる場合もあるそう。

少し、僕の個人的な話を紹介したい。僕がNVCという言葉を知ったのは実は5年ほど前、NVCを体系立てたマーシャル・B・ローゼンバーグ氏の著書「NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法」という本が日本語で出版されたときにさかのぼる。当時僕が住んでいた海士町でもこの本を読んでいた人がいて、ちょっとした話題になったのだった。しかし、そのNVCを学んだであろう人が、僕の話を「解決してやろう!」という態度で聞いてくる様子が鼻につき、しばらくNVCに対しては悪いイメージが先行していた。

その一方、自分自身のコミュニケーションの在り方を根本から見直したい、という気持ちはずっとあり、2014年秋の西村佳哲さんとの出会いを経て、「インタビューのワークショップ 2015 初夏の女神山編」へ参加するに至る。コミュニケーションの主導権ははなし手でなくきき手にある、という観点を得たこと、そしてそこに集う人やその場の持つ力を認識できたことが、今の自分につながっている。

本格的な場づくりに関わる機会となったのが、2017年11月の「あきた未来カフェ」。企画運営を担ったこの場では、「傾聴」をキーワードに据え、「きくこと」の大切さを共有したときにかかわりの質がどのように変化するかを目の当たりにすることができた。そのときの内容は別の記事にまとめている

自分で場づくりをしたことで、質の良い対話の場を経験してみたい、様々な手法を学びファシリテーターとしての幅を広げたいという欲求は高まる。しかし、秋田にはなかなかそのような機会がない。ちょうど12/8に東京に行く用事があったので、その前後で開催されるワークショップがないかを探っていた。そこで目に飛び込んだのが、Homes’viの主催する場づくりカレッジだった。過去に敬遠していた「NVC」が取り扱われる。これも縁かなにかだと思い、予定を調整して申し込み、同時に、「NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法」もAmazonで購入した(秋田のジュンク堂書店には残念ながら置いていなかった)。

きくことの持つ力に関心のある今、NVCの考え方は「なるほど」と思う以上に「ああ、やっぱり、そうだよね」とすんなり理解できるものだった。世界観が共有されている感覚。ぼんやりと持っていたアイデアが、より詳細に語られており、ワークショップ当日での学びにも自然と期待感が高まっていくのだった。

2日間のワークショップで取り扱ったこと

(※ワークショップやファシリテーションに興味のある人向け)

以下では、2日間の内容を、自分がとったメモと、共有いただいた写真を元に紹介する。模造紙は、当日の進行と同時並行でグラフィックレコーディングされたものだ。また、当セミナーのFBイベントページには写真付きで流れが紹介されているので、こちらもご参照いただければ。なお、前提として、このセミナーはファシリテーションやワークショップを企画運営する側として関心のある人向けのものになっている。

[1日目]

○チェックイン
初日のチェックインは一般的なもので、円になって準備ができた人から時計回りに今の状態や参加した経緯を全員が話す。

○NVCの説明
NVCの概要についての説明。NVCとは、一人ひとりとのコミュニケーションの中で、「自分が大切にしている部分に触れ続け」ながら、「相手の気持ちに共感していく」もの。

○Contact Walk
アイスブレイクの意味合いも込めつつ、その場にいる人の存在をありありと感じるワーク。参加者は口を閉じ、各々自由に室内の気になるところを歩き回る。2日間を過ごす会場になじんでいく時間。その後、ぐるぐると回っていく中で出会う人と向き合って心地よい距離感で立ち、見つめ合うともなくお互いの存在をぼんやりと感じ合う。おじぎをして(後半には握手もして)別れる。また他の人と出会い、同じように繰り返す。

(個人の感想)言葉を交わさずに相手と向き合うことで、僕はどこに目線を置いたら良いかわからなくなった。存在が持つ情報量に圧倒されていたという感覚。顔のパーツ一つ一つ、肩のライン、服装、姿勢などなど。話をしていると目が合わせられるのはフォーカスできるところがあるからなのかもしれない。

○講師・小笠原春野さんのお話
改めて、講師である春野さんがNVCに出会った経緯と、その上でNVCについて、もう少し細かく。

印象深かったのが、「受け取る贈り物」という言葉。贈り物を上手に受け取るときに、それを与えた人もまた喜ぶ。”giving and receiving”。与え合うだけでなく、受け取り合う。「はなす」ことばかりが注目される中、「きく」ことの大切さがにじみ出るように感じられる。与える-受け取るのなめらかな循環は、ちょうど「∞」のイメージで、相互に行き来する。

この図の左側は前出の西村佳哲さんのワークショップで紹介されていたものとほぼ同様であり、正直驚いた(出元が一緒なのかもしれない)。日本語では「頭で考える」、「腹の内を探る」というように、頭よりも胸や腹に本音や生々しい感情があるという表現がなされる。それに基づいて分類したとき、すでにある情報や知識、経験というものは過去の出来事から構成されたもので、石のような固定的なイメージがある。一方、言葉として表現されないが、表面ににじみ出る表情やしぐさ、あるいはぼんやりとした「痛い」「熱い」等は、まだ吹き上がったばかりで定まった形状を持たないマグマのようなものかもしれない。さらに、その吹き上がる源泉のようなところには、きっと一人ひとりが持つ固有・個別の大切にしていることや願いがあるのではないか。この2日間はこんなイメージを持ちながら、そうした奥底のニーズに触れ合うNVCという手法を探求する時間となった。

