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自分の本音が分からない人の5つの特徴

カテゴリ:自分事


自分の本音が分からない(分かろうとしない)人には共通の特徴があるように思えます。思いつくまま、5つの特徴を並べてみました。

1.他人に弱さを見せられない

「自意識過剰」というべきでしょうか、周囲の目に過敏な人は一定数います。かくいう僕も小さい頃からそのケがありますが、少しずつコントロールするように気をつけています。

周囲の目を気にしすぎることの原因はなんでしょうか。一つは、周囲から自己に対して都合の悪いイメージをもたれることへの不安だと思います。

この「都合の悪さ」がポイントです。「自分はこう見られたい」「自分はこう見られたくない」「都合」は必ずしも合理的であるとは限りません。普通、人間は自分で自分を縛っているものです。

「弱さ」とは、なんらかのうしろめたいものを抱えている状態では必ずしもありません。きっと、目をそむけて客観的に捉えることが出来ないこと自体がそのものを「弱さ」にしているのです。

他人から見れば取るに足らないようなことにまで囚われる必要はないと思います。

2.自己イメージに固執している

前項とも関連しますね。

人は誰もが「自分はこういう人間だ」というイメージをもっています。ところが、自分を把握しきっている人はほとんどいないものです。そのイメージに縛られすぎると、自分というものはどんどん狭くなっていきます。自分が現時点で興味・関心を持たないものは「自分ではない」からです。

いつしか好奇心は薄れ、世界観は固定化されてしまいます。イメージの範疇にない自分の側面は無視され、あるいは否定されます。

心身に無理が生じているとき、体や心は自然と助けを求めてメッセージを発するもの。その声にすら耳を傾けられず、「無理」をしていることに気付かないなんてことも起こりうるでしょう。

3.他人の多様な側面を認めることが出来ない

”自分”に固執するように、他人のイメージもまた固定的な見方になってしまう。

人間、誰しも矛盾を抱えているもの。言動に一貫性を保てる人間はそうはいません。また、人と人とは根本的に異なるものであり、違いがあって当然です。最近になって「多様性」という言葉を聞く機会も増えました。

コミュニケーションの相手がいつでも自分にとって都合が良いとは限りません。むしろ、都合が悪い場合の方が実際には多いのではないでしょうか。それを認められないというのは、明らかに他者との関係性において問題があるように思えます。もちろん、自分との関係性においても。

あたかも他人が自分の延長であるかのようにふるまう。他者は他者である、という言ってみれば当たり前の感覚が抜け落ちている。そういう印象を受けます。

4.学校や職場以外の知り合いが少ない

価値観が固定化されると、付き合う人も固定化されてしまう印象があります。人間関係も学校や職場で出会う人に限定される傾向があるのではないでしょうか。

学校や職場以外の人と接点を持つ機会は自らつくるほかありません。交友関係を広げることに意義を見出さないかぎり、わざわざそうすることはないでしょう。

しかし、いつも同じ人と交流していても、新しい風は入りにくいもの。価値観はますます固定化されていくでしょう。

5.ボキャブラリーが貧困

いつも同じメンバーで過ごしていると、相手の知らないことをいちいち説明したり、自分の考えについてなるべく齟齬のないように言葉を選ぶという作業は発生しません。

知らない者同士、つまり共通のボキャブラリーがない者同士の会話では、表現に厳密であることが求められ、その過程でボキャブラリーが鍛えられる、というわけです。

本音を話す、というときにはなおのこと語彙が必要になります。聞こえのいい言葉、どこかで聞いたような言葉に任せられた本音は、抽象度が高く、言っている本人すらも実感を持てないものとなりうるでしょう。

 

この状況を個人がどう乗り越えればよいのか。
(乗り越えなければならないのかという疑問もまたありますが)

