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2011年から学んだ、2012年の個人的なキーワード

カテゴリ:自分事


あけましておめでとうございます。

2011年は海士町での生活を始めてから一年が経ちました。
ようやく海士町という地でやるべきことが見え始めた今、2012年を迎えるにあたり、さらにその先のこともにらみながら、どのようなキーワードが自分の中にあるのか、ここで改めて言葉にしてみたいと思います。

1.「変数を増やす」

年末、ある人との会話をきっかけに整理されたことがあります。
それは、物事に関わる変数をできるだけ把握しようとすることが最適解を見つけることの助けとなる、ということです。

経済学でも、数理モデルでもそうですが、初歩的な数式は現実には「ありえない」ような単純なモデルから出発しています。
そして、現実に即したモデルを作ろうとすると、変数が増えて数式がどんどん複雑になり、それを解析することはますます困難になります。
しかし、その複雑さの中に飛び込まない限りは、その学問分野を通じて現実的な最適解に近づくことはできません。

「商売をする」とか「物事を動かす」というときに、ステークホルダーをできる限り把握しておかないと、短期的には無視できたとしても、長期的には弊害が生じるかもしれません。
物の売り買いは、単に商品とお金を交換する行為に留まりません。
商品、価格、サービス、コミュニケーション、利便性、売り手と買い手の関係性…。様々な要素が絡みます。

こうなってくると、自分ですべてをコントロールすることは難しくなってきます。
しかし、ここで重要となるのはコントロールできることに集中する、という作法であるように思います。
これは「プランドハプンスタンス理論」にも通ずるものがあります。
不確実なことばかりの世の中で、より確実なこととは、乏しい情報量でそれらしいキャリアプランを立てることよりも、目の前にあるやるべきこと・やりたいことに注力することではないでしょうか。

変数をあえて増やし、不確実で予測不可能な中に身を投入すること。
そこから、21世紀の個人の生き方、社会のあり方が見えてくるように思います。
僕らは、どう頑張ってもその時点での「最適解」を導き出すことしかできないでしょう。
しかし、(というかだからこそ)それを常にimproveすること、今できるベストを尽くすことの意義がますます見直されるのではないでしょうか。

2.「コミュニティ」

個人的に追求している「コミュニティ」というテーマ。

海士町という濃厚な関係性が色濃く残るコミュニティの中で暮らすことで、経験として学ぶことが多くありました。
また、それと平行してさまざまな書籍に目を通すことで、自分自身の興味や問題意識をより掘り下げることができています。

また、このテーマは、やはり多くの人がなんとなくでも考えていることでもあり、いろいろな背景を持った方と話をすることで、驚くほどの気づきを得ることができます。
特に、この年末年始は多くのことを整理することができました。
こちらはまた改めて記事としてまとめたいと思っています。

3.「やりたいこと」より「やるべきこと」

これはjGAPに寄稿させていただいたエッセーにも書きました。

まずは”現場”に行くことが重要
 振り返ると、中途半端な知識やスキルがないことが「運の始まり」でした。「できること」に縛られると「やりたいこと」にこだわってしまい、「やるべきこと」からずれたことをしでかしていたかもしれません。「成功体験に頼るな」「0から考えろ」とよく言いますが、地道に目の前の仕事を積み重ねて漸く「やるべきこと」を見出したことで、その意味を実感した次第です。

 机上の学びもまた必要ですが、本質は現場にあります。「やりたいこと」が現場で求められる「やるべきこと」とは限らないという事実、そして現場の課題に直に触れることの重要性は、東京を離れ、海士町という現場に出なければ実感できなかったでしょう。最近は「社会貢献したい」という人が増えていますが、まずは現場に行ってみるべきです。「やりたいこと」と「やるべきこと」のギャップを見つけたら、そこからが勝負だと思います。

「なぜ、私は新卒で就職したIT企業を1年半で飛び出して、島根県・海士町に移住したのか?!」

「地域活性化」や「社会貢献」の文脈において、本当に意味のあることについて考えることが多いです。
僕が「二足の草鞋」的に関わっていたWE LOVE AKITAの活動も、パートタイムで取り組める限界を意識させられることが多々ありました。

