地域や社会に目を向けるよりもまず自分を満たすべきかもしれない

カテゴリ:自分事

自分を満たすために周囲を頼らない

僕自身もできているわけではないということは置いておいて。

やりたいことがわからない、と言うとき、その人は自分自身のどんなニーズを満足させれば良いのかがわかっていない、ということなのだと思う。一方、「地域のために〇〇をしたい」と言うときもまた、その源(ソース)となる自分自身が持っているニーズを考慮していないと感じられるケースが散見される。

もっと踏み込んで言いたいこともある。「人の気持ちや価値観を変えたい」と言うとき、大抵の場合そう言う本人からは「自分の正しさを示したい」という以上の動機を感じられない。そして、さらには、仮に正しさが示されたことで、その本人が満たされるのかと言えば、どうも本人の満たされるべきものと正しさを示すことでの承認欲求と本人がやることの間の接続がかみ合ってない、ということも。

逆のケースにも言及しよう。

「金儲けしたいんすよね」と言っている人が、儲かりそうな事業をばんばん手掛けてその通りやっているというとき、共感できるかどうかは置いておいて、やっていることと言っていることのずれはほとんど感じられない。健全だし、気持ち良い。むしろ、自分が儲けられるということを脇に置いて「地域のために」とか「win-win」とか言っちゃう方がうさんくさい。儲けたいなら儲けたいでいいじゃない、と思う。モテたい、でもいい。

自分のニーズに素直であり、そのニーズを満たすように動く。それが健康的な循環を生む。自分の欲することを満たすことができなければ、それを満たすことを周囲に依存することになる。だから、外に目が向いて、「地域社会に貢献したい」なんて言葉になる。貢献すること自体が悪いんじゃなくて、他の誰かのために貢献し、他の誰かによって自分を満たそうとするのがあんまり良くないんじゃないの、という話。「やらない善よりやる偽善」と言うけど、その”偽善”を自己満足・自己完結と捉えるならば、周囲を変に巻き込まない分、健全な匂いがする。

自分がエネルギーを発揮したいなら、まずはその受け手を見つけるべきなのだと思う。それを安易に他の誰かに設定すると、往々にしてエネルギーをうまく受け止めてもらえない事態が起こる(受け止めてもらえるように調整していないから)。結果、エネルギーは滞り、淀む。自分のエネルギーの戻り先として自分自身を設定すれば、エネルギーはシンプルに循環する。

ここまで書いて、西村さんが「仕事に人生をかけない」という話を紹介していたのを思い出した。それに近いような、遠いような。この点はまだ咀嚼できていない。

でも、エゴはダメでしょう? という反論への反論

そうは言っても、利己的になったら良くないでしょう? という人がいる。自分だけの利益のために他人に不利益を被らせるのは良くない、と。

そりゃあ、もちろん、良くない。しかし、その意味での”利己的”な振る舞いをする人は、単に自分を満たせていないのだと思う。だから、他人に迷惑をかけても自己利益の追求を止められない。自分がいつまでたっても満たされないから。

この文章を書きながら、僕の脳裏には「地域活性化あるある」な勘違い人種のことが浮かんでいる。「地域を良くしたい!」と言いながら、上から目線で「ああしたほうがいい、これはダメだ」と好き勝手な物言いをし、だんだんと地域の人も取り合わなくなると、「こんなに地域のことを思って頑張っているのに、なんでわかってくれないんだ!」と逆切れするという迷惑な人たち。僕の目には、この人種は先の”利己的”に振る舞う人と同類に見えている。

ちょうど、この本のP.190にも「利己」と「利他」に関する言及があった。幸福学では「利他」が幸せの極致ではあるが、そもそも「利己」と「利他」は意識(ego)を手放せば区別できるものではなくなるよね、という話。

「利己」と「利他」を区別するから、”「利己」は良くない―「利他」は良い”という二項対立になる。この構造から離れて考えるべきなのだと思う。

自分-社会の捉え方を変えてみる

僕が海士町にいたころ、生徒の将来の夢ややりたいことを一緒に考えるというときに、良くこの図の上側を用いて説明していた。「自分のやりたいことと社会が求めることの重なりの部分を模索しよう」と。

ところが、最近になって面白い話を聞いた。そもそも、自分だって、社会の一員だよね、と。ベン図を分けて描くことが多いけど、実は自分だって社会に内包されているよね、と。

