「コミュニティ 安全と自由の戦場」前編:自己責任社会の到来

カテゴリ:読書の記録

今年の1月末に購入したものの途中で挫折して放置していた本書。
久々に手にとって見たら、独特の文体は相変わらずなものの、読み応えを感じながら読破できました。

「コミュニティ」という言葉は至るところで耳にしますが、他の多くのものがそうであるように、その背景には「コミュニティ」自身が崩壊しつつある、ということと、「コミュニティ」の効用が求められている、という現代社会の二つの側面が潜んでいます。
本書は、「グローバル化」―資本主義の浸透―と社会の変化を振り返りつつ、現代社会で表面化する幾つかの問題について「コミュニティ」を中心に据えながらその構造にメスを入れる、というような構成になっています。

ここで告白しますが、(恥ずかしながら)僕は再読するまで「グローバル化」が本書のキーワードであることをはっきり認識していませんでした。
そのためもあって、読後、本書に描かれている「グローバル化」とコミュニティの変遷の関係を反芻するにつけ、じわじわと感動が湧き上がってきています。

「コミュニティ」。ぼんやりと、方向性も特に定めずに、自分なりに探究していたテーマ。
僕がこれまでのブログで触れてきた要素が、本書にはちりばめられています。

この記事のまとめ

驚くほど長いので、先にまとめを書いておきます。
ちなみにこれで前編です…。

・コミュニティは、安全と等価であるが、代償として「自由」を支払わなければならない。
・人間は、安全と自由の両立を求めるが、実際にはそれは両立し得ない。

・近代は「個別化」という現象を呼び、人々に自由への欲求を喚起させたが、実際に自由のメリットを享受できるのは限られたエリートたちだった。
・安全なコミュニティが個別化の風潮に解体され、社会的な統制がつかなくなった(と一方的に考えられた)「大衆」は、労働者として監視、管理の元に置かれるようになった。
・権力者が大衆を積極的に監視、管理するコストは増大していった。

・資本主義が一層浸透するにつれ、経営者はダウンサイジングやアウトソーシングを取り入れ始める。変化は激しくなり、不確実性が社会を席巻するようになった。
・社会が確かなものを提供できなくなり、大衆は個々別々に不安と対峙し、自分の身の回りを守るために競争する必要が生じた。
・権利上の機会は一見平等に保障されているものの、結果については格差が一層強化されるようになっている。

コミュニティとは何か

(本書を読んでなお、コミュニティを定義することには気が引けてしまいますが、)著者の立場を端的に示す一文が、終章の冒頭に記されています。

わたしたちはコミュニティがないと、安心して暮らすことができない。

コミュニティ 安全と自由の戦場

コミュニティは「安全」と等価です。そして、無条件で得られるものではありません。

「コミュニティの一員である」という特権には、支払うべき対価がある。コミュニティが夢想にとどまっている限りは、対価は害にならないが、目につくこともない。対価は、自由という通貨で支払われる。この通貨は、「自律性」「自己主張の権利」「自然にふるまう権利」など、種々の表現で呼ぶことができる。どのような選択をするにせよ、得るものもあれば、失うものもある。コミュニティを失うことは、安心を失うことを意味する。コミュニティを得ることは―たまたまそんなことがあればだが―即座に自由を失うことを意味する。

コミュニティ 安全と自由の戦場

「安全」と「自由」を取り巻くこのジレンマは、多くの現代人が抱えているものです。
多くの人は「安全」と「自由」の両立を”夢想”し、努力を重ね、そしてほとんどの場合、それは夢想のままで終わっています。

コミュニティを脅かしたもの―近代主義

コミュニティが「安全」を提供するもの、と認識されるということは、逆に言えばそれが客体化されるような歴史的背景がそこにある、ということでもあります。
人間がコミュニティの当事者でなくなり、コミュニティが求められる対象となる(認識されるものとなる)までの変遷を、著者は近代以前、近代、現代と時間軸に沿ってまとめています。

コミュニティは、家庭内手工業から工場制手工業へ徐々に移行してきた、あるいは貿易が盛んになってきたという時代において危機に直面しました。
「自由」を獲得し、謳歌するためには、直感的に理解できるように、十分な資産が必要となります。
徐々に富を持つ人が現れるようになった結果、条件をクリアできる一部の人たちから、自由への憧れが芽生え始めます。
(もしかしたら、そのモチベーションには「コミュニティからの撤退」も含まれていたかもしれませんね。)
著者は、ジャン=ポール=フィトゥーシとピエール=ロザンヴァロンの研究からの引用を紹介しています。