秋田が抱える問題に対する本質的なアプローチを、秋田から遠く離れた首都圏で、仕事の片手間で実践することは非常に難しい。
だからこそ、僕らは自分たちができることをわきまえ、一つ一つ実績を重ねてきました。

一方で、そのような活動で「飯を食う」ことの大変さも実感しています。
海士町のように、行政が受け皿となってプロジェクトベースで島内外から人を集めるということは、秋田ではほとんど行われていません。
どうしたって、手作りで物事を進めていく必要があります。
幸い、秋田には”とんがった”人と人とがつながり、支えあうネットワークが形成されつつあります。 
その中でどのように地域にコミットし、貢献していくのか。
海士町での経験から多くのことを学ぶ一方で、ますます悩みや不安に気づいてしまっているのが現状です。

今年は、海士町での仕事にコミットしながら、「帰り方」を模索する一年になりそうです。

4.当事者性

2011年で読んだ本の中で、「多くの人に読んで欲しい!」と最も強く思ったのが、「困ってるひと」でした。
「ビルマ」に 傾倒し、「難病の当事者」になり、でも「女子」。その「リアル」がここに描かれています。

僕が思ったのは、「当事者」と「そうでない人」の間の隔たりの大きさを認めざるを得ない、ということ。
当事者でない僕は、当事者の気持ちになんかなれないのです。
わかったふうな口を聞く前に、当事者の声に耳を傾け、当事者を取り巻くものたちをできるだけ把握しようとする誠実さを発揮する以外にないのです。

しかし、「こちら」と「あちら」の間に境界線を引こうとする態度も、同時に反省しなければなりません。
「当事者性」の境界は曖昧で、何かの拍子に簡単に飛び越えられてしまうものなのだ、という自覚もまた必要です。
「当事者」は「こちら」に対する「あちら」ではなく、単に「可能性」としての僕らなのです。

日本社会が抱える貧困の問題も、他人事ではありません。
最近ニュースで頻繁に耳にするような悲しい事件は、残虐な誰かの仕業なのではなく、歪んだ社会が膿を出すように、”たまたま”僕ではない誰かが社会から排除されてしまった事態であると考えるべきでしょう。

僕としては、今後もこの意識を持つことが、秋田へ戻ったときの大きな手助けとなるのではないかと思っています。

5.あきたびじ

秋田魁新報の元旦号でも大きく取り上げられていますが、海士町のサザエカレーなどを手がけたデザイナー・梅原真氏による秋田の新しいキャッチコピーが発表されました。

http://common.pref.akita.lg.jp/akitavision/

「あんべいいな 秋田県」
「秋田は冬のほうがいい」

魅力的なキャッチコピーとクリエイティブが完成しました。
あとは、この成果物を僕ら自身が大事に活用することが必要です。

つくりっぱなしにしない。 
自分たちなりにこのコピーを解釈しながら、どのように秋田の魅力をコミュニケートしていけるか。
県民一人ひとりに託されている、そんな、ずっしりとてごたえのあるメッセージになっているように思います。

梅原さんのすごいところは、デザインを単に外部の人とのコミュニケーションだけでなく、内側の人とのコミュニケーションのパイプづくりに活用している点です。
きっと、このコピーを通じて、秋田に関わるたくさんの人が、改めてそれぞれの秋田の魅力に思いをはせるきっかけが生まれるのではないでしょうか。

とにもかくにも、期待大!です。


関連する記事

言語化の能力が鍛えられる背景―アイデンティティとコンテクスト

カテゴリ:世の中の事


言語化という言葉の本記事における定義

この記事では、「自分の思っていることや伝えたいと感じていることを的確に表現すること」を「言語化」と呼ぶことにします。

言語化ができている人と話すのが面白いし、そういう人こそどんな環境でも自分らしく働き、楽しく生活を営んでいる、ということを僕は経験的に学んできました。それが本記事を書くモチベーションになっています。