この話は僕の中で強く印象に残っており、この記事を書く動機にもなっている。そうであるならば、自分自身を満たそうとすることが、すなわち、社会のニーズを満たすことであろう、と。

逆に、「利己」と「利他」を区別し、「利他」に走ろうとすれば、誰をも満たさない事業やサービスが生まれる。生まれるというか、誰も(本人すらも)求めていないので立ち上がらずに終わる、または早々に撤退する、という結末になるのだろうけど。

「地域SNS」なんていい例で、確かにそれが機能すれば地域内/地域間のコミュニケーションが促進され、キープレイヤーがつながり、よりインパクトが大きくなりそうというのはロジカルに想像できる。しかし、機能させるところに、人間社会のリアリティが立ちはだかる。利己/利他の区別は、このリアリティを見落とさせる働きがあるように感じられる。

こういうときに思い浮かべるのが「黒いお皿」の話だ。新商品開発に乗り出した食器メーカーが、主婦10数人を集めて、これまでにないお皿をつくるとしたらどんなものが欲しいか、というインタビューを実施した。そこで出た意見が「黒いお皿」だった。確かに、黒々とした食器と言うのは「これまでにない」。インタビューの主婦たちは「珍しいよね」「欲しいよね」と乗り気だった。しかし、実際に販売したところ、まったく売れなかったという。

どうやったら自分を満たせるのかを自覚している人は、実は少ない。他人の「あったらいいよね」は意外と信用ならない。「利己」はダメだけど、「利他」だけでもダメなのだ、たぶん。

それでも他者のニーズを満たす手段としてのデザイン思考

先ほどの図の下部に視線を戻そう。この図は、自分のニーズを満たすことが、社会の他の誰かのニーズを満たすことにつながる、ということを表している。それは利己/利他の区別を超えた次元の話なのだった。

では、自分でない他の誰かのニーズを満たすことは可能なのか? 

雑な議論になるが、そのための手段の一つがデザイン思考なのではないかと思っている。徹底的に他者の視線を獲得しようとする試み。素早くプロトタイプを繰り返し、頭の中の仮説を厳として存在する現実に向けて漸近的に近づけようとするプロセス。自分でない誰かのニーズをその本人以上に共感的に理解していくことによって、自分でない誰かのためのプロダクトを生み出す。

すでにあるニーズに対してさらに良いプロダクトで応える持続的なイノベーションは、絶滅はしないものの、既存のサービスで衣食住が十分に満たされている時代においてはどこかで限界にぶつかる。そういう意味でも、世界中の企業がデザイン思考に着目しているのは、当然のことなのかもしれない。

(こう書いていて気づいたのだが、自分のニーズに接近するにも、他人のニーズに接近するにも、結局他者の手が必要、と言えるのかもしれない。が、この議論については本文末尾で言及する)

自分を取り巻く言語の限界に挑む

ニーズを満たす、と簡単に書いたが、デザイン思考といった手法が”わざわざ”発明されたことからもわかるように、事はそう単純ではなかった。恐らく、その難しさは、僕たちが心の奥底でぼんやりと感じていること、無意識に抱いている前提や価値観が、日常の中で使われる”言語”で表現されがたいものとしてあることに起因するのかもしれない(普段の言葉で表現できるならば、それは意識化を免れない)。

ある人から拝借したこの本の3章で、南方熊楠が何に挑んでいたのかが考察されている。僕自身、ほとんど咀嚼できていないのだが、ここに何かしらの糸口があるように感じている。

紹介されていたのが、ラカンの「現実界」「想像界」「象徴界」という分類だ。

・現実界・・・人間の心の働きの外部にあるもの。「自然」。
・想像界・・・人間的な心を形成するもの。イメージによる思考。
・象徴界・・・想像界を一旦壊し、記号的な言葉の力を借りて主体を再構成したもの。「言語」。

この3者がそれぞれ輪としてお互いに絡み合うことでバランスを保っているとしたとき、どこか1つの輪がゆるめば、他の2者もつながりを保てずばらばらになってしまう、ということらしい。その具体例として、熊楠が頻繁に遭遇した「身体から頭部が離れる体験」が記述されている。

