「ライブスクライブ」-このペンは筆記の経験を変える

カテゴリ:世の中の事

まさか、日本海の離島で最新のテクノロジーに感動することになるとは。

本日、海士町を訪問しているある企業の方が、このペンのデモンストレーションを生徒と塾のスタッフに見せてくれました。
メモしたそのときその場の音声が再生されると「スゲー!!」と歓声が湧き、ピアノの鍵盤を紙に描き、その鍵盤をなぞるライブスクライブからピアノの音色が再現され、どよめきが起こる。

この動画をみても伝わらないかもしれませんが、ライブスクライブはメモという行為に人間の五感をフル動員し、創造性を高めてくれる可能性を秘めている、そう感じました。

言葉で説明できるか不安ですが、ライブスクライブの主な機能の一つ、音声再生機能をご紹介しましょう。

0.大学の講義を想像してください。ライブスクライブを利き手に持ちます。専用ノートも用意しましょう。
1.講義が始まる直前に「録音」を開始します。
2.録音を開始したら、あとはいつもどおり 講義メモをとりましょう。
3. 講義メモを取り終えたら「録音」を停止します。
4.さて、試験前になりました。もう一度講義メモを 読み直しましょう。
5.読み直してよくわからないところがあったら、 該当部分をライブスクライブでタッチ。
6.タッチされた箇所をメモしているときの教授の講義が 再生されます。
そう、1~3で録音した、あの講義の音声が流れるのです。しかも、メモしたその瞬間に教授が話していたことがピンポイントに。

たぶん、伝わらないですね笑
百聞は一見に如かず、と言いたいところですが、実はこのペンは日本ではまだ販売されていないそうです。
Amazonでは輸入品を購入できます。

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リーダー待望論に見る日本の努力主義とその停滞

カテゴリ:世の中の事

僕がTwitterに流したこの記事が、地味にアクセス数を稼いでいました。

何が鍵を握っているかというと、政治のビジョンをしっかりと描きそれを実行に移していくためにリーダーをしっかりと支えるブレイン集団が存在すること、社会が抱える様々な潜在的な問題を早い段階で政治のテーブルに載せ、それに対処するための政策の選択を専門家がきちんと洗い出し、どれが最適かを議論したり、社会を構成する様々な人々の意見を聞きながら実行していくためのプロセスが制度としてしっかり確立していること、そして、そのプロセスが透明性を持っていること、候補者の人気投票ではなく政策議論を中心とした選挙を可能にする選挙制度があること、研究実績も博士号も持たない肩書きだけの「教授」や御用学者ではなく専門知識に長け社会を良くしようというやる気に満ちた学識研究者が歳に関係なく自らの能力を政策決定に反映できること、大学で専門知識を学んだ人がその能力を生かせる行政の職場に就き、エキスパートとしての立場から行政を行ったり政府に対して意見や提案を行えること・・・。スウェーデンの政治や社会を見ていると、以上のような「制度」の確立のほうが特定の個人のリーダーシップの有無よりも非常に重要な鍵を握っているのではないかと思う。

だから「スウェーデンの現在の経済や政治を導いてきた代表的なリーダーは誰ですか?」と尋ねてくださった方々には申し訳ないが、「こんなリーダーがいたから、今のスウェーデンがあるんですよ」と一言で述べて、その人物のリーダー哲学を説明してあげることはできない。私の答えは、上に示したように、一言では言い切れない。スウェーデンで政治に携わったり行政のアドミニストレーションに携わったりする人に求められるのは、心を動かすようなリーダー論や人生哲学ではなく、むしろ組織の中での効率的なマネージメントの能力やコミュニケーションの能力、他人とのグループワークの能力といった「地味」で実務的な能力だ。大学教育の経済・経営などに関する教育課程でもそういった要素が重視されているし、他の学生と一緒に一つの課題をこなすというグループワークは他の教育分野でも一般的だ。

今の日本の政治に欠けるのは果たしてリーダーシップなのか? – スウェーデンの今

「ふがいないリーダーがいるから失敗する。リーダーシップのある優秀な人材であればうまくいく。」という発想。
失敗を個人のせいにするか、失敗を発生させる環境の中に原因を追究するか。

日本は往々にして前者の「自己責任」の論理が優先されるように思います。
全員が同じルールの下に集まり、同じ課題を与えられる学校教育においては、その傾向は顕著です。
「みんなできていることをしない・できないのは怠慢、努力不足の証拠」なのです。

2010年の初夏、大阪で風俗勤務の女性が2人の子どもを家に閉じ込め、死体を遺棄するという事件が起こりました。
あの事件の後のmixiニュースに対する加害者への非難・中傷は見ていられないほどでした。

