「もったいない」をなくしたいのかもしれないという話

カテゴリ:自分事


以前から「人と人とのかかわり方のかみ合わせをよくしたい」というモチベーションが自分の中にあるって感じていたのだけれど、それって具体的にどんな感情に根差すものなのだろうか、ということを改めて考え直す場面があった。どうも、「もっと前向きな関わり方ができて、相乗効果が生まれる可能性があるのに、その人のモチベーションが生かされていない」と感じると、なんとなく萎えてしまうらしい。

「かみ合えばもっとうまくやれるはずなのに、もったいない

そう、「もったいない」と思ってしまう。「もったいない」を何とかできないものかなという思考が勝手に走る。落としどころを探そうとする。「その会社辞めてこういう会社探したらいいのに」とか。それを実行に移すどうかはまた別の話で、それはその状況と僕自身との距離感とか、僕自身が作用できそうかどうかという変数が加わる。

いつでも「もったいない」と思うわけではなくて、そもそも消極的に関わっていて不満ばかり言っている状態とか、そういう様子を見てもあまり心動かされない。前向きな気持ちや希望を持っていたのに、とか、関わり方や見方を変えれば今あるリソースでも良い変化を起こせそうなのに、みたいな感じ。「もっとよくなるかも」「まだ可能性はある」と思うから「もったいない」と思える。そもそものスタートからおかしいよね、と感じた時には、「もうやめちゃえば?」とか平気で言ってしまう場面もある。つまりそこに発展性を見出せないものを改善しようというモチベーションは、あんまりない。

人には向き・不向きがあるし、合う・合わないがあるという前提がある。だから合わない状態なら「合わせる」と「状況をそもそも変える」という選択肢があって、「合わせる」ことに意味を見いだせるかどうかは、ケースバイケース。どうしようもなく合わないよね、向いていないよね、という話と、かみ合わせが悪いよね、という話がある。後者なら、もしかしたらその状況の中でも工夫次第で何とかなるかも、という感じ。

 


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浅い話し合い、あるいは「対話っぽいもの」で留まらないために

カテゴリ:自分事


ワークショップやそれに準ずる会を企画・運営したり、一人の参加者として輪に加わったりする中で、深い対話というのは本当に難しいなということを毎度感じる。ちゃんとお金を払い、そういう場に出ていく必要を感じている。さしあたって、何によってやり取りが「浅い」状態で留まってしまうのかを考えるために、思い至るところをいくつか挙げてみた。

・チェックイン/チェックアウトの意義がいまいちわからない

導入の定番として「チェックイン/チェックアウト」というのがある。「ホテルに入るときのように」チェックインしましょう、という言い方を良くするのだけど、その語源がまずしっくり来ていない。「自分の今の気持ちや状態をシェアし、ただ受け止める」「準備できた人から発言する(順序を定めない)」というのがオーソドックスなチェックインと認識しているが、これが理想的に機能したとすれば、その目的はとても効果的である、というのは直感的によくわかる。即ち、本題に向けて気持ちをオープンにするとか、状態をシェアすることで相手の背景に配慮することができるとか。

しかし、「チェックインをしましょう」と言って指示したところで、率直に感情を表現できる人はそれほど多くない。オーダーを無視して長々としゃべる人もいる(ご年配に多い)。あるいは心ここにあらずの教科書的コメントで切り抜ける人もいる(男性に多い)。慣れている人はいい感じのお手本を示してくれるが、一般の人にこれを期待するわけにもいかない。

もちろん正解/不正解はないのだろうけど、「果たしてこんなことに時間をかける必要があるのか?」という疑問がつい湧いてしまう。「ああ、いいチェックイン/チェックアウトだった」と思えたことがほとんど記憶にない。あるいは、チェックインに対する期待値が高すぎるのだろうか? 「やらないとマイナスだがやってプラスになるわけでもない」くらいのものなのだろうか?

・対話的コミュニケーションに慣れていない人たちのこと

自分をさらけ出し、ときには自分の意見や考えを疑い、他の意見にただただ耳を傾け、その全体をとらえていこうとする。こう書くだけでも対話的コミュニケーションというのは非常に難易度が高く、僕自身も常にそうできるかは自信がない。対話を別に良しとしてこなかった人たちならばなおさら無理ゲーだと思う。

なのでメンバーが厳選されているときでもなければ基本的には僕はそこを諦める。対話が生まれなくても良いようにする。その分、内省の時間をとるかもしれない。考えたことはシェアしたければシェアするくらいのスタンスで。

こう書いたところで、この諦め自体がまた場に影響をもたらしているかもしれない、ということに思い至る。それは前述のとおり僕自身がそうしたワークショップ等の場で「対話」を経験したことはない、という認識があることに由来しているように思えてきた。

・「こうして/こうしないで」と言われてもできないものがある

ブレストして集約してアイデアまとめる、みたいなやり方だと、「否定はしないでね」とか言えば割と自制してくれる。「意見を否定する」という行為は良くないことというのはコンセンサス取れやすいので、普段は否定しまくっている人にも効果があるように思う。こういうケースは特に深くなくても良い。