少なくとも、現状に変化を起こさない限りには、永遠に現状の打破はできないと思います。


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言語化の台頭と日本のコミュニティの変遷

カテゴリ:世の中の事


そもそも僕がこんな話をしだすのは、率直に言って、言語化ができている人と話すのが面白いし、そういう人こそどんな環境でも自分らしく働き、楽しく生活を営んでいる、という印象を持っているからです。

言語化の能力が鍛えられる背景―アイデンティティとコンテクスト | 秋田で幸せな暮らしを考える

「言語化」や「コミュニティ」というキーワードについて把握しようとする僕のモチベーションの源泉は、ほとんどここにあるといっていいです。
「言語化」の能力を持っていること、あるいは「都市型コミュニティ」の中で生きることができること。
これこそが「個人化」が進む21世紀において、幸せな暮らしを送る条件になっているように思います。

仕事、そして生活面における他者(家族や自分が暮らす地域・社会)との関係性の両方を充実させること。
その秘訣を探りたい、というのが、僕の原動力になっています。

農村型コミュニティと都市型コミュニティ

農村型コミュニティと都市型コミュニティという言葉は、例えばアキタ朝大学さんへ寄稿した記事でも紹介しました。
僕が「コミュニティ」というものを考えるときの大きなベースとなっており、広井良典著「コミュニティを問いなおすで出会いました。
(ちなみに、この本はおすすめです。僕も折に触れて読み返しています)

ここで改めて両者の違いについて整理したいと思います。
誤解を生みやすいので先に書いておきますが、この「農村」と「都市」という区別は、それぞれ字面そのものの農村と都市を指すものではありません。
農村(あるいは地方、田舎)では農村型コミュニティが形成され、都市(あるいは都会、東京)では都市型コミュニティが形成されるというわけではない、ということです。

農村型と都市型は形成原理で区別する

この二つのコミュニティを分類する基準となるのは、その形成原理にあります。端的には「個人」のとらえ方に差異があります。
農村型コミュニティは「共同体と同質化・一体化する個人」によって、都市型コミュニティは「独立した個人と個人のつながり」の結果として、それぞれ構成されます。
前者は同心円状にその勢力を拡大することで大きくなり、その暗黙的な同質性が前提としてあります。
一方、後者は個人の異質性を前提としており、明示された一定のルールや規約をベースに、個人と個人の関係性がつくられていきます。

二つのコミュニティの形成原理の違いについてもう少し細かく見ていきましょう。
両者の違いは、コミュニテイからの要求が先に来るか後に来るか、という点に現れるのではないかと僕は考えています。

農村型コミュニティは所属するかどうかが決まるや否やいろいろな条件を満たすように要求します。
例えば海士町は14の地区に分かれておりますが、区費を支払う必要があったり、ぢげ掃除など各種行事に参加しなければならなかったり、地区ごとにルールがあります。
そしてそのルールはIターンも遵守する必要があります。
移住した途端にルールを守る必要が生じ、それを遵守しなければ地区の住民としての立場がなくなります。
海士町に移住するということは、多かれ少なかれ自動的に提示される条件を受け入れる必要があるということです。
「所属したからには条件を飲め」 と迫るのが農村型コミュニティです。

反対に、都市型コミュニティは参加する前に条件の要求が先に来ます。
僕が所属するWE LOVE AKITAは基本的に誰でも参加可能であり、参加を強制するものではありません。
ところが、実際には参加条件があります。
秋田が好きとか、秋田に関する活動に自分も参加したいという動機がなければなりません。
逆に言えば、秋田が嫌いな人は加わらないし、島根が好きな人は島根を応援する活動に参加すればいい。
参加する側からすれば都市型コミュニティは条件に応じて主体的に選択可能であり、その意味では「契約的」と言えます。
「条件を飲むことに同意する(契約書にサインする)なら参加を許可する」と構えているのが都市型コミュニティです。

コミュニティに参加するより先に条件を吟味できるということは、参加条件が明示的であるということです。
一方、農村型コミュニティは暗黙のルールが支配的であると考えられます。