近代的個人主義は、人々の解放の動因であり、自律性を高め、権利の担い手を作り出すが、同時に不安の増大の要因でもあって、だれもが未来に責任をもち、人生に意味を与えなければならなくなる。人生の意味は、もはや外側の何かがあらかじめ与えてくれはしないのである。

コミュニティ 安全と自由の戦場

この表現は、現代を生きる私たちにも、ストンと腹に落ちてくるものではないでしょうか。
「近代性のトレードマークと言うにふさわしい個別化」という潮流が、安心と自由が取引される土壌を生み出したのです。
こうしてコミュニティの束縛は、資本主義の浸透と、自由への憧れという時代の流れとともに、解放の道を歩むこととなりました。

しかし、先に述べたように、「自由」を獲得したとしても、その効用を最大限享受できるものは、一部の人間です。
そうでない人々―自由という大海で不安に溺れる人―を、フロイトは「大衆」という言葉で表現し、「怠惰で知能が低い」とばっさり切り伏せてしまいます。
こうして大きく二分された勢力にそれぞれ呼応する形で、近代社会は二つの顔を持つことになります。

ピコ・デッラ・ミランドラの仲間たち(※引用者注:著者の用いるレトリックで、富裕者や有力者を指す)にとっては、文明とは「自分を自らの望み通りのものにする」明るく澄んだ呼びかけであり、この自己主張の自由に制限を設けることは、おそらくは文化的秩序のための避けがたい、しかし悲しむべき義務であり、支払う価値のある代価に該当した。「怠惰で情念に支配されている大衆」にとって、文明は何よりもまず、かれらがもっているとされる不健全な傾向を抑制することを意味した。そのような傾向は、もし解放されたならば、規律正しい共同生活を破壊するものとされたのである。近代社会のこの二つの部分に属する人々にとって、提供される自己主張の機会と要求される規律のミックスの割合は、まったく異なっていた。
(※下線は引用者による)

コミュニティ 安全と自由の戦場

「コミュニティ」の慣習や決まりといった「古いルーティン」から解放された怠惰な大衆を、「産業革命」と呼ばれたムーブメントの中で「工場」に引っ張り出して「仕事」に縛り付けるためには、「新しいルーティン」が必要だったのです。
そうして、常に大衆を監視し、管理し、規律を強要する「パノプティコン(一望監視施設)的」な権力が形成されていったのでした。

一言で言えば、大転換の時代は、関与 engagement の時代であった。

コミュニティ 安全と自由の戦場

前世紀的な近代の特徴として、支配者と被支配者は共に依存する関係であったことが挙げられます。
労働者が働かねば、工場主はその富を増大させることができないわけですが、そのための方法として、権力を持つ人々は積極的な「関与」、つまり管理を強める方針をとったのが、産業革命初期の時代でした。

しかし、このパノプティコン型の権力は、コストがかかり、しかも膨れ上がる一方、という欠陥を持っていました。
(部下がきちんと仕事をしているか疑えば疑うほど、マネージャーの時間が管理にばかり費やされてしまうように)

「リキッド・モダニティ」と撤退、そしてエリートの離脱

積極的に被支配者に関与し、規制を強化する、といった状況は昨今ではそこまで見られません。
むしろ、「規制緩和」という言葉の方が、馴染みがあるのではないでしょうか。

今日巷で話題の「規制緩和」を、権力者のだれもが戦略的原則として称賛し、実際に採用している。「規制緩和」は、権力者が「規制」されること―選択の自由を制限されたり、移動の自由を抑制されたりすること―を望まないという理由で、人気がある。しかしまた(おそらく第一義的には)かれらが他者を規制する関心をもうなくしていることが、その理由である。

コミュニティ 安全と自由の戦場

「大いなる関与 engagement」の時代から、「大いなる撤退 disengagement」の時代へ。
キーワードは、 変化、スピード、不関与、フレキシビリティ、ダウンサイジング、アウトソーシング。
ここには富のさらなる拡大の意図と同時に、強固な関与を前提とした「固定的近代」への反省―コストの増大―が見られます。