NVCの4つの構成要素は「観察(Observation)」、「感情(Feeling)」、「ニーズ(必要としていること、Needs)」、「リクエスト(Request)」。それぞれは続くワークの中で説明がなされているので細かくは説明しないが、2日間のワークの中では「ニーズ」の大切さがところどころで強調されていたように感じている。人はだれしも満たしたいニーズを持っている。人と深いつながりを持ちたい。どんな時でも誠実でありたい。豊かな自然に触れていたい。自分を滞りなく表現したい。そのニーズを大切にする。自分が何を必要としているのか。その感情はどんなニーズが満たされないために起こっているのか。ニーズを満たすように言葉を選び、相手に伝えることができているか。相手にもニーズがあることを理解し、大切にきこうとすることができているか。

NVCでは、ニーズがある程度類型化されている。たとえば、このリンク先から例を知ることができる。

○ニーズ散歩
そこで、まずNVCでいうところの「ニーズ」に触れるワークを行った。参加者とペアになり、会場の外をぶらぶらと歩きながら、NVCの中で「ニーズ」として分類される言葉について相手がどんなふうにとらえているかをききあう。たとえば、「創造性」について、どんなことを思いますか? というふうに。

(個人の感想)冬の京都の住宅街を歩きながら、ただ語られる言葉をきく。改めて自分にとってその言葉や概念がどういうものなのかを言葉にする機会って、実はない。そういう意味でも、じわじわといい時間だった。

○Deep Listening
外から戻ってきたら、そのままのペアで、相手が取り組んでいることについて、3分間、ただただ黙ってきき合うディープリスニングの時間。きいている間は、内容を覚えることばかりにとらわれず、「ニーズ」に注目していく。続いて、きき手が受け取ったそのイメージを元に、「ニーズ」の言葉たちの中で近いものを選んではなし手にプレゼントする。

この「だまってきく」というスタンスは、NVCで頻繁に注意が促される「相手を変えようとしない」ということにつながっている。促しもしない。いわゆる”オウム返し”もしない。相手に作用しようとしない。まず自分がきき方を意識する。きっとそこに何か大切にしているものがあるはず、と信じて。

(個人の感想)面白いもので、「あなたの話を聞いて、あなたが大切にしているのはこれだと思いました」というやり取りは、押しつけがましくならず、すんなり了解できるものも意外に思えるものも入り混じったままに受け止められる感じがした。これはそのときその場で出会った人どうし、素朴に関心を持ち合うからこそ成り立つものだったかもしれない。普段の人間関係の中で、相手の言葉をさえぎらずにただただきくことってなかなかないし、むしろ、言葉尻ばかりにCPUを割いてしまうことの方が多いだろうから。そういう意味で、NVCという手法を通してコミュニケーションを「意識的に」行うことができるようになるはずである。

○共感トランプを用いたエンパシーサークル
1日目の後半として、感情の言葉とニーズの言葉が一枚一枚書かれた「共感トランプ」を用いたエンパシーサークルというワークへ。ここではニーズと共にNVCの4つの構成要素の一つである「感情」も取り扱った。

まず、4人のグループをつくる。1人が、「最近イラっとしたり、ショックだったりしたエピソード」を1分ほどで他の人にシェアする。その内容をきいたメンバーが、手元の「共感トランプ」に記載された「感情」の表現の中から、そのときに感じたであろうカードを選んで提示する。「その言葉を聞いて、『孤独』を感じたんですか」というふうに。ただ1つの正解を選ぼうとせず、様々な観点からありえそうな「感情」のカードを次々と出していくのが特徴。ちょうどよいところでカードの提示をやめ、エピソードを紹介した1人がずらっと並べられた感情のカードの中からしっくりくるものを3枚選ぶ。

次に、選ばれた3つの感情それぞれに対し、再び他の3人が「その感情が沸き上がったのはどんなニーズが満たされなかったからか」を手元の「ニーズ」のカードから次々と出していく。「『孤独』を感じたのは、あなたにとって『つながり』が大切だったからではないですか」というふうに。ニーズが出きったところで、3つの「感情」の発生源となる「ニーズ」のカードをそれぞれ1枚ずつ選ぶ。以上を、グループ全員で順に回していく。

(個人の感想)シンプルではあるものの、これが結構面白い。ゲーム感覚でさくさくやれるのもよい。イラっとしたことを思い起こしてみても、相手や状況に対するいら立ちが先立ってしまい、意外と「自分がそのシチュエーションでどんな感情だったのか」を落ち着いて振り返ることはなかなかできない。しかも、部屋で一人で考えているとネガティブに触れがちだが、グループでやることで他の人にホールドしてもらえる感覚がある。大量のカードから選ぶことで、客観性を確保できるようになる。一人でうんうん考えてもそれだけの選択肢は出せない。グループで気軽にNVCのプロセスを疑似的に学べるというだけでなく、他者にかかわってもらう意義も感じられる、素晴らしいワークだった。

○チェックアウト
こちらも一般的なチェックアウト。前のワークの感想を引きずりながら、ぐるっと一周して終了。

[2日目]

○チェックイン(名前で歌を歌う)
2日目のチェックインは初めて経験したもので、今の自分の状態を、身振り手振りも交えて自分の名前に載せて歌う、というもの。自分が歌った後に、他の全員が真似して歌うので、意外と盛り上がる。特に10代は帰属感や受け入れられることが大事なので、こうしたワークは有効らしい。

(個人の感想)正直、個人的には気恥ずかしいものがあった。場を選ぶ必要があるかなと感じた。中学生はやらなそう。女性だけだとノリノリかも。あと、これは余談だけど、僕は自分の名前というものへの抵抗感が人より強いらしい、という薄々感じていたことに改めて気づかされることになった。さらに余談だけど、ワークショップの前に名札に「呼ばれたい名前を書いてください」というのも苦手。

○ニーズの美しさについて
改めて、「ニーズ」がNVCにおいて大切にされている背景について、講師の春野さんから。その解説でJohn Lennonの「Love」が紹介されたので、引用する。