しかし、加害者ははじめから「殺人者」 になるような特徴を兼ね備えていたのでしょうか。
加害者が置かれた環境が、加害者を殺人者にまで追い込んだのではないか。僕はそう捉えています。

この記事を読みながら、映画「降りてゆく生き方」のプロデューサー、森田さんのTweetを思い出しました。

欠陥品が出ると「本当は完全品を生み出すシステムなのに、偶然欠陥品がエラーとして出てしまった」と思う人が多い。しかしそうではない。真実は、「そのシステムは、欠陥品を生み出すのに最適なシステムである」ということなのだ。less than a minute ago via web Favorite Retweet Reply

 

僕としては、森田さんの立場に賛同します。
根性に頼ることなく、仕組みでなんとかする、という発想は個人でも組織でも適応可能です。

例えば「Lifehack」。
人間の心理や行動、クセに関する最新の研究を踏まえて理に適う方法で習慣化・効率化を実現する。
根性論に染まりきってしまうとなかなかできない発想かもしれません。

なぜ自己責任の論理が強調されるのか

個人的に関心があるのは、どのような影響の下で自己責任の論理が染み付いてしまうのか、という点です。

一つ考えられるとすれば、「平等」の意識が強いこと。
(見た目は)日本社会においては機会の平等が保障されていることが多いので、その中できちんと機会を実らせる人がいれば、 そうでない人は機会を生かせなかった、というレッテルを貼られるのはある意味フツウのことと言えます。

「オレはできたのになぜお前はできない!?」といわれても、正直困ります。
「能力はみんな同じ」という前提が成り立つなら、確かに個人 の怠慢が原因になるかもしれません。
「適性は個人によって異なる」ということをみんなぼんやりとでも認識していると思うんですけど。

過剰な平等主義とその結果としての自己責任論。
構造を変える、システムを変えるという発想を遮っているのは、僕らの中に組み込まれた論理なのかもしれません。

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「地元学からの出発 」の暖かな眼差しに学ぶ

カテゴリ:読書の記録

著者の結城登美雄先生の話は2度拝聴したことがあります。

1度目は2009年早稲田祭での「降りてゆく生き方」の上映会。
同映画プロデューサーの森田さん、上映会主催者で高校・大学の同級生のたくとの対談で、一つ一つの言葉を丁寧に発する結城先生の姿は印象的でした。

2度目は秋田県庁の事業「元気ムラ」のスタートアップイベントでの記念講演。
「自然は寂しい。しかし、人の手が加わると暖かくなる。」という宮本常一の言葉と共に紹介された、棚田を細々と営みつづけている老夫婦の感動的なエピソードは、今も心に残っています。

地域に根ざし暮らす人々に寄り添い、地域にあるものを見つめなおす。

NHK仙台制作のドラマ「おこめのなみだ」のモデルとなった「鳴子の米プロジェクト」など、いわゆる「地域活性化」の施策とはどこか違う、地に足の着いた取り組みを数多く実践されてきた結城先生。雑誌等に寄稿された結城先生の文章が集約されているのが本書「地元学からの出発―この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける 」です。

地元学とは

冒頭から長めに引用。

私は近頃つくづく思うのだが、自分でそれをやろうとしない人間が考えた計画や事業は、たとえそれがどれほどまとこしやかで立派に見えても、暮らしの現場を説得することはできないのではないか。そんな気がしている。そして反対に、たとえ考え方は未熟で計画は手落ちが多くても、そうしようと決めた人々の行動には人を納得させるものがある。為そうとする人びとが為すのであって、そうしようと思わない人びとが何人徒党を組んでも、現実と現場は変わらないのではなかろうか。

地域とはさまざまな思いや考え方、そして多様な生き方と喜怒哀楽を抱える人びとの集まりである。しかし誰もが心のどこかでわが暮らし、わが地域をよくしたいと思っている。だが、その思いや考えを出し合う場がほとんど失われてしまっているのも地域の現実である。

「地元学」とは、そうした異なる人びとの、それぞれの思いや考えを持ち寄る場をつくることを第一のテーマとする。理念の正当性を主張し、押しつけるのではなく、たとえわずらわしくとも、ぐずぐずとさまざまな人びとと考え方につき合うのである。暮らしの現場は一気に変わることはない。ぐずぐずと変わっていくのである。

地元学は理念や抽象の学ではない。地元の暮らしに寄り添う具体の学である。(P.14)

結城登美雄「地元学からの出発―この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける

“暮らしの現場は一気に変わることはない。ぐずぐずと変わっていくのである。”

