子どもと遊ぶと自分の記憶が疑わしいものになるという話

カテゴリ:自分事


無邪気な甥っ子を見てもやもやする

2016年から2017に至る年末年始は、実家でこれまでないくらいに何もせずに過ごした。そんな時間の使い方ができたのも甥っ子(長男の長男・4才)の存在が大きいかもしれない。子どもというのは退屈をかみつぶすことができない生き物のようで、次々と時間を消化するネタを見つけては周りにいる大人を巻き込んで遊ぼうとする。不都合があればルールを変え、あるいは遊びの内容を変え、数時間前に投げ捨てたと思ったおもちゃを再び引っ張り出して(散らかしていたものを拾い上げて)遊びだす。

無限に続くのではないかと思われるようなルーティンを繰り返すタフネス。しかし、その張本人は単なる反復を生きているつもりはないようにも見える。彼(甥っ子)が次の遊びに移行する際には「あ、そうだ!」というひらめきの声がセットになる。ある遊びをしているときに、すでに次の遊びを考えているような節すらある(結果的に、とっても飽きっぽく見える)。

あえて踏み込んでいえば、彼は常に自らの創造性を発揮する瞬間のために生きている、そう感じられるシーンがたびたびある。何か具体的な成果物を産みだしたり、特定のルーティンやスキルを身に付けたりすることを目指すわけではない。「あ、そうだ!」というひらめきの一瞬こそが目的であって、それ以外のプロセスはひらめきを生み出すための余白、助走、あるいはいっそおまけ。そんなふうに思えてしまう。

そんな無邪気な姿を見ている内に、自分の中で違和感のようなものが浮かんでくる。これまで自分が根拠もなくつかもうとしてきた”オトナ”としての感覚、あるいは消し去ろうとしてきた”コドモ”の無邪気さと、目の前で起きている彼の無秩序なルーティンとのコンフリクト。「僕が子どもの頃もこんなに傍若無人な振る舞いをしていたのだろうか(いや、そうであってほしくない)」という願いにも似た気持ち。そんなふうな思いが充満してくるうちに、「いやいや、やはり僕はこうであったはずがない、そんな記憶はない」と居直ろうとしている自分に気づく。

さて、なぜ僕はそこまで”コドモ”であったことに抵抗を示すのだろうか。

そうして考えを巡らせているうちに、ふと、不安になる。僕自身、”コドモ”としての無鉄砲な感性を否定するために、自分自身の子ども時代の記憶を都合のいいようにつくりかえてきたのではないだろうか、と。

あるいは。薄らぎつつも未だ残る子ども時代の記憶の多くが、まだ幼く社会性に乏しい(と今の僕が認識する)自分自身が犯した失敗の歴史に紐づいていることに目を向けてみると、そうした”コドモ”である自分自身を否定したがっている現状も無理もないように思えてくる。

なぜ、僕は子どもであったころの自分を否定的に見ているのだろう。それは、ある時点から当然のこととして受け止めていたのだけれど、どうして僕はそれを当然と見なさなければならなかったのだろう。

子ども時代を否定することで今がある、のかもしれない

30年生きてきた今、人生を振り返ってみると、僕は年を取るごとに成長し、真人間にほんの少しずつであっても近づけている、という流れの中に自分がいるという認識を持っている。過去、確かに代え難く楽しい瞬間はあった。けれどもその時代にまた戻りたいと思うことは一切ない。それは、過去の自分が今の自分より劣っていると考えているからだ。劣っている時代に戻りたいとは思わない。今の自分の知覚を保持したまま戻れるとしても、なかなかしんどいな、と思う。そういう人生観というか、一つのストーリーのようなものを自分自身に課している部分がある、のかもしれない。

明日の自分が今日の自分よりも優れていなければならないとしたら。その認識を維持するための手っ取り早い方法として、過去を意識的に劣ったものとして解釈するという手がある。今の自分が嫌になるようなことがあっても、「いやいや、昔に比べれば、トータルではまだましになっているはずだ」と。