この時代において、権力者の支配の基盤は、「恒常的な不安定性」にシフトします。

わたしたちはみな不安に襲われる。流動的で予測できない世界、すなわち規制緩和が進み、弾力的で、競争的で、特有の不確実性をもつ世界に、わたしたちはみなすっかり浸っているのだが、それぞれ個々別々に己の不安にさいなまれている。つまりは私的な問題として、個々の失敗の結果や、自身の臨機応変の才あるいは機敏さへ挑みかかるものとして、不安に見舞われるのである
(※下線は引用者による)

コミュニティ 安全と自由の戦場

不安を個人がそれぞれの形で抱えざるを得ないこの社会を、ウルリッヒ・ベックは「リスク社会」と呼び、著者は「リキッド・モダニティ」と表現しました。
その不安に対峙するために、「大衆」と称された人々は自己に投資し、競争し、自分で自分の身の回りの安全を確保するように動かざるを得ません。
ここにおいて権力による積極的な統制は不要となります。

一方、エリートたちの振る舞いはどのように変化したのでしょうか。彼らの言い分はこうです。

他の人々がいまのかれらのようにふるまいさえすれば、かれらのようにならないはずはない、と思っている。

コミュニティ 安全と自由の戦場

経営者や成功者の著書が氾濫し、「自己啓発」が世を謳歌する現代日本をずばり言い当てているような指摘がなされています。
「私はこうやって成功した」という”伝記”は、「だからあなたも成功できる」と鼓舞するかのように囁きかけてきますが、その裏では「つまり、あなたが失敗するのは、あなたのせいだ」という冷ややかな視線を浴びせられるかのように感じる人もいるでしょう。
あたかも「自分たちの背後の跳ね橋を吊り上げておくことに」するかのように。
そして彼らグローバルズは、自らを縛る関与を我慢してまでコミュニティの恩恵を預かる必要は、もはやなくなるのです。

自己啓発がはこびる風潮は、「権利上の個人(de jure)」と「事実上の個人(de fact0)」のギャップが激しい現代だからこそ起きうることです。
成功者が言うように、現代社会はあたかも「誰もが成功できる」状況にあります。
例えば、機会均等という言葉は、この状況を端的に表しています。
しかし、実際問題として、多くの人が成功にありつけるわけではない、という現状も多くの人が実感していることでしょう。
というよりむしろ、資本主義は競争を煽り、限られた成功者が自身の自由を維持するために格差を一層助長したり、再生産するという循環を作り出している、と言っていいかもしれません。

このギャップを、例えば苅谷剛彦は「自己実現アノミー」と呼びました。
キャリア教育の名の下に「社会人基礎力」なるものを身につけ、就職実績を出すことを被教育者に求められていますが、しかし実際にはすべての人間がその要求を叶えられるわけではありません。
社会に要求を突きつけられながら、しかし一方でその要求を実現するためのレールは提供されず、自分で何とかしなければいけないのです。

終わりに―前編を書き上げてみて

特に、「不確実な近代(リキッド・モダニティ)」の記述において、著者は、「自己責任社会」と指摘される日本の現状を的確に表現しているように思えます。
個人的に、「コミュニティ」や「自己責任」という言葉は僕がばらばらにしか考えることのできなかったテーマであり、本書を読んだことで一つの視点を得たことは有益でした。

こうまとめてみると、まるで「当たり前のこと」のようにも思えてしまいますが、僕にとってはだからこそ説明しがたい類のものであったように思います。
「当たり前」のこと、経験的に馴染んでしまったものを客体化し、議論の俎上に載せるというのは、実は大変骨の折れる作業です。

前編では、本書の記述に沿って主に時間軸でコミュニティやそれを取り巻く社会の変遷を追ってみました。
後編では、さらに現代の問題がコミュニティという切り口でいかに語られるかをまとめて行きたいと思います。

※あからさまにおかしいところはぜひご指摘いただけると喜びます。

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「介護保険は老いを守るか」から見る日本の介護事情

カテゴリ:読書の記録

精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本」が個人的にヒットだったため、その流れで日本の介護事情や地域医療について調べたくなり、購入。

ネットで介護業界の問題についてざっと調べたところでは、介護の職場で働く人の待遇の悪さによる人材不足がメイントピックのようでした。
低待遇を引き起こす原因として指摘されていたのが、介護報酬。
提供されたサービスに応じて介護報酬が事業所に入るのですが、その報酬内で事業運営をしなければならず、また黒字を出すと介護報酬が減ぜられる、ということだそうです。