地域とは人びとの集まり、暮らしの集まりであり、利益や観光客数といった量的な指標でその変化を正確に測れるものではないということに反論する人はまずいないでしょう。
たった数年の「事業」で地域を変えるという発想が思った以上に穴だらけであったこと、”暮らし”というものが粗雑に扱われてきたことの反省がここにあります。
この引用部から、”暮らしの豊かさ”とは何かを真摯に考えた結果として必然的に「地元学」の発想が生まれたということが感じられます。

何かを「変えたい」と思うとき、その変化を目で追い評価することができなければ、たいていの人は不安を覚えます。
「地域」を変えるということは、人びとや暮らし、風土といったものが長い時間をかけて変わることでようやく達成されるもの。
長期的な視野で、複雑に絡み合う要素それぞれに目を配りながら、ぐずぐずと地域が行きつ戻りつしながら歩む姿を見つめる地元学。
そのじれったいプロセスに我慢しきれず、測りやすい指標に頼ってしまった過去を繰り返さないためには、地元学の眼差しから得るべき気付きは少なくありません。

本書では「よい地域」であることの7つの条件が紹介されています。

①よい仕事の場をつくること。
②よい居住環境を整えること。
③よい文化をつくり共有すること。
④よい学びの場をつくること。
⑤よい仲間がいること。
⑥よい自然と風土を大切にすること。
⑦よい行政があること。(P.19)

結城登美雄「地元学からの出発―この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける

地元学の実践

結城先生の取り組みは多岐に渡りますが、本書に掲載されている事例すべてに共通していると感じたのは「暮らし」の観点でした。

食と暮らし、農と暮らし、仕事と暮らし。新しいモノや最新の学問に頼ることなく、その地域にあるもの、人びとの暮らしを見つめることから始める地元学。

自給の畑や山の恵みで素材を生産し(第一次)、それを加工・保存・調理し(第二次)、家族が喜ぶ演出や心遣いを工夫して食事を楽しむ(第三次)。家庭の食卓は生産から消費までの、小さいけれども総合である。(P.155)

結城登美雄「地元学からの出発―この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける

この視点を頭の片隅に置きながら本書を読み進めると、著者のゆるぎない一貫性に感動すら覚えます。

山形県真室町の事例では、地域の伝承文化と暮らしの中に残る食を結びつけたステキな実践が垣間見えます。
それぞれの家庭の味を、一つ一つにこめられた思いやエピソードと共に持ち寄り、味わいあう「食の文化祭」。
後継者不足に悩む民俗芸能「番楽」を地域の食と共に楽しむ冬の祭、「釜渕行灯番楽」。
テーマを決めて伝統の食を集め、さかのぼり、そこから地域の「あがらしゃれ(=どうぞ召し上がれ)」の「器」づくりまで発展した「食べ事会」。

「ないものねだりから、あるもの探しへ」

当事者は地域の住民。
彼らが主体的に事を動かすきっかけづくりとして、彼らの文脈に共通してあるもの=地域資源を活用する。
地域の暮らしに根付いた言葉、食、道具、祭。新しいものを求めるのではなく、地域の中に目を向ける。
そこに暮らす者自身が「為そうとする人」となるために、これほど身近なツールはないかもしれません。

地元学から出発することで、既存のパラダイムを捉えなおすことができることも注目すべき点です。
「鳴子の米プロジェクト」では、農業政策という大きなパラダイムの下で見捨てられた小作農が立ち上がりました。
分業が進み、単一の職業で飯を食うのが当たり前になった今、百姓というあり方や「つくり、加工し、楽しむ」プロセスを地域の暮らしにもう一度取り入れることで、農と地域をつなぐ試み。
スタートは、自らの、そして地域の「豊かさ」を見つめなおすところから。

既存の指標の限界が指摘される中、この21世紀において、「地元学」が答えとなるかまではわかりませんが、間違いなく重要な示唆を与えてくれる。本書を読みながらそんな期待を持たないわけにはいきませんでした。

個人的な問題意識

結城先生の地域に対する眼差しは優しい、と書きましたが、日本の「農村型コミュニティ」が持つ「わずらわしさ」へ馴染むことに挫折した僕としては、その優しさをまっすぐ受け入れることができませんでした。

「よい地域」であることの7つの条件が紹介されていましたが、つまり、「悪い地域」も存在する、とついつい読み取ってしまいます。
よい地域「である」ことと、よい地域「になる」こととはまた別。

あらゆる地域が「よい地域」になれるのか。限られた「よい地域」をできるだけ早く見つけ、地元学の手法を吹き込むのか。
結城先生の意図は、やはり聞いてみたいところです。

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