以上のような分類に基づけば、実際にコミュニティの形成される場が農村であるか都市であるかにかかわらず、いずれのコミュニティも形成される可能性があることが分かります。
古くから農村/都市がどのように形成されてきたか、その原理に注目してさまざまなコミュニティを分類しているというわけです。

農村型コミュニティのハイコンテクスト性

さて、農村型コミュニティの同質性を前提とした同心円状に広がる形成原理に今一度注目しつつ、農村型コミュニティにおいて「個人」の発見が阻害されるメカニズムを考えてみたいと思います。

このコミュニティの構成員は暗黙的に同質であることが了解されています。
暗黙的とは、「言わなくても分かる」ということ。同質であるということは、コミュニティ内における知識や経験の共有度が高いということです。
従って、構成員間のコミュニケーションにおいてもその特徴を指摘することができます。

抽象的な表現をとると、このような状況下では会話の中で使われる言葉は「定型化」されます。
言いたいことはコミュニティ内の文脈の中にストックされた”定型文”を活用する形でコミュニケーションは成り立ちます。
つまり、自分の言いたいことは自分で一から構築する必要が無い。当然、表現の自由度・ユニーク性は落ちますね。

このような文脈依存的な文化は「ハイコンテクスト文化」と呼ばれているものと一致する、と考えられます。
(ハイコンテクスト文化については過去記事でも触れておりますので、こちらをご参照ください)

一方、文脈に依存せず、積極的に言語等によってコミュニケーションを交わすような文化は、「ローコンテクスト文化」と呼ばれています。
これは、都市型コミュニティの特徴である、形式化された規則やルールや論理的な言語による表現を重視する傾向と重なります。

農村型コミュニティは、ハイコンテクスト文化の特徴を有しており、一方、都市型コミュニティはローコンテクスト文化であると指摘できる、というのが僕の考えているところです。

ハイコンテクスト文化における「個人」の不在

ハイコンテクスト文化におけるコミュニケーションをもう少し細かく見てみます。

ハイコンテクストな社会においては、コミュニティ内で共有されている”既存の”(あるいは既知の)文脈が支配的な位置を占めます。
文脈によって推測できることで満足するコミュニケーションによる理解があらゆるところで推奨されます。

その結果として、”既存の”文脈で説明できないものは価値を認められないということが起こり得ます。
既存の文脈外にあるものは積極的なコミュニケーションがなされる土台を持たないために、ハイコンテクスト文化において理解される機会を喪失しているのです。
僕は、このコミュニケーションの慣習が、農村型コミュニティの「個人」の発見を大きく阻害している、と考えます。

ハイコンテクスト文化においては「個人」は近似値としての「集団」によって把握されます。
逆にローコンテクスト文化においては「個人」は唯一無二の値として扱われます。
農村型コミュニティは「円周率は3.14とする」で満足してしまいますが、都市型コミュニティは円周率が無限小数である(終わりがない)ことを認めながらも、正確な値を追求するために演算を絶やすことがありません。

ハイコンテクスト文化の”既存”の文脈は、先述したとおり”定型文”的であるという言い方ができるかもしれません。
「AであればB」という認識が予め共有されていることで、はじめてAという”定型文”はコミュニケーションの中に活用されます。
逆に、コミュニティ内でこのような共通の認識が存在しない新しい文脈を導入することは困難を伴う、というわけです。

このように農村型コミュニティにおいては”定型文”的に、限定的な枠組みの中で「個人」を理解することとなるため、「個人」は均質化する傾向にあります。
ここでは、「あなたという人間は何者なのか?」という問いが明示的に発せられることはありません。
「個人」は暗黙的に、コミュニティ内の”既存”の文脈に基づいて相手に理解されるのが普通であって、「私は何者か」を言語によって積極的に説明するシチュエーションに出くわすことは、実はほとんどないのです。

日本は世界的に見ても極めてハイコンテクストな社会であるとされています。
もともと日本語に「Self-Identity」に該当する日本語が存在しなかったという話も、うなずけます。


