わげものが、変わる。~WE LOVE AKITA

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関連する記事

都道府県別・「デキちゃった結婚」の割合と県民所得

カテゴリ:世の中の事


2週間前くらいの記事だけれど(2011年4月11日現在の話)。

【4人に1人はできちゃった婚】全国「デキ婚ランキング」発表! | Menjoy! メンジョイ

“結婚期間が妊娠期間より短い出生=できちゃった婚の割合の全国平均は25.3%”だそうな。

<都道府県別 デキ婚ランキング

1位 沖 縄 38.2%
2位 佐 賀 33.3%
3位 青 森 32.4%
4位 熊 本 32.0%
5位 福 島 31.2%
6位 長 崎 30.5%
7位 秋 田 30.1%
8位 宮 崎 29.6%
9位 山 形 29.2%
9位 岩 手 29.2%
11位 茨 城 29.0%
12位 高 知 28.2%
12位 福 岡 28.2%
12位 鹿児島 28.2%
15位 大 分 28.1%
16位 宮 城 27.8%
17位 鳥 取 27.4%
18位 島 根 27.2%
18位 山 梨 27.2%
20位 福 井 26.9%
21位 群 馬 26.6%
22位 新 潟 26.5%
23位 愛 媛 26.3%
24位 北海道 26.0%
24位 和歌山 26.0%
26位 石 川 25.8%
27位 栃 木 25.6%
28位 岡 山 25.4%
28位 徳 島 25.4%
28位 三 重 25.4%
31位 長 野 25.1%
32位 静 岡 25.0%
33位 山 口 24.6%
34位 大 阪 24.3%
35位 東 京 24.2%
36位 岐 阜 24.1%
37位 埼 玉 24.0%
38位 千 葉 23.9%
39位 広 島 23.5%
40位 富 山 23.4%
41位 京 都 23.1%
42位 奈 良 23.0%
42位 香 川 23.0%
44位 兵 庫 22.9%
45位 神奈川 22.7%
46位 愛 知 22.2%
47位 滋 賀 21.6%

【4人に1人はできちゃった婚】全国「デキ婚ランキング」発表! | Menjoy! メンジョイ

滋賀の「デキ婚率」が最も低い、というのでぴんときた。
滋賀県は、たしか一人当たりの県民所得が意外と(失礼)高かったはず。 というわけで調べてみた。

取り急ぎ2007年のデータから。

都道府県名  デキ婚率順位  県民所得順位
沖縄  1  47
佐賀  2  33
青森  3  38
熊本  4  41
福島  5  18
長崎  6  44
秋田  7  36
宮崎  8  45
山形  9  34
岩手  9  40
茨城  11  12
高知  12  46
福岡  12  26
鹿児島 12  43
大分  15  31
宮城  16  32
鳥取  17  42
島根  18  37
山梨  18  25
福井  20  20
群馬  21  17
新潟  22  27
愛媛  23  35
北海道 24  39
和歌山 24  30
石川  26  16
栃木  27  8
岡山  28  21
徳島  28 23
三重  28  5
長野  31  22
静岡  32  3
山口  33  14
大阪  34  7
東京  35  1
岐阜  36  24
埼玉  37  15
千葉  38  11
広島  39  10
富山  40  9
京都  41  13
奈良  42  28
香川  42  29
兵庫  44 19
神奈川 45  4
愛知  46  2
滋賀  47  6

図録▽1人あたり県民所得ランキングと地域間所得格差の推移

デキ婚率と県民所得

見づらいのと、2010年度と2007年度のデータを比べているのがいけてないが。
ざっくり言えそうなことは、県民所得が低いほどデキ婚率が高い、ということ。
逆に言うと、「できちゃった」というイベントに頼らない計画的な結婚が少ない、ということになる。
計画的な人たちほど、結婚のハードルをきちんと見積もることができる。
しかし、そのハードルが高すぎて、断念している人たちが増えている。 そんな風に僕には見える。

参考:秋田の婚姻率が低いのはなぜか―結婚しない/できないの根本

デキ婚は増えているのか

というわけで一応比べてみた。

平成 婚姻件数 デキ婚数
7  557 125 
8  563 125
9  559 126
10 571 136
11 565 141
12 569 150
13 559 154
14 555 155
15 531 143
16 522 139
17 497 132
18 507 137
19 503 133
20 500 131
21 494 125

平成22年度「出生に関する統計」の概況 – 厚生労働省 (単位は千人)

デキ婚数は、ある程度総婚姻件数と同じように動いているようにも見える。
つまり、割合としてはそこまで大きく変わっていない。
ところが、平成7年と平成21年を比較すると、デキ婚による嫡出第一子出産数は同程度なのに、 嫡出第一子出生数全体としては減少している、という状況になっている。
デキ婚が増えている、というより、デキ婚じゃない結婚が減っている、という言い方が正しい。