もちろん、それは悪いことばかりではないし、むしろ良い方向に働いたシーンも多々あっただろう。もっとまともな自分になりたかったから、本を読み、考えを深め、スキルを身に付けようと試み、目の前の仕事に誠実であろうとしたはずだ。大きく観れば右肩上がりの(と自己認識している)人生を歩んでこれたのも、過去の否定が原動力となっていたことは受け入れざるを得ない。

しかし。この先に、たとえば「満足」とか「充足」といった感情があり得るのだろうか、とも思う。過去を否定する先にある「満足」というのは、もしかしたら過去をも肯定できる境地ということかもしれず、そうなると、どこかで矛盾が生じる。あるいは、矛盾を乗り越えるほどの手ごたえを伴う「満足」でなければならないかもしれない。そういう類の大きな感情をもたらしてくれた出来事は過去を振り返っても思い当たるものがなく、今後どういう形で訪れる可能性があるかも今の時点では見当がつかない。

ここまで書いてみて、ふと、自分の周囲で、ここまで過去を否定的に見ている人って、そういえばあまり知らないな、と思った。みんな、どんなふうな人生観を持っているのだろう。あるいは、「学生時代が一番自由で楽しかった」と語る人は、目の前の困難や苦痛をどうやって乗り越えているのだろう。

世の中わからないことだらけで、ただ少なくともわからないままで今日も、そして明日も生きていかねばならない(そう簡単に死にたくないし)というスタンスを自分は取るのだな、とは思う。


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改めて、ひとのはなしをきくときに大切になってきそうなこと

カテゴリ:自分事


今日までにざっと7件のインタビューを行ってきたのだけれど、「悪くないぞ」と思える部分もあれば、「ここに難しさがあるのか」と次なる課題に出くわす場面もある。今後もインタビューを重ね、あるいはそうしたささやかな実践で得たものを共有するために、ところどころ振り返りを挟んでおくべきと思い、簡単にまとめてみる。

そもそも僕がインタビューと呼んでいるものについて

そもそもインタビューという言い方をしてはいるけれど、僕の行為は一般的な「インタビュー」とは異なるものと認識している。まず、事前にインタビュイーについての情報を調べきるということはしないし(なにせ学生だから事前の情報がさほどない)、予め用意する質問は冒頭の一つだけ。写真を見せてもらってそこから話を進めるというものだ。今のところはインタビュー当日に「はじめまして」のケースはないが、録音を開始する前にざっと雑談をして、なんとなく(本当になんとなく)温まってきたかなと思ったらインタビューに入る。冒頭に軽い自己紹介を入れてもらうが、そうしたプロフィールに触れるか触れないかも、話の流れに依る。結論めいたものが出る保障もなく、こちらからもなにかまとめにかかるような質問を出すわけでもなく、なんとなく(これも本当になんとなく)「この辺で引き上げるべきかな」というところでインタビューを終える。録音を止め、感想を聞くこともあるが、大抵ここではやり取りのリフレクションになって、「録音止めなきゃよかった」と思うケースも割とある。

インタビューの際に気を付けていること

思いつく順に箇条書きで(気を付けているからといって100%できているわけではない)。

・言葉を言葉の通り受け止める。話し手がその単語を選んだことを尊重する(それに意味があると考える)。話し手の発言を自分の思い込みでなるべく判断しない。反射的に「ああ、こういうことね」となりそうなところをぐっとこらえる。
・話し手の話や言葉のおもむく方へついていく。話をさえぎらない。自分の興味に誘導するように質問しない。
・話し手が発した言葉を大事にする。自分の言葉に置き換えず、話し手の語彙をそのまま使う(内容をより鮮明にするために意識的に変えるときもある)。
・話し手の言葉をそのまま繰り返す。その言葉に込められている意味を反芻し、丁寧に確認する(同じ単語を話し手と聞き手が全く同様の意味で使っているとは限らない)。
・驚きを持って接する。話し手の言葉から”推測”しようとせず、価値観や解釈の仕方を勝手にジャッジしない。
・時折、聞き手として受け取ったものを開示する。これまでの話をどう受け取ったのか、その上でどういうことを改めて聞いてみたいかを伝える(話の流れが落ち着いたと感じるとこうすることが多い。正直、苦し紛れのときも)。このとき、「なんで〇〇なんだろうな、と不思議に思っています」のように、語尾に「?」をつけない場合が多い(当社比)が、これは西村佳哲さんのききかたを真似ている。