象徴界は言語の働きと密接に結びついていますが、その言語の活動の場所は大脳言語野です。したがって象徴界は頭部に宿っているという身体イメージが、ごく自然なものです。その頭部が身体から分離して、外からや上から身体を見下ろす体験をするのですから、あきらかに象徴界の組み込みに関わる「精神変態」と見ることができます。身体の全体的なイメージをつくりだしているのは、想像界という心のレジスターです。この想像界と象徴界の結びつきが弱まり、それが身体という現実界との分離を引き起こしています。

熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)

この話題を厳密に取り扱うには力不足に過ぎるが、熊楠の直面したこの分離は、象徴界=一般に流通する言語によって現実界や想像界を記述しきることができないという事態によって引き起こされたのだった。具体的には、熊楠は彼の業績として広く知られる「粘菌」の研究において、この分離に立ち向かわなければならなかった。というより、この本に従えば、否応なく直面するこの分離の意味するところと対峙し、現実界や想像界に真に対応する象徴界=言語を構築するプロセスとして「粘菌」の研究に着手した、という方が正しいのかもしれない。

結局何が言いたかったというと。

僕らは僕ら自身の言語の範囲に応じて、現実を記述することができる。逆に言えば、言語の記述できる範囲を超えて現実を把握することはできないということだ。実際、目の前に起こる現実がもたらす情報は、無意識の取捨選択によって認知されるに至るという(逆に自閉症スペクトラムの当事者の中には、取捨選択がなされないため、健常者が無視する余計な情報もすべて受け取り、情報過多になるという例もある)。先述した通り、無意識に抱くもの、ぼんやりとしたイメージは、言語化できないから「無意識」であり「ぼんやりと」しているのだ。

こうした見方に立つと、自分が満たされたいニーズを把握することは、自分が持っている言語の限界への挑戦でもある。また、その挑戦は終わりを知らないし、漸近的な接近でしかないのだろう。先に紹介した「無意識と「対話」する方法 – あなたと世界の難問を解決に導く「ダイアローグ」のすごい力 – (ワニプラス)」では、「古層へ潜る」という表現がなされていたが、勝手に近しいものと捉えている。

言語の揺らぎと社会構成主義

では、いかに象徴界=言語を、現実界や想像界にフィットさせることができるのか。”言語”を狭義に捉えるならば、「英語やスペイン語を学べばいいってこと?」となる。確かに、それぞれの言語には何らかの前提があるはずで、それを学ぶことで世の中の見方が変わるということはありえるかもしれない。もう少し広義にとらえるならば、恐らく「社会構造主義」が有効になるのではないか。少し長い引用をしてみる。

マーティンは、教室や実験室で使用される生物学のテキストの中で、女性の身体がどのように記述されているかを分析しました。分析の結果、マーティンは、女性の身体が、子孫を残すことを第一の目的とする一種の「工場」として表現されているという結論に達しました。そして、月経や更年期は、「生産性がない」ため、無駄な時期であるかのように扱われていると考えました。一般的な生物学の教科書の中で、月経について記述するために用いられている用語を、ここに書き出してみることにしましょう(強調はガーゲンによる)。

「プロゲステロン(黄体ホルモン)とエストロゲンが減少し、非常に分厚くなった子宮内膜を維持していたホルモンの働きが損なわれる」、血管の「収縮」によって「酸素や栄養物の供給が減少する」、そして「内膜が維持できなくなり、内膜全体がはがれ落ち、月経が起こる」、「ホルモン刺激が欠如した結果、子宮内膜の細胞は壊死する」。別のある教科書では、月経を「子宮が赤ちゃん不在のために泣いている」ようなものだと表現しています。

あなたへの社会構成主義

著者は、生物学という自然科学のテキストにおいてもある種のイデオロギーが含まれており、必ずしも中立とは限らない表現がなされている場合があること、また、ここが重要なのだが、それはまた別様に特徴づけることも可能という点を、社会構成主義の視点から指摘している。

僕らが当たり前に使う言語には、すでに何らかの前提やイデオロギーが組み込まれている。それによって、同じ”現実”を見たはずの人たちが結果として異なる解釈に至るということも珍しくない(「群盲象を評す」等)。「粘菌」という、これまでの言語に矛盾を突きつけうる「自然」(=現実)を手がかりに熊楠が挑んだのは、西洋流の自然科学が孕む限界(=ロゴスの法則に従い、因果関係で記述する作法)だった。