※参考:介護・福祉職の給与はなぜ上がらないのか? [介護・福祉業界で働く・転職する] All About

2000年4月に始まった介護保険制度。
欧州を中心に介護や精神医療を在宅にシフトしていく動きがあるようですが、果たして日本はどうなっているのか。
社会保障費支出の割合が低い(らしい)日本で提供されるサービスは、どれくらいの手厚さを担保できているのか。
日本の介護にかかる諸制度の実態について(介護保険制度がいつ始まったのかすら知らなかったくらい)全くの門外漢だった僕は、まずは手始めに介護保険とその改正の軌跡が総じてまとめられていそうな本書から情報を仕入れることにしました。

いきなり、まとめ

本書は「社会保障審議会・介護給付費分科委員」として「報酬改定審議」に関わった著者によって世に出されました。
読む限り、著者は「在宅介護」を強く支持しており、利用者側の立場から介護保険制度についてコメントをしています。
印象としては、介護保険の功績は認めつつも、利用者視点から見てまだまだ足りない部分、あるいは改悪されてしまった部分を中心に批判と提言を重ねている感じ。
あたかも「介護保険制度はやばい」と思ってしまうような、そんな著者の勢いについては多少引いた目で見たいところです。

そんな著者の主張は、あとがきの直前にまとめて記されています。
さらにそれをざっくりまとめると、以下のような内容になります。

一.生活を守る視点で制度の運用を

・同居者の有無に関わらず、公平な在宅介護を。
・介護保険は軽度要介護者の重度化防止こそが大事。
・機械的な運用ではなく、生活者に寄り添う運用を。

※介護保険は「自立生活を幅広く支援するもの」という前提がここにあります。

二.「施設介護から在宅介護へ」の流れを実現させる

・「老老介護」「家族の介護疲れ」「日中独居」の人たちにもホームヘルプサービスを。
・生活援助は重要なサービスであることを認識すべき。
・在宅生活を守るという観点から、サービス内容を拡大すべき。

※できる限り家族のいる/愛着のある我が家で暮らしたいとは誰しも思うもの。
介護保険制度は利用者の思いの実現を支援するべきだ、ということです。 
著者は、施設介護に比べ在宅介護は手薄だということも指摘しています。

三.介護保険制度をシンプルに

・わかりにくい利用料の算出方法を改め、利用者でも費用を算出できるようにすべき。
・実情に合わない利用限度額を改善せよ。
・介護認定を妥当なものに。

※現行の介護保険は、利用者からすればわかりづらいため納得しづらく、事業者側からすれば複雑で手間や負担がかかるものになっており、著者はその改善を求めています。

四.介護人材への手厚い処遇を

・特に都市圏で顕著な介護事業所の経営難を改善せよ。
・介護の職場で働く人の賃金と人員配置基準の見直しが必要だ。 
・透明性のある事業運営、雇用管理を。

※記事冒頭でも触れましたが、介護業界の人材不足は深刻です。待遇改善は避けて通れない課題です。

五.制度には絶対的な信頼性と安心を。

・制度が揺るぎ、利用者に負担を強いることのないよう、財源確保を。
・介護予防の財源と方法を再検討し、個々人の健康維持への意識的努力を求める。
・あらゆるステークホルダーの意見を反映した介護保険制度を。

※コムスンの不祥事や財源問題に端を発し、必ずしも現状や要望を反映しきれていない制度変更が、介護関係者を振り回しました。制度の安定性、役割、そして有効性についてはさらなる改善が必要です。

介護はどうあるべきか?