ここでいう言語とは、自然言語はもちろん、コミュニケーションにおいて情報を伝達する手段として用いられるすべてを含めても良いでしょう。

 「言語化の能力」とは、
・伝えたいことを自分がより納得できる状態で把握し、
・その内容をできる限り損なうことなく相手に伝える
能力をここでは指しています。

本記事では、その能力がどのような場合に鍛えられ、あるいは芽を摘まれてしまうのかを検討してみました。

文末ではデザイン思考との関わりについて考察しています。

「言語化の能力」について掘り下げる

まずは、先に挙げた「言語化の能力」というものについて細かく見ていきます。

>伝えたいことを自分がより納得できる状態で把握し、

伝えたいことを言語化する。そのために、まずは自分が何を表現したいのかを知らなければなりません。ここで「自分がより納得できる状態で」という言い方をしたのは、「伝えたいことを」正確に「把握」することは厳密には不可能だと思うからです。

つまり、「伝えたいこと」を「把握」するという作業は「正解を選ぶ」ことでは実現できない、ということです。”適切な表現を追及し続ける”という表現の方が適切です。

>その内容をできる限り損なうことなく相手に伝える

「伝えたいこと」が把握できたら、今度はそれを表現してコミュニケーションの俎上に載せなければなりません。ところが、「伝えたいこと」を再現性の高い状態で把握出来たところで、それをそのまま相手に伝えられるかどうかは別の問題です。コミュニケーションはその相手や文脈など、複数の変数に依存して成立するものだからです。それらを総合的に加味した上で、適切な表現が求められます。

 こう書くと、誰もがこう思うはずです。「それ、難しいよね……」そう、実際、難しいのです。

アーティストは言語化能力が高い

美大出身者やアーティストの方と話をするとき、「この人たちはものすごく”語れる”人だなあ」、「言語化能力が高いなあ」と感じることが多々あります。

なぜか。「ユニークであることが常に求められるから」そう考えると説明がつくのではないでしょうか。アーティストは創作のスタンスにしろ、アウトプットにしろ、常に自他からアイデンティティを問われるはずです。

「あの作家とどこがどう違うの?」「この作品と同じじゃない?」「なぜあなたはそれをつくるの?」「その作品の意義はなに?」

そんな言葉を簡単に投げかけられてはいけないし、投げかけられた際には納得のいく回答が求められます。

「自分が他人と違う」ということは当たり前のことですが、突き詰めてユニークなアウトプットに落とし込むのは非常に難しい。他人と自分の違いを認識するためには、双方をできるだけ深く理解することが不可欠だからです。

これはまさに言語化の作業です。アーティストは常に言語化を強いられるわけですから、その能力が自然と身につくのも当然と言っていいでしょう。

同時に語彙も身につくはずです。ユニークであること、表現者自身のアイデンティティは、当然ながら他人にも理解されなければなりません。自分の考えをより適切な形で把握し伝えるということは、ボキャブラリーの拡張の必要に迫られるということだから。

つまり、コミュニケーションの基本的な手段である「言葉」の精度を高めることを日常的に経験している。結局、アーティストとしての表現手法を問わず、彼らは「言語化」に強くなるのではないでしょうか。

言語化能力の養成を阻みうるハイコンテクスト文化

「言語化」を要請され続ける生き方とは逆に、言語化能力が育まれない環境もあると考えています。「言葉にしなくてもなんとなく伝わる」 環境では、わざわざ言葉にする力を伸ばすのは難しい。そう考えさせられるケースをこれまで何度か見てきました。

日本や東アジア諸国は「ハイコンテクスト文化」と言われています。逆に英語圏などは「ローコンテクスト文化」に当てはまります。

ハイコンテクスト文化
聞き手の能力を期待するあまり下記のような傾向があります。

  • 直接的表現より単純表現や凝った描写を好む
  • 曖昧な表現を好む
  • 多く話さない
  • 論理的飛躍が許される
  • 質疑応答の直接性を重要視しない