象徴界=言語の側から自然や漠然としたイメージをとらえようとすると、それはいつまでたっても一様な姿しか見せてくれない。しかし、現実界や想像界の方に目を向けてみることではじめて、これまで用いてきた言語の不自由さに気づくことになる。この試行は3者のバランスを揺るがすリスクに直結するが、この揺らぎを乗り越え象徴界の新たな形式をもたらそうとするチャレンジによって、言語が拡張される(あるいはこれまでと異なる構造を持った言語に出会う)ということになる。そうしたチャレンジの先にあるのが優れた芸術(アート)であり、熊楠が見出そうとした新たな学問の地平であった。

終わりに―方法としてのダイアローグ

途中から思いがけず抽象的な飛躍を遂げてしまったが、最後にまとめに取り掛かってみる。

この記事で取り扱ったのは、「まずは自分を満たそうよ」という提案である。前半では概念的な説明を、デザイン思考以降ではその手がかりとしての様々な理論や方法をそれぞれ提供したつもりだった。

「自分を知る」というのは容易なことではない。僕の周りを見ても、深く自分を理解しているなと感じる人ほど、日々様々な視点を得ようとしているように見受けられる。ただ一つの正解に達するということはもしかしたらあり得ないのではないか、というのが、現時点での僕自身の前提になっている。

多様な見方を獲得するための単純な方法は、他人の見方を知る、ということにある。それはモノローグ(独り語り)ではなしえないことかもしれない。僕自身が先ほどの前提に立って探究しているのが、ダイアローグという方法だった。

自分自身の言語=象徴界が唯一であるという姿勢を一瞬でも崩すことができなければ、他者とのコミュニケーション(それは読書等をも含むかもしれない)の結末に待つのは同調か対立かの2通りしかない。ダイアローグに求められるのは、自分の用いる言語の範囲では語りえないものがあり、それを語りうる他者がいる(かもしれない)というスタンスにあるように思う。

自分と異なる考え方は「間違い」なのか、それともそれは単なる「違い」なのか。社会構成主義は、「個人主義的な自己」という概念の限界を指摘し、「関係性の中の自己(”私たちは、お互いによって作り上げられている”)」という新たな見方を提示している。モノローグという一方通行のコミュニケーションにとって代わる関係の在り方―「対話」の可能性が、ここでも強調されている。言うことよりも聞くこと、結論付けることよりも問うことの意義がここに詰まっているように思う。

自分がこれまで当たり前だと思っていたことが揺らぐその瞬間が、対話の糸口なのだと思う。その綻びを新たに紡ぎなおす言葉は、何も自分の力だけで生み出さなければいけないものでもない。

僕は秋田でダイアローグを大切にする場をつくりたい、と”ぼんやりと”思っていた。そして、先月末には、それを体現する機会に恵まれた。そのときの諸々は別の記事にまとめている。本記事は、そのワークショップの前後でそれこそ多様な他者(年上もいれば年下もいれば過去の偉人もいる)から学んだことの一つの結実として書かれたものだ。

僕自身、自分自身をどう満たせばいいのか、検討がついていない。しかし、この秋田に戻ってきてから、五城目という自由なフィールドで、少なくとも「自分が満たされないことはしない」という働き方を1年ちょっと続けてみたことで、ゆるやかにではあるもののその方向性が見えてきている。それは自分一人では気づけなかったことだし、自分が考えていることを実行し、そのフィードバックから学ぶという繰り返しの産物であるように思う。誰かの何気ない一言から新たな問いがもたらされる場面も多々あったし、ここまで付き合ってくれた人ならわかる通り、多くの本の影響を受けている。

なぜ、ダイアローグなのか。ダイアローグとは、何か。うまくまとめきれないが、こんな感じだろうか。

可変性のある自分として他者と関わる中で、自分自身の前提や価値観の存在に気づき、目の前で起きている生々しい現実やもやもやと抱えている無意識のイメージに接近するための新たな問いに出会うための方法