ざっとこんなところだろうか。インタビュー中は脳内メモリがほぼフル稼働しているが、その半分近くは「自制」に充てているという認識でいる。つまり、自分のメンタルモデル(思い込みや前提、価値判断)が顔を出しては手放し、を繰り返す工程は、今のところかなり労力をかけている。常にフラットであることで、自然と相手の話を、好奇心と驚きに満ちたものとしてきくことができるように思う。「ああ、どうせこんな話でしょう」と思ってしまうと、ひとのはなしをきくのがつまらなくなる。面白く聞くこと、その人の話の質感もそのままに受け止めることで、話し手の言葉が促されるのではないか、と思いながら、こうしたスタイルをとっている。

改めて、これからの課題や可能性について

こちらも箇条書きで。

・体力的にしんどい。集中力の維持が結構大変。
→まずは慣れるしかないように思う。もうちょっと実践を重ねてから考える。あとはコンディションを整えて臨む。
・2、3のトピックを聞いたところで、ふと、どこかを中心としてその周りをぐるぐると回っている印象が浮かぶときがある。
→特にネガティブな流れになった場合に多い。聞き手も勇気をもってぐっと踏み込まねばならないときがある、という構えをつくっておくべき。とはいえ、いたずらに踏み込むのもいけない。
・自分自身のメンタルモデルをたびたび見つめなおす必要がある
→「こういうときにこう捉えやすい」という自分の思考の癖がわかれば、手放すのが楽になるが、それが自覚できていない範囲では誘導的になってしまっているのではないか、という漠然とした不安がある。もちろん、インタビューはその話し手とその聞き手の二者によって成り立つ行為であり、だからこそその二人の相互作用があって当然とは思いつつ、バランスをとっていく。
・最初の8分くらいは長く感じる。30分過ぎたころで「そろそろかな」と感じつつ、そこから10分くらいで収束する感じがある。
→これは反省というより単なる印象。最初が長い。でもどこかに糸口が見えてくる。それまでは粘り強くついていき、促していくが、そこからは割とすーっと流れるようにインタビューが進行するような気がする。なんとなく収束に向かうときには、これまでの話の断片が回収されたりあるいはされなかったり。この中にはメタ的な振り返りも交ってくる。
・メンタルモデルが強い人へのインタビューは大変、かも。
→「あ、そうか、こんな風に考えていたのか」といった、話し手の発見に立ち会う瞬間というのは素朴にうれしい。けれども、それを受け止められるのはある程度メンタルモデルが相対化できている、あるいは「人はそれぞれ考え方が異なる」というスタンスをあらかじめ持っているから、なのかもしれない。「~ねばならない」という表現や、「ふつうは〇〇ですよね?」みたいな「フツー論法」(と勝手に命名している)が頻発する人たちが、それを受け入れられるかはまだ未開拓な部分。それこそ僕自身も聞き手として慎ましく踏み込んでいかねばならないケースなのかもしれない。

僕なりにもインタビューのプロセスを言語化していきたいなと思っている。そういう意味でも、一回一回が勝負。引き続き「恐れ多くも」と思いながらインタビューを実践していきたい。


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「U理論」の15章までのメモ―”答え合わせ”のために

カテゴリ:読書の記録


いよいよ着手した「U理論」。そもそも600ページ近い分厚さなのでぼちぼち読み進めている。1ヶ月ほど経って15章まで。ちょうど15章がひとつのまとめになっていたので、一旦ここで区切って自分なりの捉え方をまとめ、その後を読み進める際の比較材料としたい。とにかく用語が多く咀嚼しきれていないものも多々あるので、一つ一つ細かく取り上げるようなことはしない。また、自分の理解のためのメモなので、本書では使われていない表現も用いている。

社会システムや構造はある状況(コンテクスト)の中にいる人々によって具現化され、一方その状況(コンテクスト)は人々の場に対する意識を決める。そしてどのようにそれが行われるかを決定するのは、意識を生み出している源(ソース)である。