先に紹介したのは主に介護保険の課題でしたが、では介護保険のそもそもの目的とは何だったのでしょうか。
著者が「介護保険創設時、市民たちの胸を打った言葉」として、以下の項目を挙げています。

・介護の社会化(介護の社会連帯)
・高齢期の自立支援(次の世代に迷惑をかけない日常生活)
・自己決定権(自分が欲しいサービスを自分で決める。利用者本位)
・選択の権利(自分の判断で介護サービスを選ぶ権利を持つ)
・救貧対策である措置制度から普遍的な社会保険制度へ
・家族を介護地獄から解放する(介護は専門家に、愛は家族に)

介護保険は老いを守るか (岩波新書)

僕自身も一部ピンと来ていない部分がありますが、それは「介護保険以前」についてよく知らない、というところが大きいでしょう。
本書内ではちらほら触れているので、詳しくはそちらをご参照ください。

さて、個人的に気になったのは「高齢期の自立支援」という言葉。
括弧内には「日常生活」という言葉が見受けられます。
自立的に日常生活を送るサポートをすることは、介護保険の目的の一つと考えて良いでしょう。

「日常生活」とは、なんでしょうか。
構成要素としては、食事、睡眠、会話、入浴、掃除、排泄、散歩、買い物、通院…などが挙げられると思います。
その日常生活を支える環境面を考えてみると、住居、共に暮らす人、生活する地域、生活の中で関わる人、交通手段、周辺の施設…などが関係してくるでしょう。

自立的に、という言葉には、「高齢者が自分の手で」というニュアンスとともに、「周囲に依存しない」という意味合いも含まれているのではないでしょうか。

この二つの条件を満たすために、「介護保険制度」、そして介護の仕事に携わる人がどう支援できるか。
この観点から、今の介護の現状を見ると、どのような違和感を見出せるか

この辺、興味ありですね。

イタリアの精神医療と絡めて

欠陥を持つことが不可避である人間社会において、すべての人が生活を営める状況をつくりだす。
これこそが「」という言葉のベースにあるのではないでしょうか。
そのためには、弱者は保護し、管理し、隔離する=社会から切り離すのではなく、共に地域で生活する=社会の一員として包摂するという観点が非常に重要である、そう考えます。

「精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本」から見る福祉社会の姿

先日、こんなことを書きました。
僕が先ほど「日常生活」という言葉に反応した経緯は、ここにあります。

「老い」は誰の元にも訪れるものであり、精神的な病と同様(と書くと怒られそうですが)、「社会」という枠組みの中でどうしてもハンディキャップになってしまう類のものです。
一方、「施設介護」は(精神病院に比べれば程度は低いでしょうが)高齢者と家族や地域、自立的な生活とをどうしても切り離してしまいます。
そうではなく、地域で「老い」と共存した日常生活を営みたい、という高齢者の意思を尊重し、社会的包摂を達成するには、「在宅介護」の範囲をもっと広げることが重要になってきます。
(実際、「在宅」を希望する高齢者は大変多いそうですよ。)
(もちろん、必ずしも高齢者に最適化されているわけではない地域での暮らしを継続するのは難しい場合もあるので、施設が全くの悪というわけではないです。)

幸い、著書もその立場だったため、ある意味では本書は読みやすかったと思います。

(ついでに、著者が「在宅介護」の重要性を、北欧諸国なんかと比較せず(ex.デンマークはすごい!日本は遅れている!)、日本の利用者や介護の職場で働く人の声を中心に論じていたことには好感が持てました)

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「宣伝会議」主催の「Jコンテスト」に投稿してみた

カテゴリ:自分事

Facebookに流れてきたのでやってみた。

“Jコンテストは、宣伝会議の主催する地域活性アイデアコンテストです。Twitterのアカウントさえあれば誰でも参加可能。あなたの出身地をちょっとよくするアイデアを140文字以内で投稿してください。”

Jコンテスト 地域活性アイデア募集

あんまり浸透していないみたいですが、ぱっとアイデアを思いついたので、とりあえず投稿してみました。

秋田県は質の高い農家民宿がたくさん。家族経営の温かさが魅力。だからこそ農家民宿を単なる観光資源とで終わらせるのではなく、農家のおっちゃん、おばちゃんに家族円満の秘訣、夫婦のあり方、農と暮らす魅力を学ぶことを前面に押し出すのもいいんじゃないかな。先達に学ぶことは多いはず!

kamiokaさんのアイデア|Jコンテスト 地域活性アイデア募集

これ、以前に「海士で大学生の研修をコーディネートしながら思ったこと」で書いたことと関連しています。
海士町を見れば分かるとおり、地域が研修の場として活用される可能性は、十分にあるはずです。

ただただ観光にきてもらうだけじゃなく、地域の人から学ぶ中で持続的な関係性を築ける、ということは海士町がモデルとして示していること。
豊富な資源と魅力的な人がたくさんいる秋田でも、できないわけないじゃん!と、そういうことです。

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