ローコンテクスト文化
話し手の責任が重いため下記のような傾向があります。

  • 直接的で解りやすい表現を好む
  • 言語に対し高い価値と積極的な姿勢を示す
  • 単純でシンプルな理論を好む
  • 明示的な表現を好む
  • 寡黙であることを評価しない
  • 論理的飛躍を好まない
  • 質疑応答では直接的に答える

ハイコンテクストとローコンテクストの違い

「コンテクスト(context)」は一般に「文脈」と訳されます。引用部に「聞き手の能力を期待」とありますが、つまり、「言わなくてもわかるよね(わかってよね)?」というコミュニケーションになりがちなのが、ハイコンテクスト社会です。そこでは言葉ですべて説明する必要がありません。

引用先のページにある例が面白いので引用してみます。

ある商社で「先週のインドネシアでの商談はうまくいったのかい」という問いかけがあったとします。日本型のコミュニケーションスタイルでは、
「人間万事塞翁が馬。今のインドネシア情勢の変動は激しく予断を許さないからね。今回の契約もどうなるかとヒヤヒヤしていたんだ。人間諦めないで最後まで頑張ってみるものだね・・・・」
のように、問いに対する答えを直接的に伝えることよりも、周囲の状況や自分の感情などを詳細に説明することで共感を求め、肝心の答えは相手に推測してもらおうとする傾向があります。

一方、英語型のコミュニケーションスタイルでは、
“It was so successful. We got two new big contracts there.”「非常にうまくいった。大きな新規契約を2つ結んだよ」
のように、問いに対する回答や結果などの重要な情報を明確に伝えます。推測しなければならないような回答は、伝達側の努力不足でありルール違反であり、非常に無責任なものととられます。

ハイコンテクストとローコンテクストの違い

質問に対する回答を「文脈」に預けるか、「言葉」に預けるか。二つの文化間の違いがにじみ出ていますね。

言語化能力の養成という観点からすれば、ハイコンテクスト文化は文脈の活用を促進し、具体的な「言葉」による表現を避ける傾向を生み出します。

ハイコンテクスト文化が必ずしも悪とは思いません。例えば俳句は、たった17字の中に組み込まれた文脈を読み手が想像することで、芸術性を成り立たせています。日本を代表する小津安二郎の映画にも、文脈をふんだんに利用した描写や台詞回しが見られます。

察する力が読み手に求められるのは、ハイコンテクスト文化という背景があってこそでしょう。この独特な表現手法は、文脈を積極的に活用し、相手の察する力に働きかけることで豊かなものとなります。

一方、相手の察する力に依存し、
文脈に”丸投げ”するコミュニケーションは、
具体的で的確な表現を放棄する方向に働きます。

劇作家の平田オリザも指摘するところですが、最近の親は子どもに「ねえ、あれ」と言われるだけで、その時々の状況により食後のデザートを出したり飲み物を出したりするそうです。これは、文脈依存の最たるケースです。赤の他人では一切成り立たないコミュニケーションに慣れると、いざ他人と話す際のコミュニケーションの文法を身に付けないまま、社会に出ることになりえます。

文脈に依存しやすいのは、前提を共有している場、「みんなわかるよね?」という空気の影響にもよります。

学校、会社、地域…。同調や共感を強いる側面を持つこの空気感は、「農村型コミュニティ」の特徴とも言えるでしょう。この場では、同調が暗黙の前提であるゆえに、共有されている文脈にないこと(=説明が要ること)は話題にあがりません。

必死になって自力で適当な言葉を選ぶのではなく、前提となっている文脈に頼り、みんなと同じ言葉を使う。こんな環境に居続ければ、他者理解どころか、自己理解すら難しいという事態に直面するのは当然です。

他者が分からない人間に自分自身の把握はできない。そもそも自分と他人がどう違うか、その差異を考え、表現する機会の乏しさがもたらす当然の帰結です。
(参考:《他者》:「主体的」な行為をつくりだすただ一つの手がかり