U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術

ここから、「源(ソース)」が最も根本的なものということをざっくりと読み取った。そして、その「源(ソース)」は4つの異なる領域構造を持っている。

◆私の中の私[I-in-me]……自身が組織化した境界の内側にある中心から行動する(領域1)
◆それの中の私[I-in-it]……自身が組織化した境界の周縁から行動する(領域2)
◆あなたの中の私[I-in-you]……自身が組織化した境界の向こう側から行動する(領域3)
◆今の中の私[I-in-now]……自身が組織化した境界を越えて出現している領域から行動する(領域4)

U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術

領域(フィールド)1~領域4のどこに位置する源(ソース)から行動するかによって、それぞれ異なる形で社会に何らかの影響やパターンがもたらされる。本書で示される「会話の現実創造」の例に当てはめて考えると分かりやすい。

領域1においては、会話は「ダウンローディング」で行われる。ある事象に対して反射的に、あるいは習慣的に「いつものやり方」で反応する。

領域2は「討論(ディベート)」。討論(ディベート)は異なる意見が複数あって成り立つ。領域1においては「異なる意見」の差し込まれる余地がないのだから、それに比べて視野は広がっている。が、あくまで「あれかこれか」という対立的なやり取りに収まってしまう。

領域3は「対話(ダイアローグ)」。討論(ディベート)と異なるのは、「あれもこれも」という視点だ。その場にいる誰かの意見だけが正しいのではなく、それぞれがそれぞれの視点で事象を眺めていることに気づく。悪者探しをするのではなく、自分自身がそのシステムの中に組み込まれ、そして影響していることを自覚する。

そして、「プレゼンシング」の段階が待っているのが領域4だ。プレゼンシングというのは「presence(存在)」と「sence(感じ取る)」からなる筆者の造語であり、ここは僕自身もどういう状態なのかぐたいてきなイメージがない(が、そういう段階がある、ということはなんとなくわかる気がする)。この段階に到達すると、そこにいる人たちが集合的なつながりを感じ、「根本的なところからアイデンティティや自己を転換させる」。なんとなく、これまで「ダウンローディング」のときに用いられた習慣的に形成してきた”自分”という境界を崩す、ということなのかなと理解している。

この領域1~4のうち本丸はもちろん4だ。あらゆる事象が絡まり複雑化を増す現代の課題は、ほとんど過去から学ぶことで対応できるものではない。そうではなく、これから「出現する未来」に耳を傾けることが必要というのが本書の主張だ。ただ、一方でまずは3,4を目指すべき、というメッセージが本書の中に埋め込まれている要にも受け止めている(逆に1,2は批判的に書かれているように感じる)。この4領域の区別と、それらをどう行き来するかという方法がこの「U理論」の肝であるはずで、だからあえて自分なりの例えを用いた説明を試みたい。

領域1:「あれはあれ」
自分が眼鏡をかけていることを自覚できていない。自分と他人の眼鏡が同一だと思っている。あるいは、眼鏡の違いを恐れてみな同じ眼鏡であるかのように振る舞おうとする。

領域2:「あれかこれか」
異なる種類の眼鏡があることは認識しているが、どの眼鏡がベターかを争っている。

領域3:「あれもこれも」
眼鏡はある程度付け替え可能であることに気づき、眼鏡を取り替えてお互いの見え方を体感し始める。

領域4:「あれにもこれにも」
そこにいる人たちの眼鏡からそれぞれ見えるものを重ね合わせたり組み合わせたり結び付けたりすることで、これまで見えなかった(見ようとしなかった)ものが見える。

U理論を読み進めて気づいたのだけれど、僕の頭の中のイメージでは「領域3」までが到達すべき点だった。細々と勉強しているアクションラーニングも、少なくとも「領域3」まではマストであることを示してくれている。アクションラーニングの中で出てくる”良い”問いはたいてい「領域3」に結びついており、質問者の前提を押し付けることをしない。むしろ、問題の当事者こそがその問題のへの回に最も近いはず、というリスペクトがある方が割とすんなりいく。それは、当事者自身も質問者も”眼鏡”をかけている、というわきまえからしか生まれないようなやり取りではないかと思う。

 

もうちょっとまとめようと思ったけど、やはりU理論難しい。あとは続きを読み進めて自分の理解を確かめてみることにする。


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