その原因についても「秋田の婚姻率が低いのはなぜか―結婚しない/できないの根本」で触れている。


関連する記事

大量生産/大量消費される価値観と若者の不安

カテゴリ:世の中の事


この記事を読んでから、ちょくちょく考えていたこと。

うまく表現できないのですが(この数日、そのうまい表現を探っているのですが、いまだに見つかりません)、今回の震災で失われたのは、何も人の命や物理的な財産だけでなく、これまで僕らが当たり前だと感じていた価値観、考え方そのものではないかと感じています。 そうであれば、これまで同様の使い古しの価値観によって「上皮だけの愚にもつかない」復興を目指すのではなく、「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければ」本当の復興はあり得ないのではないか、という気がするのです。 そのためにも僕らはいま、安易に身近なものにしがみつくことなく、堕ちなくてはいけないのではないでしょうか?

堕落論/坂口安吾:DESIGN IT! w/LOVE

あの震災直後から、Twitterの中で”良しとされる価値観”があれこれと変わる様を見てきたように思います。
そのせわしない変化は、「堕ちる」ことを恐れる僕ら自身の必死さの表れかもしれません。

堕落する/しない

「堕落する」とは、どういうことでしょうか。
僕は、これまでの価値観やこれまで自分が積み上げてきた考え方が揺さぶられ、壊された後で、 過去の瓦礫や現在から調達した資材を用いて新たな価値観という足場を構築する作業ではないかと考えます(構築の作業までは含まないかもしれませんが)。
一方「堕落しない」とは、これまでの価値観という足場が壊された後で、 堕ちないようにすぐさま別の”既存の”価値観に飛び移る行為に似ています(マリオが、ひとたび乗ると落ちてしまう飛び飛びの足場を次々とジャンプしていくようなイメージ)。
これらの表現は矮小化されたものかもしれませんが、恐れずこのまま進めます。

Twitterなんか見てると感じることだけど、価値観とかマジョリティが即座に変わる中で、自身の変化の中に自分なりの連続性を保つことは難しいし、辛いことだと思う。その作業を怠るなというのが「堕落論 http://amzn.to/eXbUbc」に書いてあることじゃないか。未読だけど。
@kamioka
Yushi Akimoto

「堕落する」ことは、難しい。というか辛い。
これまでの価値観という足場がなくなる不安に耐え、 資材を調達し、新しい足場を構築するまで堕ち続ける恐怖に耐えなければいけません。
これらの不安、恐怖を抑え、たった一人で構築作業に勤しまねばなりません。

Twitterの怖さ

震災直後からのTwitterを巡る「多数派」の移り変わりの目まぐるしさといったら。
あまり一般的ではなかった公式RTの奨励運動や「不謹慎」、「自粛」を巡る言説。
3/23の夕方ごろには「検出」がバズっていたが、震災直後ではありえなかった光景でした。

一連の移り変わりに、Twitterの伝播力が寄与していることはたぶん間違いありません。
「いい意見」はあっという間にRTされ、震災中のツイートはある程度自治的に制限がされていました。
安易に正義感ぶる人たちが湧いてきたのにはうんざりすることもありましたが(だったら普段からそういう発言しろよと率直に思います)。

価値観や言説の移り変わりのメカニズム自体にはあまり興味はありません。
しかし、僕を含め多くの人がTwitterの大きな流れの中で自分のポジションを適宜調整していたように思います。
一方、その裏側で、誰もがこの震災によって何らかの精神的な揺さぶりを被っています。
実際の震度以上に激しい揺れにより、多くの人が一旦足場を壊されてしまったのではないでしょうか。

これまでの価値観を瞬時に破壊された僕らに新しい足場を提供してくれたのが、Twitterでした。
Twitterの言説の移り変わりは、新しい足場に次々飛び移る僕らの姿を想起させます。
僕らは、ソーシャルウェブが張り巡らす糸のおかげで「堕落しない」ことを選択できた、ということです。
TwitterやFacebookに感謝し、日本への祈りに新たな時代の到来を感じた人も少なくないかもしれません。

それこそがTwitterの怖さではないか、と最近思うようになりました。

「不謹慎」とか「自粛」とか各自が言いたい放題なTLに少し幻滅したところで、 僕は地震に関連する情報をTwitterで集めることを一旦やめました。
そろそろ、自分のスタンスを確認する頃合いではないか、と感じたから。