例えば、高校や大学卒業といった人生の選択を迫られるときに「社会的な尺度」(みんなの基準)でしか決められない。これが文脈依存者の末路のように思えてなりません。

改めて、デザイン思考

ここまできて、ようやく先日の記事につながります。

基準が「私」なのか「みんな」なのかの絶望的な違いとデザイン思考

デザイン思考の(おそらく)根本にある、理想と現実を可能な限りマッチさせようとする”気迫”は、文脈に依存し、言葉を曖昧なままにする文化の中で育つことはありえるでしょうか。ほとんど希望はないと言っていいでしょう。

ハイコンテクスト文化においては「察する力」が求められますが、近年ではその衰退を嘆く声すら上がっています。
この悪しき文脈依存の状況を断ち切らなければ、僕らは「わび・さび」すら感じられなくなるかもしれません。大量の情報を並べ、グルーピングし、それぞれに文脈を埋め込んで図示するという、デザイン思考のエッセンスとも呼べる作業も遂行できないでしょう。

[1]Design Thinking

定義

デザイン思考は、技術的に実現可能なものやビジネス戦略を顧客価値や市場機会へと転換可能なものと、人々の要求とを一致させるために、デザイナの感覚と手法を利用する方法、である。

デザイン思考の系譜 | Design Thinking for Social Innovation

「技術的に実現可能なものやビジネス戦略を顧客価値や市場機会へと転換可能なもの」と「人々の要求」を「一致させ」ようとする”気迫”。それは、「試行錯誤アプローチ」とも呼ばれる、プロトタイピングによって徐々に精度の高いアウトプットを追及するプロセスにも現れています。そしてこのプロセスは「自分は何を求めているか?」という、終わりの見えない問いに対して、より適切な表現を探し続ける作業に似ていると感じます。

そういう点で、デザイン思考は、ビジネスを促進し、イノベーションをもたらすもの以上の意義があるのかもしれません。単なるビジネスの一手法として捉えるのはちょっとつまらないなと思います。

※以下の記事でも「言語化」についてコミュニティの視座からまとめてみましたので、よろしければご笑覧ください。

「言語化」の台頭とコミュニティの変遷~農村型コミュニティの衰退~


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「カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法」を読んで

カテゴリ:読書の記録


カウンセリングというものには以前から興味を持っていました。
カウンセリングという言葉には、心に何らかの問題を抱えている人を救うことができる、というイメージをもっていたのですが、それがどのような理論や手法に基づいて実践されているのか、気になっていたからです。

先に僕の感想を述べると、カウンセリングは手法というよりも、カウンセラーとクライアントの「あり方」の問題である、と本書を読んで感じました。
そして、誰もがこのカウンセリングの当事者になりうるということ。
クライアントであるということ、カウンセラー(的なかかわり方・立場)であるということ、それぞれが僕ら一人ひとりの日常とは切っても切れないものだと考えることも、決して極端な見方ではないはずです。

 自己の物語の不在

本書の冒頭、第2章のタイトルは
「カウンセリングと物語-生きるとは自分の物語をつくること」。

著者は「ありのままの自分」を抑圧し、周囲から期待される「よい子」の像を演じる子どもたちの事例に触れながら、こう述べています。

「よい子」という仮面のなかに自分を閉じ込めてしまって、「よい子」としての感情や気持ちをつくっているうちに、いつの間にか、本当の自分の気持ちや感情がわからなくなってしまっている子どもたち。自分のなかには、それこそとてもいろいろな面があり、いろいろな感情をもったとしても不思議ではないのに、「よい子」の枠にはまらない感情は、全部自分から押し出され抑圧されているのです。そうして、息苦しく、生きづらくなってしまった人たちが、カウンセリングに来ることは少なくありません。