逆に、対話的にやろうとしたときに、たとえば「相手の言いたいことを先取りしないでください」みたいな方向付けは、意義は理解してもらえても実際にそれをどう自制すればいいかわからないという事態に陥りそうである。

以前にも、対話を大切にしたワークショップにわざわざ参加した人たちが、ある相手の状況を決めつけてそれに意見し問題解決を図ろうとする様を見て、「自覚するってなんと難しいことなのか」と感じたことがある。

 

ここまでざーっと書いてみたけれど、結局、心のどこかで「対話的なコミュニケーションを生み出すのは無理」と認識しているのが問題の根源のような気がしてきた。もう少しひも解くと

・僕自身が他人に対して心を開く際に課題がある
・一見対話的な態度でない他人に対する信頼が薄い
・期待値が低い(から結果もそれに準じてしまう)

といったところだろうか。もっともっと内面も外面も溶けていくような時間を過ごすことで、また世界観が変わるような気もする。


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相手の「言語」を話すということ

カテゴリ:自分事


「変化の原理」を読んで印象に残っていたのが「相手の『言語』を話す」という表現だった。ブリーフセラピーの現場では、治療者はクライアントに具体的な指示を出す。しかし、その指示通りに動いてくれるかどうかは、そのクライアントに合わせて指示を出せるかどうかがポイントとなる。

教員が、学級崩壊の如く騒然とした教室で「先生の言うことを聞きなさい!」と大声で指示したところで、子どもたちがその指示に従わなさそうであることは想像に難くない。相手に指示をするということは、そのまま相手が指示通りに動くという結果を生み出すわけではもちろんない。

相手の「言語」を話すということ

相手の「言語」を話すということは、「話し手がどんなふうに世界を見ているのか丸ごと感じ理解しようとする」ためのアプローチの一つだと思う。「話し手を観察する」のではなく、「話し手の目から見える世界を見る」という試み。相手が意識するしないにかかわらず用いる言葉を大切に扱い、相手の話をそのままに受け取り、それを損なわなずに話す、という言い方がよいのかもしれない。

センスもあるのかもしれないが、自らの感受性を、相手の「言語」をきき、きき手の側もそれを用いるということに集中させるという意味では、かなり意識的な働きが強いのだろうと思う。僕自身、インタビューを幾つか実践してみると、出来不出来は置いておいても、そうして意識的にきこうとすれば、驚くほど消耗が激しいことを自覚する。

その意義

どうしてそんなことをわざわざしようとしているのか、を改めて考えてみた。僕が考えているメリットは例えば以下のようなものになる。

・話し手の「言語」を用いることが話し手の納得、「きき手はちゃんときいてくれている」という安心につながる。
・話し手が自分自身の「言語」を自覚し、これまで疑いもせず振り返ることもなかったこれまでの認識について深く考えるきっかけにつながる。
・話し手の言葉をきき手が理解した「つもり」になってしまうことを避け、謙虚な態度で話し手の言葉に耳を傾けることができるようになる。

これらの観点は「ひとのはなしを遮らず促すようにきく」ことを主要な関心としている。しかし、そこからさらに一歩踏み込んで「話し手の抱えている課題や悩み事を解決する」という段階になっても有効であると思っている。例えば、こんなふうに。

・話し手の文脈に無理のない形で介入(冒頭の言葉を用いるならば「指示」)することができる。
・話し手が「課題を解決できていない」状態を責めるのではなく、むしろそうした状態でありながら自分なりに課題に当たろうとする態度に目を向けることで、敬意をもって対応することができるようになる。

特に相談を受けるようなケースでは、相談をする側の方が立場が下になりやすい。そういうとき、敬意をもってきくことの重要性が増してくる。「どうせこんなことで悩んでるんでしょ」といった具合についついパターン化したくなるところをぐっと抑えないといけない。

その背景・人間観

というようなことを考えていると、なんとなく、ある一つの人間観のようなものが見えてきたのだった。単純に書くと、こうなる。

「ある人にとっては、その本人が最大の当事者である」

例えば「悩み事」にフォーカスしてみると、その最大の当事者であるということは、その「悩み事」について最も多くの情報量を有し、最も長い時間をかけて向き合い、最も試行錯誤(あるいは四苦八苦)している、ということ。その本人を差し置いて誰がその人の「悩み事」を解決できるのだろうか、というスタンス。

これは「解決に至れない本人に問題がある」という自己責任論につながる危うさがあるが、そういうつもりはない。相手の「言語」を用いながらコミュニケーションをとることが、相手は自分の認識をよりクリアに自覚する助けになるかもしれない。そうして真の問題が見えてくることで、本人が自らの力で解決できるかもしれない。この可能性を信じる、というニュアンスを強調したい。

人それぞれ世界をどう見ているのかは異なるという前提に立つことではじめて、きき手が自分の理解や考えを押し付けるのではなく、その当事者の言葉に耳を傾けることの意義に目を向けることができるのだと思う。


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