Love is real, real is love
Love is feeling, feeling love
Love is wanting to be loved

Love is touch, touch is love
Love is reaching, reaching love
Love is asking to be loved

Love is you
You and me
Love is knowing
we can be

Love is free, free is love
Love is living, living love
Love is needing to be loved

John Lennon  “Love”

wanting が asking に変わり、ついには needing になる。足りないものを求め、次には願う。そして、「ピュアな、普遍的な、全人類に共通の」ものとして自分の内なるところから必要とする。「ニーズ」という言葉には、単に”自分が必要としていること”という以上に、自分の必要としていることを深く深く掘り下げていく先に、人類共通の「ニーズ」につながる、という世界観がある。文字だけで表現する難しさがあるが、実際にこの歌を会場で聴くことで、不思議と、その言わんとする”美しさ”を垣間見た気分になった。

(個人の感想)印象としては、はじめて「U理論[第二版]――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術」を読んで受けた印象に近いなとも感じた。あるいは、マイプロの文脈で言及される「代表性」とか、デザイン思考のプロセスとかとも。具体的な一人の感覚がより深いところから表出すると、それは不思議と他の誰かと共有

○観察(Observation)
NVCの4要素の1つである観察を扱う時間。起こったことに解釈を挟まずに客観的な事実としてとらえ直すのが観察である。具体的なワークとしては、ワークショップのファシリテーターとして、実際に当日発生して焦ったり困ったりしたことを出し合い、それを「観察」を通して客観的な表現に置き換える。

before:また主催者が飲み物をぶちまけた
after:○○さんの横のパーテーションが倒れ、水が50cc床を濡らした

という具合で。before / after 共に同じ事象を表現しているが、after の方が冷静な状況把握につながるということが伝わるのではないか。このように客観的な捉え方に変えることで、「イラっとしたこと」も落ち着いて振り返ることができる。そして、自分も含めた誰かを責めることよりも、その中で自分や相手が満たされなかったことは何かに目を向けることができる。

(個人の感想)before / after を比べると、 before の「ぶちまけた」という表現は、どこか誰かを責めるようなニュアンスを感じる。しかも、「こぼした」なんて言葉よりも強く。つまり、責任を問うている。一方、 after になると、水が濡れただけであり、そこにこぼした人の責任は問うてない。逆に、 before には「主催者が」「ぶちまけた」というところに、「感情」が込められていると言えるかもしれない。

この辺りの言い換えは、まるで「能動態/受動態」の対立から「能動態/中動態」の対立へと言語スキームを転換させているように感じた。ここに大いに知的好奇心を刺激され、「中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)」を年末年始で再読するに至る。この点はまた別記事でまとめたい。

○ニーズカードを用いたグループワーク
これまでのワークで「観察(O)」「感情(F)」「ニーズ(N)」の3要素を取り扱ったことになる。その上で、2日目の後半はさらに「ニーズ」を掘り下げていく。まずは、ニーズを満たすための手段について、視野を広げるためのワーク。まずは4人グループに分かれる。1日目にも使用した「共感トランプ」を用い、「ニーズ」のカードの中から1人1枚ランダムに引く。インディアンポーカーのように引いたカードを周囲に見えるように(自分に見えないように)額に貼り、「そのニーズを満たすためにはどういう行動をとるか」を他の人から言ってもらう。その情報を元に、自分の額のカードに書かれた「ニーズ」を当てる、というもの。しかし、正直、当たらない。人によってその「ニーズ」の捉え方が違い、それを満たす手段も違うからだ。ここでは当てることではなく、そうした多様な捉え方・満たし方を知ることに主眼が置かれている。自分の「ニーズ」を知ることも大事だが、それを大切にするための満たし方もまた、多様に持っている方がよい、ということだ。

○ニーズベースプランニング
引き続き、ニーズカードを用いたワーク。グループで全員のニーズを満たすワークショップの企画をすることを通じて、複数の人の「ニーズ」の両立を試みる。具体的には、グループの各自にニーズのカードの束を渡し、各自がその中から「自分が場づくりで大切にしていること」を3枚選ぶ。その中から特に大切にしたい1枚を出し合い、そのニーズをすべて満たすようなワークショップを考える。

(個人の感想)どうしても表面的な感じになるのは致し方ないところか。が、「お互いが大切にしていることをまず出し合う」というところから始めるというやり方には可能性を感じた。たとえば、チームで何か新しいことに取り組むときには、お互いの価値観(ニーズ)に基づいて譲れないもの、達成したいことを出し合い、それを元に何をするかを決めていく、というプロセスを取り入れるとよいかもしれない。

○木と風のワーク
「与えあい、受け取り合う」ことを、身体を使って体感するためのワーク。ペアをつくり「木」の役と「風」の役に分かれ、向かいあって立つ。「風」の役は手のひらを下に、「木」は上に向けて、お互いの両の手のひらを合わせる。目をつむり、ファシリテーターの指示に従いながら(「最初は風はそよそよと吹き始めます」「次第に横にも縦にも大きく風は吹いていきます」等)、「風」の役が手を動かし、「木」の役は「風」に揺らされるまま、重ねた手の向こうからの動きに委ねるように手のひらを動かす。指示があったら動くのをやめ、役割を交代して同じことを繰り返す。最後に、お互いに左手を上に、右手を下に向けて手のひらを合わせ、お互いが「風」であり「木」であるように動く。

(個人の感想)「木」「風」どちらも経験した後で、そのどちらでもある状態に入ると、その動きはどちらの意図によるものなのか、お互いの境界があいまいになっていような感覚があった。「ニワトリとタマゴ」さながら、「与える」と「受け取る」は相互に作用しあいなめらかに循環しているものかもしれない、という印象を抱く。というか、世の中には「ニワトリとタマゴ」の関係が多すぎる。もしかしたら、「場」や「関係性」がその間になければいけないのでは、なんてことも。これも、なんとなく「中動態」につながりそうな世界観っぽい。