そういう場合、私たちカウンセラーの仕事は、「よい子」の枠からその人の心を解放するのを手伝うことになります。 そして「ありのままの自分」というものにもう一度触れなおし、「よい子」のなかに閉じ込めていた自分を解放して、新しい自分の物語を生きられるように援助することです。言い換えれば、カウンセリングは「ありのままの自分」のなかに「本当の自分」を見つけ出すことを援助する仕事だということです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

「新しい自分の物語」という言葉がここに紹介されています。ありのままの自分のなかに飛びこみ、本当の自分を見つけ、自らの物語をつむぎだすこと。
それがカウンセラーの役割であり、クライアントの治療のプロセスとなります。

私たち人間は意味を経験する前提として、世界のなかに自分のやっていることを意味づけるような「物語の枠組み」が必要です。それがないと、自分の経験していることを、意味ある経験として物語のなかに編みこめず、経験がバラバラに断片化してしまいます。そうならないためには、自分をとりあえず騙しながら生きるのではなく、自分とまともに向き合わないといけません。自分とまともに向き合ったら、自分の物語がないことによる暇つぶしや、ただ楽しいことに時間を費やすこととは違う毎日を創っていかざるをえません。でも、自分と向き合うと、その空虚な自分とも、まともに向き合わないといけませんから、とてもつらいです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

著者はカウンセリングが求められる背景、そしてカウンセリングそのものの説明のための前提として、自己と世界の間に”意味”を見いだせるような「物語」が必要であると言っています。

僕が、その必要性について考えるために、本書から見いだしたキーワードは、「生涯学習社会」と「自己実現」。

生涯学習審議会(1997年)は、生涯学習社会を「人びとが学習を通じて自己の能力と可能性を最大限に伸ばし、自己実現を図っていく社会」というふうに表現しています。生涯学習社会とは、その時その時に学習をしながら自分の可能性を花開かせていくような、そういう自己実現を追及する社会だというわけです。(中略)

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

自己実現というのは、マズローの欲求階層説にある言葉。
「自己実現の欲求」はその下位層にある「生理的な欲求」、「安全の欲求」、「所属と愛の欲求」、「承認の欲求」が満たされた上で出てくる最高次の欲求です。

ちょっと意地の悪い見方かもしれませんけれども、私は、こんなふうに問いかけてみたいと思います。つまり、「自己実現社会」というのは、一皮むけば、人材として要求される能力を次から次へと学んで身に付けていかないと見捨てられてしまう社会。だから、生涯にわたって見捨てられないために、次から次へと勉強していないといけないような社会なのではないでしょうか?

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

この著者の問いを、今の社会だからこそ丁寧に受け止める必要がある、と個人的には思っています。

どんどん変化していく社会に必死になってついていかないといけない。置いてけぼりをくったら、見放され、見捨てられてしまうから、必死になって社会の変化にあわせて自分も変身していく。そういう生き方を強いられているとき、二通りの心の問題が起こってきます。それは「過剰適応の問題」と「不適応の問題」です。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

僕が最近気になっている言葉、「Learn, or Die」。
学び続けることを奨励する構造の裏側には、「自己責任」の論理が染み付いているように思います。
変化し続ける社会に個人ができることの一つとして、「学ぶ主体」であること、を掲げることに問題があるとは思いませんが、例えば「キャリア教育」や「総合的な学習の時間」など、学ぶ主体であれという要求を個人に出し続けることに偏重しすぎてはいないか、という不安を抱くことを禁じえません。
フィンランドでは、それと同時に、学びたいものはいつでも学ぶことのできる環境づくりも並行して行っている印象を受けます。
僕が、日本は、社会全体として「自己責任」を推奨していると感じるのは、この辺りが要因となっています。

自己の物語は、直感的には内発的動機づけにつながるものであり、それは学ぶ主体の必須要件でもあります。
キャリア教育は自己の物語の構成をすべての子どもに対して実施させるという意気込みを感じますが、同時に社会に適応しろ、という社会からの要請を突きつけられる中で、子どもたちが”安全に”自己の物語づくりに集中できるのか、という疑問を感じてしまいます。