批判的な書き方になりましたが、ハイコンテクストな社会でなければ出現しなかった文化もあります。俳句や短歌はそのひとつでしょう。
また、「あなたは何者か」を問わない農村型コミュニティは寛容である、と捉えることもできます。

グローバリゼーションが歪ませる農村型コミュニティ

こうしてみることで、農村型コミュニティでは「個人」という概念が希薄であるということの一定の説明が可能になったように思います。
日本語では「自己同一性」と訳される「アイデンティティ(Self-Identity)」という概念について言えば、同質性が前提としてある農村型コミュニティにおいては自己と他者の区別も明確ではなく、他の何者でもない自分を自覚することは困難な作業だったのではないでしょうか。

これを踏まえれば、グローバル社会において進行する「個人化」という社会構造と農村型コミュニティの形成原理との間に齟齬があることが分かります。
そもそも農村型コミュニティにおいては「個人」という概念が希薄なのですから、コミュニティが解体され「個人」という単位がむき出しになった社会の中で、農村型コミュニティの元構成員たちが適切に振舞えるのか、という問題が生じるだろうとは容易に想像できます。

その結果として良く槍玉に挙げられるのが「孤独死」という事象ですが、コミュニティの解体により表面化した”社会の膿”は、より複雑な側面を持っているように思います。
例えば、(学識ある方からの指摘も多いところですが)「秋葉原通り魔事件」もまた、所属するコミュニティを失った一人の男性の悲劇として捉えることができます。
僕が現代社会の構造の歪みを強烈に意識するきっかけとなった「大阪市・2幼児遺棄事件」も、コミュニティの喪失による孤独なシングルマザーという加害者像をイメージさせます。

これまでの農村型コミュニティと「個人化」する社会の齟齬が”歪み”を生じさせている中、そこここで発生している悲しい事件は、社会の傷口である”歪み”から垂れ流されている”膿”のイメージを想起させます。
しかし、上に挙げた二つの事件の加害者は、「個人の倫理観の欠如」や「異常性」ばかりが指摘される結果となりました。
僕らは、「こちら」と「あちら」というように自分たちと加害者を容易に区別するだけで、言うなれば加害者たちを”膿”と見て、それを洗い流すことだけで事なきを得ようとしているのではないでしょうか。
僕らは社会構造の”歪み”の修復に着手することはなく、未だ発見されぬまま放置された”歪み”からは静かに、しかし淡々と”膿”が流れ続けている。
残念ながら、そんな状況のように思えてなりません。

コミュニケーションはどう変わるのか

グローバリゼーションの到来が、社会の「個人化」を推し進める働きをしたと書きました。
この点は既にメディアでも取り上げられており、多くの社会理論でも指摘されているところです。

「個人化」が進んだ結果、”既存”の文脈はますます共有の難しいものになりつつあります。
併せて、シングルペアレント世帯の増加などライフサイクルも多様化し、一人一人をまとめてラベリングし、集団的に理解するという行為がますます成立しにくくなっています。
そのため、最大公約数的なモデルケースをベースにするという発想に基づいた社会的な支援では、個人の抱える問題を処理できなくなり、結局個々人が自らの課題を自ら解決する必要が生じてきます。
この構造は「自己責任」の論調に拍車をかけており、就職できないことも結婚できないことも貧困に陥ることもすべて個人の自己責任として片付けられる傾向があることも見逃せません。

「個人」が強調されたために、お互いを理解できる共通の文脈は失われつつあります。
ここにおいて人と人との間のコミュニケーションを成立させる方法を改めて考えるべきでしょう。

農村型コミュニティが用いていたような共有可能な文脈を新しく創り出すか、「個人化」を徹底的に推進するか。
いずれにせよ、これまで用いられてきた文脈の活用は期待できず、言語等をベースとした積極的なコミュニケーションが求められることが予想されます。