○4つの耳
「観察」を取り入れながら、「感情」と「ニーズ」をとらえていく練習の時間。そのために、「ジャッカルの耳」と「キリンの耳」という2つの耳と、「内向き」「外向き」の2つのきき方を導入する。ジャッカルのきき方は攻撃的で、感じた怒りや悲しさをそのまま対象にぶつけるように表現する。キリンは耳のつき方から幅広い音を聴きとれるそうで、NVC的な聴き方のシンボルだそう。5人グループになり、1人が「言われてイラっとした言葉、凹んだ言葉」を言い、それに対して以下の図の4通りのききかたに従って、他の人が返していく。ジャッカル耳外向き(他者を批判)→ジャッカル耳内向き(自分を批判)→キリン耳内向き(自己共感)→キリン耳外向き(共感)の順でやるのがおすすめだそう。

(個人の感想)僕は自分がいらっとする言葉として取り上げたのは「秋田のために頑張って、えらいねえ」。これに対し、ジャッカル×外向きの役の人が「他人事か!」とばっさり切ってくれて、「ああ、まさにそれが言いたかったんだ」としみじみしてしまった。喉の奥でつっかえていた言葉が他人の口を介して出てくる。また、誰にとっても(3)(4)が難しいものと思っていたが、「ジャッカルの方が苦手」「内向きはできるけど外向きができない」などの感想が出ており、きき方の癖は人それぞれらしいことがわかったのも面白かった。

○私の木
2日間の最後に、ニーズをベースに自分の内面と向き合う時間。A3用紙に下の図のような木を描き、「過去」に取り組んできたこととそれによって満たされたニーズ、「未来」に取り組んでみたいことと大切にしていきたいニーズ、そしてそれをつなぐために「今、自分が大切にしたいこと」を順に書いていく。

(個人の感想)ここでも、「ニーズ」に意識を向けることの面白さが。自分の振り返りをしても、ついつい「出来事」や「取り組み」といった「コト」に気が向きがち。それらを通じてどんな「ニーズ」を自分は満たそうとしていたのか、という観点で見ると、これからのこと、いまここで大切にしたいこともまた違う観点から見えてくるものがある。

○チェックアウト
最後は、円になってチェックアウト。これも一般的な方法で、1人1分程度で全員が感想や気づきを共有していく。

以上が、2日間の行程である。

改めて、NVCについて

NVCとはどんなコミュニケーションなのだろうか。2日間のワークショップや書籍から得た情報をもとに、僕なりにまとめにとりかかってみる。はじめに、NVCは「なにではない」のかについて考えてみよう。

まず、NVCは問題解決の手法ではない。もちろん、コミュニケーションが良質になる結果として、問題は解決されることになるが、軸足は問題解決ではなく、なめらかな受け取りあい・与えあいに置かれている。「問題解決に有効である」と言う場合には、それは、その時点で認識されている問題ではなく、その問題をもたらしている人と人の関係性を”問題”とするという意味においてならば、主張することができるかもしれない。

コーチングについてはどうだろうか。

「問いかけて聞くことを中心とした”双方向なコミュニケーション”を通して、相手がアイディアや選択肢に自ら気づき、自発的な行動を起こすことを促す手法」

【図解】コーチングとは?ティーチングとの違いで学ぶ、その意味と効果的な使い分け | Hello, Coaching! – コーチ・エィ

相手を恣意的に変化させようとしないという点ではNVCと共通しているが、「自発的な行動を起こすことを促す」ことに重きを置いている点で、NVCと異なるように思える。コーチングにNVCを生かし、結果的に「自発的な行動を起こすことを促す」ことはできそうだ。カウンセリングも同様な点で、NVCと区別されるだろう。

他の手法と比較してみたとき、NVCは、「関係性」や「つながり」にフォーカスしていることが見えてくる。自分と他者との関係、あるいは自分自身とのつながり。より大きく見れば、ある国とまたある国の間の関係性。

NVCはわたしたちに本来そなわっている力―人を思いやる気持ちを引き出すことで、自分自身と、そして自分以外の人々との交流を容易にする。自分自身を表現する方法、そして耳を傾ける方法を見直すプロセスともいえる。(中略)自分自身を受け入れるために、人との絆を深めるために、しごとや政治の領域で効果的な人間関係を築くためにNVCは役立つ。そして、世界各地のさまざまな紛争や対立に和解をもたらす方法としてNVCは活用されている。

NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法

NVCの中心となる4つのプロセスとは、「観察」「感情」「ニーズ(必要としていること)」「リクエスト(要求)」だった。このプロセスは、自分自身とのつながり、他者とのつながりをより豊かなものにし、人生をより素晴らしいものとすることを目的として体系立てられている。そのポイントは、京都での2日間で繰り返し強調されていたように、「ニーズ」にある。人はそれぞれ、心の奥底に大切にしたいもの、必要としていることを持っている。そして、同時に、本来人には自分自身の、そして他者の大切にしているものに心を配り、耳を傾けようとする力が備わっている。そうした前提がNVCの根っこにはある。

もう少し踏み込んで言えば、自分が大切にしていることがあると自覚することが、他の人もきっと大切にしていることを持っているだろう、という想像力につながる。その点で、NVCの世界観は、相手をどうこうしようというところから出発しない。NVCは自分自身とつながる手段でもあるのだから。

一方、日常的なコミュニケーションの中で、ニーズを素直に表現したり、あるいは相手の真に意図するものを捉えようとしたりするのはなかなか難しい。普段僕たちが取ってしまいがちなコミュニケーションのうち、いくつかは暴力的に機能してしまう。そうではなく、本来的に人に備わる思いやりを十分に発揮するために、NVCの4つのプロセスが役立つ。