自己の物語の構成に成功した人たち

著者の主張を多少乱暴にまとめると、「自己肯定感を高めるためには、自己の物語を構成する必要がある」ということになります。
ということは、「自己の物語を構成することができている人は、自己肯定感が高い」と言っていいはずです。
(論理的には逆が必ずしも成り立つわけではありませんが)

では、具体的にどのような人が「自己の物語の構成に成功した人」なのでしょうか。

今の若者は、私のような古い時代に若者だった者と、自分の定義の仕方、自分の語り方が変わってきているのではないか、と言われています。では、どういうふうに変わってきているのでしょうか。荒っぽい言い方をすると、昔の若者は「大きな物語」のなかに自分を位置づけえたのに対して、今の若者は「小さな物語」のなかに自分を位置づける、ということです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

僕は、この部分に着目しました。
今の若者には「大きな物語」が不在である、という著者の主張。
それは、いったい何を意味するでしょうか。

最近、「社会貢献」を自分が将来解決すべき課題として熱く語る、あるいは実際に取り組んでいる人が増えていると感じます。
地域活性化、貧困の撲滅、教育の改革、国際支援、ジェンダー…。
これは、自分自身の経験と地域や社会、日本や世界が抱える課題を自己の物語に統合している、という見方ができるのではないでしょうか。
政治への関心、地域活動への参加。あるいは、会社全体の課題、将来の発展を見据えた仕事への取り組み。
自分と自分が暮らしている世界とのつながりを捉えている場合、自己の物語は空間的な(物理的な)”大きさ”を獲得することができると考えることができるはずです。

また、「自分が将来解決すべき課題」という言葉には、物理的な広がりだけでなく、時間的な広がりを見ることができるのではないでしょうか。
いくら未来が予測不可能な時代だとしても、将来の自分と今の自分を接続することができる。
将来を語れる、あるいは過去を語れる人の物語には、時間的な”大きさ”があります。

もう一つ、考えられるとすれば、それは“密度”かなと思っています。
つまり、より「自分らしい」物語であるかどうか、物語と自己とが深く連動しているかどうかという点です。
単にその地域出身だから、興味があるから、だけではなく、なぜその対象が自己の物語に統合されているのかを語れるかどうか。
それは自己と物語との統合度合い、物語の密度と呼んで良いでしょう。

例として「立派」なものばかり挙げてしまいましたが、家族や友人と幸せに暮らしたい、好きなことをやっていきたい、地元が好きだからここに住んでいるだけで幸せ、でも全然構わないと思います。
要は、上に挙げた3要素によって物語の大きさを支えているわけですから。

実際のところ、僕自身は大きさと密度とをバランスしながら自己の物語をつむぐということが重要であると考えています。
いずれにせよ、大きな物語が不在となる中で、より物語を大きくしていこうという流れは確実にあるでしょう。
その流れが、まだまだ社会の中ではマイノリティであるとしても。

とはいえ、社会全体の変化のスピードが増し、”正解”と”不正解”の境界が曖昧になっている現代においては、自己の物語を拡大し、かつ密度を上げるという作業は困難なものがあります。
その作業を自力で行わなければならないという現状までも、社会構造の不備として捉えるべきか、時代の要請として抗えないものとして捉えるべきか。

ここは、個人的に、もう少し慎重になって考えて行きたいところですね。

あり方を考える

幾分脱線気味に話を展開してしまいましたが、このように自己の物語を構成するという事態にはすべての人が直面するはずです。
自己の物語への統合という問題は、単にカウンセラー-クライアントという特殊な状況のみならず、すぐ隣にいる家族や友人も抱えていることです。
この状況を認識することが、自分自身のあり方を変えるきっかけとなりうるのではないか。
僕自身は、本書を読みながら、明確にそう思うことができました。

本書を誰にでもおすすめするつもりはありませんが、自己のあり方、特に他者とのかかわり方について深く考えている人にとって、カウンセリングの概念は何らかの示唆を与えてくれる、そんな可能性を感じています。


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