まだまだ「自由研究」は終わらなさそうだ。

関連する記事

大学生と社会人の交流を目的とした1泊2日のワークショップの内容について

カテゴリ:自分事

※2017/12/04 2日目のワールド・カフェの構成案を追加
※2018/02/12 OSTもどきは「マグネットテーブル」と呼ぶことを知ったので一部訂正

秋田では珍しいダイアローグに重きを置いた場をつくる

11月のとある土日で、秋田県内大学が主催する1泊2日のワークショップがあった。ざっくりとした目的は、大学生と地域の社会人の交流を図るというもの。学生と社会人はだいたい半々くらい、運営も含めて総勢40名弱。そのうち通しで参加したのが30名弱。会場は秋田市内の宿泊もできる青少年交流施設的なあれ。

当日のプログラム設計からファシリテーションまで、ほとんど任せてもらえるというありがたくもちょっとした勇気のいる機会に恵まれ、なんとか1泊2日を参加者と共に走り切ることができたな、というのが個人的な感想。ほっとした部分と、自分自身の世界観や仮説に対して手ごたえのある反応があった、という部分と。

僕が重視したのは「ダイアローグ(対話)」だ。秋田に戻る前から薄々感じていたが、「まちづくりのアイデアを出そう」といったワークショップはちらほらあるものの、人と人とが普段と異なるかかわりの中で、対話を通じて内省や自己変革を深めていくような場は秋田にはほとんどなかった。

ダイアローグの文化のない秋田でダイアローグに重きを置いた場を設ける。それが立場の異なる人間が集まり交わる時間をできる限り充実させることになるのではないか。そんな仮説を持ちながら迎えた当日だった。

1泊2日の趣旨および内容

質の良いダイアローグは、質の良い関係性から生まれる。2日間を通じて強調したのが「傾聴」だった。この言葉自体や手法にこだわったというより、「ひとのはなしをきく」ということの重要さにフォーカスしてほしい、という意図で、この言葉を再三繰り返すことになった。

また、学生向けの告知チラシには「みんな、どうやってやりたいことを見つけるんですか?」という言葉を載せた。安易とも思いつつ、それが学生共通の興味関心であろうこと、学生よりも長く社会人と共に取り扱う内容として適切であろうことを想定して。

その上で1泊2日で用意したのは以下のプログラムだった(ところどころ休憩をとっている)

[1日目 13:00~21:30]
○テーマ:「傾聴」をベースとした場の中で聞き合い語り合う中で、自分を振り返るとともに、「傾聴」の意義を感じる
(1)主催者あいさつ(全体)
(2)なぜワークショップなのか+グランドルール+2日間で取り扱う傾聴について(全体)
(3)アイスブレイク(全体)
・なんでもバスケット(フルーツバスケットの何でもあり版)
・ピクチャーコミュニケーション(正式名称不明、お題を絵で描いて当てる)
(4)グループ分け&自己紹介(グループ)
(5)グループルールの検討(グループ)
(6)傾聴ワーク+グループルール再検討(グループ)
(7)人生グラフのシェア(グループ)
(8)Open Space Technology(もどき)マグネットテーブル(全体)

[2日目 8:00~12:00]
○テーマ:1日目で得た様々な視点を助けに、理想の未来に近づくための次なる小さな一歩を自分なりに描く。
(1)チェックイン(全体)
(2)ワールド・カフェ(全体)
・テーマ:「みんな、どうやってやりたいこと/在りたい姿を見出すんですか?」
・ラウンド1:自分にとって、「やりたいこと」「在りたい姿」を見出す意義って何だろう?
・ラウンド2:自分にとって、「やりたいこと」「在りたい姿」を見出すために、どんな手立てがしっくりくるのだあろう?
・ラウンド3:自分にどんなチャンスや手助けが訪れたら、「やりたいこと」「在りたい姿」を見出すための”一歩”を踏み出すことになるのだろう?
(3)未来グラフの作成(個人)
(4)未来グラフの共有をしながらチェックアウト(全体)

ワークの数はそこまで多くない。それぞれの内容については当日の投影資料をアップしているので、そちらをご参照頂きたい(導入部や僕以外の運営スタッフの自己紹介のスライドは省いた)。

171125-26ワークショップ当日投影資料 from Yushi Akimoto

1泊2日全体のピークは「人生グラフ」にある。ここまでに安心して自己開示をしあえる関係性をつくりあげた上で、日常生活の中ではなかなか触れないことを人生グラフを通じてシェアし、かつ暖かく受け入れてもらえる、という状況をつくる。それが何よりも、「他者と関わる」ことの意義を実感することにつながると思ったからだ。