伝えるべきことを一から言葉にすること。
「わたし」と「あなた」の間を隔てる差異を飛び越えるだけの表現力と説得力を持つこと。
これを僕は「言語化」と呼び、 「個人化」の時代において必要なのは「言語化」の能力である、と考えるわけです。

「言語化」とは、「差異とは何か」を暗黙的でない形で(明確に近くできる形で)表現/理解すること。
繰り返しになりますが、「わたし」と「あなた」はすでに明確な差異を持つことは前提とされています。
(実際、「みんなちがって、みんないい」という言葉があるのですから!)
これこそが「個人化」時代のルールであり、「言語化」の能力が求められる背景なのです。

まとめに代えて

ここまで、「言語化」の台頭した経緯を僕なりに整理しました。
長くなりましたが、これまでブログで書いてきた内容をここにまとめられた感があります。

では「言語化」の能力はどうやって鍛えられるのか。
まだ僕の中で課題として残っていますが、「他者」の認識が重要になるだろうという仮説を持っています。
そのあたり、「「他者」を発見する国語の授業 」などを参考にしながらまとめていきたいと思います。


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思い通りにならない相手を安易に「敵」にする危うさ

カテゴリ:自分事


なかなか思うように動いてくれない相手に苛立ちを感じることは誰にだってあります。
そもそも、相手が思い通りに動くように働きかけることは非常に難しいことです。
そして、実際の人間生活ではそのような相手を安易に「敵」とみなして行動してしまうことも、少なくありません。

ところが、往々にして「敵」とみなされた相手は一層こちらの意図を汲まなくなるものです。
相手を反抗的であると捉えていれば、その認識が端々で相手に伝わるからです。

より大きな視点で捉えると、「敵」とみなす相手がそもそも間違っていることが多いはずです。
「地域活性化」のような抽象的で大きな目的がある中では、同じ地域に住む人は「敵」ではなくステークホルダーです。
当然各自は自分たちの利害を計算した上で動きますから、総論賛成・各論反対の構図は一般的と言っていい。
しかしながら、総論賛成のステークホルダーを「敵」とみなすと、こちら側も大きな目的がぶれていきます。

チームには「敵」が必要

チームワークとは、チームが「共通の敵を持つこと」で生み出される。「チームをまとめるためには敵を探そう」が、リーダーが身につけるべき方法論でもある。

「敵」という存在は、対立や排除の対象であって、概念を共有した上で、それを「敵」と名指しすることで、チームには「何をやらないのか」、「誰に嫌われるのか」が共有される。

チームワークとは「いい敵」の共有 – レジデント初期研修用資料

「敵」の設定はチームワークに大きな影響を及ぼします。
何を打倒するか。目的達成のために障壁となっているものは何か。

「敵」をステークホルダーの外部に置くと、やるべきことが具体的に見えてくることがあります。
例えば、法制度。制度変更をゴールに据えると、各自がそれぞれの立場でやるべきことが見えやすくなります。
思うように動かないステークホルダーを「敵」とするのではなく、そのステークホルダーと共闘すべき「敵」を設定すればよいのです。

戦略の品質は、「敵」の品質が決定する。リーダーが名指しするのは、ただの敵ではなく、「いい敵」でないといけない。

いわゆる的ないじめは、数を頼んだ単なる暴力であって、敵を名指しした結果のチームプレーとは違う。リーダーが「いい敵」を見つけることに成功できれば、むしろ「敵に勝つ」必要は消失してしまう。強大な敵に団結ししたチームが大胆な戦いを挑み、敵味方の対立物語は盛り上がり、開発も顧客も一緒になって、そうした構図をずっと楽しめる。

チームワークとは「いい敵」の共有 – レジデント初期研修用資料

ステークホルダー内に「敵」を設定し、それをその他全員でつぶすというのもなくはないのでしょうが、そのゴールが本来の目的と一致していない限りはあまり有効とはいえないでしょう。
共闘の状態に持ち込み、内輪の対立に傾けていたエネルギーを正しいゴールに注いでもらうことがベターなはずです。


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