・観察:起きていることを、評価を交えずに観察する。
(具体的には先述のワークショップ2日目「観察」のワークを参照のこと)

・感情:「思っていること」と「感じていること」を区別し、自分がどう感じているかを表現する。
例:A「わたしにはギター奏者の才能がないと感じる」 → B「ギター奏者としての自分にがっかりしている」

・ニーズ:自分の感情の根底に何があるのかを見極め、自分が必要としていることを自覚する。
例:A「契約を破棄するなんて、ほんとうに腹が立つ!」 → B「彼らが契約を破棄したときに、ほんとうに腹立たしく感じた。そういう行為は非常に無責任だと思うから。
※Aは「腹が立つ!」原因を相手側の行動のせいにしている。一方、Bはその奥にある自分の大切にしていること(責任を全うするというニーズ)が満たされなかったがゆえの感情であることを自覚している。相手の行動を自分の感情の原因とせず、自分の感情の責任をとっている。

・リクエスト:自分のニーズが満たされるであろう行動をとってもらうよう、具体的に相手に要求する。
(2日間のワークショップでは扱っていない。オブラートに包んだ表現を避けるには、自分のニーズを明確に自覚することが求められるため、この前段としての3つのプロセスを重視した結果だろう)

一連のプロセスを通じて、人は、自分自身の深いところとつながりながら、コミュニケーションを交わすことができる。自分自身のニーズに対して嘘をついたり背いたりせず、誠実であり続けることができる

このプロセスは、もちろん他者とのコミュニケーションにも応用が可能だ。NVCのプロセスに沿って自分の感情を知り、その根底にあるニーズを自覚するように、相手が何を観察しているかを把握し、感情とそれを引き起こしているニーズに共感を持って理解しようと試みることができる。相手を変えようとするのではなく、自分のかかわり方・きき方・はなし方を変えればよいという意味で、この実践は一人から始められる。

人は誰しも、大切にしたいことを心の奥底に持っている。わたしも、あなたも。きっと、日々の暮らしの中でかかわる人たちの内なる想いを、そして、自分自身の深いところにあるニーズを、大切に取り扱うための手段があれば、人生はもっと豊かになる。そのための手段として、NVCは体系立てられた。

ここまで読んでいただき、さらにNVCに興味を持った方は、ぜひ書籍を手に取ってみていただきたい。自分の家族や職場の同僚、そしてもちろん自分自身とのコミュニケーションの中で、活用できそうな場面をイメージできると思う。僕も、多少のお手伝いはできると思う。あなたから始められるNVC、気になった方は、ぜひ。


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「人口減少」は現象か、問題か

カテゴリ:世の中の事


日本が抱える「人口減少」を取り巻くあれこれでもやもやすることが多い。その理由を考えてみた。

「人口減少」は、グローバリゼーションとグローバリズムを区別するように、その周縁にある言説もまた区別しなければならないのではないか。前者は現象、後者は”ism”(主義、学説)である。「人口減少」の言説の多くは、それを単なる現象と捉えることに満足せず、解決されなければならない問題であることを前提として語ろうとする。こうした言説は、地方に呪いのように浸透している。

“ism”としての「人口減少」は、現象を解決すべき問題に据え置き、かつイシューを抽象化・単純化する。と同時にその問題の最中にいる人(それはあらゆる人になってしまうのだが)の言動に、一定の方向付けを迫る。そういう作用がある。年末年始で話題になった某地方紙の記事(特集)は、まさにその端的な例と言ってよい。「人口減少」があらゆる人の生活に大小さまざまな影響を与えるということと、それ自体が”問題”であり解決されなければならないものであるということは、区別されねばならない。これは、”「人口減少」が一切のネガティブな影響を及ぼさない”という主張ではない。グローバリゼーションという現象が論理的帰結としても事実としても都市化/過疎化や物理的距離の圧縮をもたらすように、「人口減少」も、人手不足や後継者不足、社会保障の負担増といった状況をもたらすことは否定し得ない。ここで主張されるのは、「人口減少」下でそうした状況が生み出されるとしても、「人口減少」そのものが問題であるという言説は言説でしかない、という見方である。

ソトコト2017年12月号では、台湾で古い建物や昔からの街並みを生かしたまちづくりのプレイヤーとその様々な取り組みが紹介されている。彼らの志や「文化をつくる」「自分たちが楽しめることをやる」というスタンスは素直に共感できるものであるが、その内容としても、仮にこれらが日本国内の事例として紹介されたならば、ほぼ違和感なく受け止めることができるだろう。ただ一点、「人口減少」の文脈がそこに組み込まれていない、ということを除いて。

視点を変えてみると、(ソトコトの紙面上においては)台湾でのこうしたムーブメントは、「人口減少」の文脈にとらわれていない、と読むこともできる。記事中で紹介される台湾国内の様々な施策や組織は、結果として、「人口減少」が表面化する社会(たとえば日本)においてもぜひとも実現されるべき事例となっている。それならば、「人口減少」がもたらす様々な状況に対する施策は、「人口減少」を問題視する文脈を必ずしも必要としないとも考えられないだろうか。

「人口減少」は、「地方創生」という号令の下で急速に”問題”として浸透した。都市部への集中が進み、「人口減少」にあえぐ地方に手を差し伸べ、国を挙げて「人口減少」に立ち向かうのが「地方創生」というシナリオであった。しかし、台湾の事例は、「人口減少」という文脈を待たずして、「地方創生」で奨励されるような事例が生まれつつある。