“価値観”が大量生産・大量消費される時代

先日、2週間の短期インターンで島を訪れていた6名の学生が実習を終え、島を離れました。
彼らのうち何人かは、「もやもやしている」と言い残したのが印象的です。

それは、研修が失敗だった、ということではもちろんありません。
彼らも特に後悔しているというわけではないのです。そこに気付きがあったからこそでしょう。

島に来た学生さんとの対話の中で、彼らが既存の価値観に囚われ、「なぜそれを選んだのか」を言語化できていないように感じたし、本人たちもそう口にしていた。今、若者はそういう時代に生きているのだと思う。僕自身もそう。
@kamioka
Yushi Akimoto

彼らはたぶん自分たちの足場が不連続であることに直面したんじゃないでしょうか。
島の人たちは、純粋な好奇心から「なんで海士に来たの?」と彼らに質問します。
海士町で受けた刺激、そこに生きる多種多様な人たちの多種多様な価値観に触れ、 徐々に揺さぶられた彼らの足場に対し、「なんで?」という言葉が追い討ちを掛けていきます。

“○○がしたい”って簡単に言っちゃいけないんですね。

あるインターン生は、こんなことを言っていました。
興味を持つことと、実際にそれに(特に仕事として)取り組むことの隔たりに気付いたのかもしれません。
その落差を埋めるのは自分自身であって、飛び飛びに存在する既成の価値観はその助けにはならないのです。
「将来の夢」「やりたいこと」がそんなインスタントなものであるとは、やっぱり思えません。

価値観は、連続性や複雑性なんかを固定した結果でしか存在しないと考えてみたら。価値観に共感できるということと、自分なりに価値観をつむぐこととの違いを考えないといけない。優れたデザインを生むことと、それを利用することとの間に、大きな隔たりがあるように。
@kamioka
Yushi Akimoto

デザインがそうであるように、価値観は「固定」することで生まれます。
時間の流れ、連続性、それが生み出されるまでに関わった大小さまざまな因子を削ぎ落として。

僕らはそのプロセスでなく、結果としての価値観と常に対峙することになります。
そのこと自体は、決して悪ではないでしょう。
僕らは優れたデザインの結果としてのiPhoneを用いています。
それだけで僕らは一定の効用を得られているのですから。

しかしiPhoneから何を学び、iPhoneをどれだけ使いこなすかは、一人一人に委ねられています。
優れたデザインですら大量に生産され、大量に消費されているのが現状です。
インターネットをはじめ情報の流通網が十分すぎるほど整備されたこの時代において、 価値観も大量生産される一方、受け取る側が消費することで精一杯になっているのではないでしょうか。

「価値観を消費する」から「価値観を使いこなす」へ

iPhoneを消費することと使いこなすこととの違いとはなんでしょうか。
iPhoneは持つだけで効果を発揮するものではないのは周知のとおりです。
ソーシャルメディアの活用、 デバイスを問わない仕事環境、スケジュール管理やメモの取り方へのこだわり。
iPhoneは、生活の中にiPhoneがはまる”隙間”があってはじめて恩恵に預かれるものです。
その”隙間”はたぶんあるものではなくて、見つけるもの。

使いこなす人はiPhoneの機能をよく知っているし、iPhoneの理念を理解しています。
それがどのようなシーンで使えるのか、どのようなものと代替できるのかを深く考えています。
一方、iPhoneを「メールが貧弱なケータイ」とか「通話できるゲーム機」に貶めている人もいます。
僕自身、iPhoneによって劇的に生産性を向上させられたかというと、そうとは言えません。

価値観を使いこなすということも、どこか似たようなことのように思えます。
独立して存在しているように見える価値観が生まれるまでの時間を遡るということ。
価値観が固定された過程で削ぎ落としてきた偶然や複雑なものを掘り起こすということ。
それはまるで「堕落する」作業に似ている。 正解もなく、孤独で、不安を伴う作業。

選択肢(=価値観)が無数にある時代がもたらす不安

余談として。

「既存の価値観から別の価値観へ移行する」過程にも問題が生じているように思えてなりません。
価値観が無数にあるということは、選ぶという行為が際限なく発生することを意味します。

現代においては、選ぶ行為の中に「自己」や「主体性」が問われている現状があります。
あらゆる場面で僕らは「自分とは何者か」「何を良しとしているのか」を監視されているのです。

そんな時代に生きるワカモノを、芦田宏直氏は「オンライン自己」として捉えました。
不安定な足場を転々と飛びつぎ、できるだけ安定している足場を探しまわっている世代。

次の価値観に移った後で、本当にその次を見つけられるだろうか、という不安。
必死に適切な足場を見つけようとしている様子は、就職活動生の焦燥にも似ています。
僕らは、そこに不連続な足跡と底の深い闇しかないことに速やかに気付くべきなのかもしれません。


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