その後は「OST(Open Space Technology)マグネットテーブル」と「ワールド・カフェ」を用意していたが、これはポジティブなシナリオであり、「人生グラフ」までに参加者があまり盛り上がらないようだったら、別のワークに差し替える必要があると思っていた(が、今考えれば、その時点で盛り上がっていない=1泊2日全体が失敗となっていただろう)。

なお、2日目のワールド・カフェについては、3ラウンドそれぞれ微妙に異なるテーマで検討する、というチャレンジングな試みをやってみた。ここは僕自身の”欲”が出たところで、この場、この関係性であるならば、ワールド・カフェを有意義な時間とすることができるだろう、と思ったから。具体的には、下記のような構成を検討した(初日の深夜に)。

設計上の工夫や機能したこと、好評だったポイント

プログラムを設計する中で意識としたのは以下の点だ。

・ワークショップや対話型のコミュニケーションに慣れていない参加者が大半を占めることが予想されるため、アイスブレイクや構成的なワークで徐々に慣らしていく。
→スタートから3時間でようやく本題の「人生グラフ」に入る構成に。
・学生と社会人の比率が1対1程度のため、パワーバランスが社会人側に傾かないようにする。
→「傾聴」ワークやグループルール設定で”けん制”。

このような点が機能したのか、「人生グラフ」の時間は非常に深い経験のシェアがなされていたように感じている。正直、想定以上の場になった(自分でも何が起きたのかよく分かっていない)。ある参加者からは、「人生グラフの前にグループルールを考えるのが良かった。あれでみんな、お互いに話をしっかり聞き合おうという雰囲気ができたと思う」という声があった。なるほど。

あとは、「人生グラフ」のメッセージカードは好評だった。僕自身も大好きなひとときなのだが、A6サイズにびっしりとメッセージを書いてくれる人も割と多く、「メッセージカード読んでいたら思わず泣きそうになった」という声も。

「人生グラフ」までのところがうまくいけば、その場に集まる他の人たちへの関心がきっと湧くはずで、そうなれば自ずと話したくなる空気のまま対話の時間に入れる、そう思っていた。実際、学生からは「もっと話したかった」という感想がちらほらあったらしい。確かに、今思うと、もう少し自由におしゃべりする時間や機会を設ければよかったかもしれない。一方で、物足りないまま1泊2日を終えれば、今後も他者と関わろうとする意識に向くだろうし、それはそれでよかったのかなとも思う。

反省点・改善すべき点

逆に、もっとこうした方が良かったな、と思う部分は、挙げればキリがないくらいにある。個人としての反省に焦点を当て、ざっと箇条書きに並べると、

・(個人的には)肝心の「傾聴」ワーク全体のつくりこみが甘く、導入部で全体のコンテキストの中でなぜ僕がその話をしているのかがわかりづらいものになってしまっていた。実際、寝ている人も何人かいた。
・夕食後21時半までワークをするのは負担が大きかった。むしろワークを20時まで伸ばし、そのあとは夕食~自由に交流、という流れの方がよかったかも。
・ワールド・カフェは3ラウンド実施したがやはり時間が足りなかった。また、初日の冒頭から、このテーマを取り扱っていくんだ、ということの強調が足りなかったようにも思う。ワールド・カフェ自体は盛り上がったと思うが、全体の中のつながりが弱かったという印象。
・参加した社会人の社交性に助けられた部分は多い。人選も運営の非常に重要なポイントではあるものの、たとえばワークショップに不慣れな学生のみの場だったらどうなっていたか……。

総じて、事前の準備が甘かった部分が僕の内面に不安として反映され、進行上のリスク(曖昧なしゃべり方、文脈の欠如)につながっていた、ということだと思う。

参考図書

設計や運営に当たり参考にした書籍を以下に並べておく。

この本で紹介されている「プログラムデザインマンダラ」は実に有効なツールだった。しかしそれ以上に、中野先生の世界観に支えられたな、と思う。2、3度読み返した本。

ジュンク堂書店で出会った本。高校生や大学生等の入学時オリエンテーションで行われてきたワークショップの実践が詰まっている。特筆すべきは「原則強制参加のため意欲が低かったり、対人不安を抱えている人がいることを前提とした場づくり」のノウハウが詰まっているところ。学校の授業の中等でグループワークを取り入れたい人は読んどいた方が良いと思う。グループワークをやろうなんて考える人は、グループワークをしたくない人の気持ちがきっとわからないはずだから。