ここで個人としての結論を述べるならば、「人口減少」は単なる現象である。もちろん、この現代日本において、特に地方でそうした背景がありありと横たわっていることは了解せざるを得ない。そうだとしても、いや、だからこそ、「人口減少」”ism”に囚われず、(台湾の事例がそうであったように)目の前にある個別具体の問題を解決しようとする個人や組織の小さな取り組みに希望を見出すべきではないか、と思う。


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地域や社会に目を向けるよりもまず自分を満たすべきかもしれない

カテゴリ:自分事


自分を満たすために周囲を頼らない

僕自身もできているわけではないということは置いておいて。

やりたいことがわからない、と言うとき、その人は自分自身のどんなニーズを満足させれば良いのかがわかっていない、ということなのだと思う。一方、「地域のために〇〇をしたい」と言うときもまた、その源(ソース)となる自分自身が持っているニーズを考慮していないと感じられるケースが散見される。

もっと踏み込んで言いたいこともある。「人の気持ちや価値観を変えたい」と言うとき、大抵の場合そう言う本人からは「自分の正しさを示したい」という以上の動機を感じられない。そして、さらには、仮に正しさが示されたことで、その本人が満たされるのかと言えば、どうも本人の満たされるべきものと正しさを示すことでの承認欲求と本人がやることの間の接続がかみ合ってない、ということも。

逆のケースにも言及しよう。

「金儲けしたいんすよね」と言っている人が、儲かりそうな事業をばんばん手掛けてその通りやっているというとき、共感できるかどうかは置いておいて、やっていることと言っていることのずれはほとんど感じられない。健全だし、気持ち良い。むしろ、自分が儲けられるということを脇に置いて「地域のために」とか「win-win」とか言っちゃう方がうさんくさい。儲けたいなら儲けたいでいいじゃない、と思う。モテたい、でもいい。

自分のニーズに素直であり、そのニーズを満たすように動く。それが健康的な循環を生む。自分の欲することを満たすことができなければ、それを満たすことを周囲に依存することになる。だから、外に目が向いて、「地域社会に貢献したい」なんて言葉になる。貢献すること自体が悪いんじゃなくて、他の誰かのために貢献し、他の誰かによって自分を満たそうとするのがあんまり良くないんじゃないの、という話。「やらない善よりやる偽善」と言うけど、その”偽善”を自己満足・自己完結と捉えるならば、周囲を変に巻き込まない分、健全な匂いがする。

自分がエネルギーを発揮したいなら、まずはその受け手を見つけるべきなのだと思う。それを安易に他の誰かに設定すると、往々にしてエネルギーをうまく受け止めてもらえない事態が起こる(受け止めてもらえるように調整していないから)。結果、エネルギーは滞り、淀む。自分のエネルギーの戻り先として自分自身を設定すれば、エネルギーはシンプルに循環する。

ここまで書いて、西村さんが「仕事に人生をかけない」という話を紹介していたのを思い出した。それに近いような、遠いような。この点はまだ咀嚼できていない。

でも、エゴはダメでしょう? という反論への反論

そうは言っても、利己的になったら良くないでしょう? という人がいる。自分だけの利益のために他人に不利益を被らせるのは良くない、と。

そりゃあ、もちろん、良くない。しかし、その意味での”利己的”な振る舞いをする人は、単に自分を満たせていないのだと思う。だから、他人に迷惑をかけても自己利益の追求を止められない。自分がいつまでたっても満たされないから。

この文章を書きながら、僕の脳裏には「地域活性化あるある」な勘違い人種のことが浮かんでいる。「地域を良くしたい!」と言いながら、上から目線で「ああしたほうがいい、これはダメだ」と好き勝手な物言いをし、だんだんと地域の人も取り合わなくなると、「こんなに地域のことを思って頑張っているのに、なんでわかってくれないんだ!」と逆切れするという迷惑な人たち。僕の目には、この人種は先の”利己的”に振る舞う人と同類に見えている。

ちょうど、この本のP.190にも「利己」と「利他」に関する言及があった。幸福学では「利他」が幸せの極致ではあるが、そもそも「利己」と「利他」は意識(ego)を手放せば区別できるものではなくなるよね、という話。

「利己」と「利他」を区別するから、”「利己」は良くない―「利他」は良い”という二項対立になる。この構造から離れて考えるべきなのだと思う。

自分-社会の捉え方を変えてみる

僕が海士町にいたころ、生徒の将来の夢ややりたいことを一緒に考えるというときに、良くこの図の上側を用いて説明していた。「自分のやりたいことと社会が求めることの重なりの部分を模索しよう」と。

ところが、最近になって面白い話を聞いた。そもそも、自分だって、社会の一員だよね、と。ベン図を分けて描くことが多いけど、実は自分だって社会に内包されているよね、と。

この話は僕の中で強く印象に残っており、この記事を書く動機にもなっている。そうであるならば、自分自身を満たそうとすることが、すなわち、社会のニーズを満たすことであろう、と。

逆に、「利己」と「利他」を区別し、「利他」に走ろうとすれば、誰をも満たさない事業やサービスが生まれる。生まれるというか、誰も(本人すらも)求めていないので立ち上がらずに終わる、または早々に撤退する、という結末になるのだろうけど。

「地域SNS」なんていい例で、確かにそれが機能すれば地域内/地域間のコミュニケーションが促進され、キープレイヤーがつながり、よりインパクトが大きくなりそうというのはロジカルに想像できる。しかし、機能させるところに、人間社会のリアリティが立ちはだかる。利己/利他の区別は、このリアリティを見落とさせる働きがあるように感じられる。

こういうときに思い浮かべるのが「黒いお皿」の話だ。新商品開発に乗り出した食器メーカーが、主婦10数人を集めて、これまでにないお皿をつくるとしたらどんなものが欲しいか、というインタビューを実施した。そこで出た意見が「黒いお皿」だった。確かに、黒々とした食器と言うのは「これまでにない」。インタビューの主婦たちは「珍しいよね」「欲しいよね」と乗り気だった。しかし、実際に販売したところ、まったく売れなかったという。

どうやったら自分を満たせるのかを自覚している人は、実は少ない。他人の「あったらいいよね」は意外と信用ならない。「利己」はダメだけど、「利他」だけでもダメなのだ、たぶん。

それでも他者のニーズを満たす手段としてのデザイン思考

先ほどの図の下部に視線を戻そう。この図は、自分のニーズを満たすことが、社会の他の誰かのニーズを満たすことにつながる、ということを表している。それは利己/利他の区別を超えた次元の話なのだった。

では、自分でない他の誰かのニーズを満たすことは可能なのか? 

雑な議論になるが、そのための手段の一つがデザイン思考なのではないかと思っている。徹底的に他者の視線を獲得しようとする試み。素早くプロトタイプを繰り返し、頭の中の仮説を厳として存在する現実に向けて漸近的に近づけようとするプロセス。自分でない誰かのニーズをその本人以上に共感的に理解していくことによって、自分でない誰かのためのプロダクトを生み出す。

すでにあるニーズに対してさらに良いプロダクトで応える持続的なイノベーションは、絶滅はしないものの、既存のサービスで衣食住が十分に満たされている時代においてはどこかで限界にぶつかる。そういう意味でも、世界中の企業がデザイン思考に着目しているのは、当然のことなのかもしれない。

(こう書いていて気づいたのだが、自分のニーズに接近するにも、他人のニーズに接近するにも、結局他者の手が必要、と言えるのかもしれない。が、この議論については本文末尾で言及する)

自分を取り巻く言語の限界に挑む

ニーズを満たす、と簡単に書いたが、デザイン思考といった手法が”わざわざ”発明されたことからもわかるように、事はそう単純ではなかった。恐らく、その難しさは、僕たちが心の奥底でぼんやりと感じていること、無意識に抱いている前提や価値観が、日常の中で使われる”言語”で表現されがたいものとしてあることに起因するのかもしれない(普段の言葉で表現できるならば、それは意識化を免れない)。

ある人から拝借したこの本の3章で、南方熊楠が何に挑んでいたのかが考察されている。僕自身、ほとんど咀嚼できていないのだが、ここに何かしらの糸口があるように感じている。

紹介されていたのが、ラカンの「現実界」「想像界」「象徴界」という分類だ。

・現実界・・・人間の心の働きの外部にあるもの。「自然」。
・想像界・・・人間的な心を形成するもの。イメージによる思考。
・象徴界・・・想像界を一旦壊し、記号的な言葉の力を借りて主体を再構成したもの。「言語」。

この3者がそれぞれ輪としてお互いに絡み合うことでバランスを保っているとしたとき、どこか1つの輪がゆるめば、他の2者もつながりを保てずばらばらになってしまう、ということらしい。その具体例として、熊楠が頻繁に遭遇した「身体から頭部が離れる体験」が記述されている。

象徴界は言語の働きと密接に結びついていますが、その言語の活動の場所は大脳言語野です。したがって象徴界は頭部に宿っているという身体イメージが、ごく自然なものです。その頭部が身体から分離して、外からや上から身体を見下ろす体験をするのですから、あきらかに象徴界の組み込みに関わる「精神変態」と見ることができます。身体の全体的なイメージをつくりだしているのは、想像界という心のレジスターです。この想像界と象徴界の結びつきが弱まり、それが身体という現実界との分離を引き起こしています。

熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)

この話題を厳密に取り扱うには力不足に過ぎるが、熊楠の直面したこの分離は、象徴界=一般に流通する言語によって現実界や想像界を記述しきることができないという事態によって引き起こされたのだった。具体的には、熊楠は彼の業績として広く知られる「粘菌」の研究において、この分離に立ち向かわなければならなかった。というより、この本に従えば、否応なく直面するこの分離の意味するところと対峙し、現実界や想像界に真に対応する象徴界=言語を構築するプロセスとして「粘菌」の研究に着手した、という方が正しいのかもしれない。

結局何が言いたかったというと。

僕らは僕ら自身の言語の範囲に応じて、現実を記述することができる。逆に言えば、言語の記述できる範囲を超えて現実を把握することはできないということだ。実際、目の前に起こる現実がもたらす情報は、無意識の取捨選択によって認知されるに至るという(逆に自閉症スペクトラムの当事者の中には、取捨選択がなされないため、健常者が無視する余計な情報もすべて受け取り、情報過多になるという例もある)。先述した通り、無意識に抱くもの、ぼんやりとしたイメージは、言語化できないから「無意識」であり「ぼんやりと」しているのだ。

こうした見方に立つと、自分が満たされたいニーズを把握することは、自分が持っている言語の限界への挑戦でもある。また、その挑戦は終わりを知らないし、漸近的な接近でしかないのだろう。先に紹介した「無意識と「対話」する方法 – あなたと世界の難問を解決に導く「ダイアローグ」のすごい力 – (ワニプラス)」では、「古層へ潜る」という表現がなされていたが、勝手に近しいものと捉えている。

言語の揺らぎと社会構成主義

では、いかに象徴界=言語を、現実界や想像界にフィットさせることができるのか。”言語”を狭義に捉えるならば、「英語やスペイン語を学べばいいってこと?」となる。確かに、それぞれの言語には何らかの前提があるはずで、それを学ぶことで世の中の見方が変わるということはありえるかもしれない。もう少し広義にとらえるならば、恐らく「社会構造主義」が有効になるのではないか。少し長い引用をしてみる。