ダイアローグというよりはアイデアだしのノウハウに偏ってはいるが、アイデアソン全体を通した設計や進行のコツが書かれているのがGood。僕が目指した対話型のワークショップとはどういうものかを浮き彫りにする参照点とさせていただいた。

2日目のワールドカフェのテーマは、1日目の様子を踏まえてその夜中に一気に作ったものだった。そのときに参考にしたのが本書だったが、直感を信じて当日もバッグの中に忍び込ませて本当に良かったと思う。ワールド・カフェをやってみたい人はまず読んどけって感じ。

アイスブレイクに使えるゲームがいろいろ紹介されている本。結局この本で書かれているワークは使わなかったが、どのような点に注意すべきかの観点が得られた。(実は)アイスブレイクがあまり好きじゃない僕にはいろいろ参考になった一冊。

最後に

今後も秋田を中心にこうした対話の場をつくっていきたいと考えている。といっても、当然ながら僕一人では”場”にはならない。やってみたいというところにははせ参じたいと思っているので、どうぞお気軽にご連絡を。

また、この長文の記事でも書き切れていない部分は多く、「これってどういうこと?」「具体的にどんなことをしたの?」と気になる方は、お気軽にお問い合わせください(例えばTwitterアカウントはこちら)。

関連する記事

「難しいけど○○したい」って言われないと応援できない

カテゴリ:世の中の事

「○○したいけど、難しい」と「難しいけど、○○したい」

地域で何か新しいことにチャレンジしたり、縁もゆかりもないところに移住したり、普段と異なるコミュニティに飛び込んでみたり。

日常からの「ジャンプ」が必要な場面には「覚悟」が伴うものというのが通説で、「ジャンプ」するための心構えやノウハウを、安心するための材料として求めたくなることもある。

「ジャンプ」を妨げるのは、未知の領域に足を踏み入れ、「うまくいくかどうかわからない」ところに足を踏み入れる恐れ。「○○したいけど、難しい」。そう言って、なかなか踏み切れない場面が良くある。

そんなときに大事なのは、「難しいけど、○○したい」と言えるかどうかなんだな、ということに最近改めて気づいた。もともとは、現在神山町に住んでいる西村佳哲さんが「『○○だけど、難しい』と『難しいけど、○○したい』は似ているようで全然違うよね」と紹介してくれたものだった。それを聞いたときは、なるほどなあ、というくらいだったけれど、五城目に移住してから、「難しいけど、○○したい」の持つパワーを再認識したのだった。

「○○したいけど、難しい」は、「難しい」に重心がある。もしかしたら、「○○したい」が「難しい」に負けてしまっているのかもしれない。逆に、「難しいけど、○○したい」は、したい気持ちが勝っているのだと思う。

「難しいけど、○○したい」と言われたら、周りは「こういうサポートができるよ」「ああいう人がいるから紹介するよ」「一緒に○○してみない?」と声をかけることができる。「○○したい」の確かさがあるから、周りも信頼してその気持ちを実現に向けて応援することができる。

「難しい」という気持ちを目にして、応援しよう、という気持ちにはなかなかなれない。本人が本当にそれを望んでいるかに確信が持てないから。仮に、心からの善意で応援しようとしても、下手をすればそれが「難しい」という気持ちを否定し、あたかも説得するかのような働きかけになってしまうのではないかとも思う。

「○○したいけど、難しい」というとき、その「難しさ」に焦点があたりがちだけど、たぶん目を向けるべきは「○○したい」の方。「それ、本当にしたいんだっけ?」という素朴な問いかけをしたほうが健全のように思う。そうでないと、「難しさ」を提供する環境の方をついつい呪いたくなるから。あるいは、「あの人たちは特別だけど、私にはできない」みたいな不健康な気持ちになる。もしかしたら単に「したい」という気持ちのベクトルが一致していない、というだけかもしれないのに。

五城目で新しいチャレンジが起こるとき、「ああ、この人はいろいろあっても最後までやるよな」と思えるから、素直に周りが応援しているという状況があるように思う。「難しいけど、○○したい」って言えるようになりたいし、言えないところで無理をしないようにしたい。

関連する記事