マーティンは、教室や実験室で使用される生物学のテキストの中で、女性の身体がどのように記述されているかを分析しました。分析の結果、マーティンは、女性の身体が、子孫を残すことを第一の目的とする一種の「工場」として表現されているという結論に達しました。そして、月経や更年期は、「生産性がない」ため、無駄な時期であるかのように扱われていると考えました。一般的な生物学の教科書の中で、月経について記述するために用いられている用語を、ここに書き出してみることにしましょう(強調はガーゲンによる)。

「プロゲステロン(黄体ホルモン)とエストロゲンが減少し、非常に分厚くなった子宮内膜を維持していたホルモンの働きが損なわれる」、血管の「収縮」によって「酸素や栄養物の供給が減少する」、そして「内膜が維持できなくなり、内膜全体がはがれ落ち、月経が起こる」、「ホルモン刺激が欠如した結果、子宮内膜の細胞は壊死する」。別のある教科書では、月経を「子宮が赤ちゃん不在のために泣いている」ようなものだと表現しています。

あなたへの社会構成主義

著者は、生物学という自然科学のテキストにおいてもある種のイデオロギーが含まれており、必ずしも中立とは限らない表現がなされている場合があること、また、ここが重要なのだが、それはまた別様に特徴づけることも可能という点を、社会構成主義の視点から指摘している。

僕らが当たり前に使う言語には、すでに何らかの前提やイデオロギーが組み込まれている。それによって、同じ”現実”を見たはずの人たちが結果として異なる解釈に至るということも珍しくない(「群盲象を評す」等)。「粘菌」という、これまでの言語に矛盾を突きつけうる「自然」(=現実)を手がかりに熊楠が挑んだのは、西洋流の自然科学が孕む限界(=ロゴスの法則に従い、因果関係で記述する作法)だった。

象徴界=言語の側から自然や漠然としたイメージをとらえようとすると、それはいつまでたっても一様な姿しか見せてくれない。しかし、現実界や想像界の方に目を向けてみることではじめて、これまで用いてきた言語の不自由さに気づくことになる。この試行は3者のバランスを揺るがすリスクに直結するが、この揺らぎを乗り越え象徴界の新たな形式をもたらそうとするチャレンジによって、言語が拡張される(あるいはこれまでと異なる構造を持った言語に出会う)ということになる。そうしたチャレンジの先にあるのが優れた芸術(アート)であり、熊楠が見出そうとした新たな学問の地平であった。

終わりに―方法としてのダイアローグ

途中から思いがけず抽象的な飛躍を遂げてしまったが、最後にまとめに取り掛かってみる。

この記事で取り扱ったのは、「まずは自分を満たそうよ」という提案である。前半では概念的な説明を、デザイン思考以降ではその手がかりとしての様々な理論や方法をそれぞれ提供したつもりだった。

「自分を知る」というのは容易なことではない。僕の周りを見ても、深く自分を理解しているなと感じる人ほど、日々様々な視点を得ようとしているように見受けられる。ただ一つの正解に達するということはもしかしたらあり得ないのではないか、というのが、現時点での僕自身の前提になっている。

多様な見方を獲得するための単純な方法は、他人の見方を知る、ということにある。それはモノローグ(独り語り)ではなしえないことかもしれない。僕自身が先ほどの前提に立って探究しているのが、ダイアローグという方法だった。

自分自身の言語=象徴界が唯一であるという姿勢を一瞬でも崩すことができなければ、他者とのコミュニケーション(それは読書等をも含むかもしれない)の結末に待つのは同調か対立かの2通りしかない。ダイアローグに求められるのは、自分の用いる言語の範囲では語りえないものがあり、それを語りうる他者がいる(かもしれない)というスタンスにあるように思う。

自分と異なる考え方は「間違い」なのか、それともそれは単なる「違い」なのか。社会構成主義は、「個人主義的な自己」という概念の限界を指摘し、「関係性の中の自己(”私たちは、お互いによって作り上げられている”)」という新たな見方を提示している。モノローグという一方通行のコミュニケーションにとって代わる関係の在り方―「対話」の可能性が、ここでも強調されている。言うことよりも聞くこと、結論付けることよりも問うことの意義がここに詰まっているように思う。

自分がこれまで当たり前だと思っていたことが揺らぐその瞬間が、対話の糸口なのだと思う。その綻びを新たに紡ぎなおす言葉は、何も自分の力だけで生み出さなければいけないものでもない。

僕は秋田でダイアローグを大切にする場をつくりたい、と”ぼんやりと”思っていた。そして、先月末には、それを体現する機会に恵まれた。そのときの諸々は別の記事にまとめている。本記事は、そのワークショップの前後でそれこそ多様な他者(年上もいれば年下もいれば過去の偉人もいる)から学んだことの一つの結実として書かれたものだ。

僕自身、自分自身をどう満たせばいいのか、検討がついていない。しかし、この秋田に戻ってきてから、五城目という自由なフィールドで、少なくとも「自分が満たされないことはしない」という働き方を1年ちょっと続けてみたことで、ゆるやかにではあるもののその方向性が見えてきている。それは自分一人では気づけなかったことだし、自分が考えていることを実行し、そのフィードバックから学ぶという繰り返しの産物であるように思う。誰かの何気ない一言から新たな問いがもたらされる場面も多々あったし、ここまで付き合ってくれた人ならわかる通り、多くの本の影響を受けている。

なぜ、ダイアローグなのか。ダイアローグとは、何か。うまくまとめきれないが、こんな感じだろうか。

可変性のある自分として他者と関わる中で、自分自身の前提や価値観の存在に気づき、目の前で起きている生々しい現実やもやもやと抱えている無意識のイメージに接近するための新たな問いに出会うための方法

まだまだ「自由研究」は終わらなさそうだ。


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