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良質な問いを追及するアクションラーニングについてのメモ

カテゴリ:読書の記録


小さな組織の多忙感について」という記事にも書いたが、
海士町の多くの組織が中小企業規模であり、
マンパワーで基礎を築き上げていく零細期から
次の段階に向けての課題に直面しているケースが多いように思う。

ぼんやりとした課題意識から出発し、
組織を越えてお互いの問題を共有するような場として
有志で勉強会を開こう、というのが最近の企て。

その勉強会のネタとして冒頭の本に代表される
「アクションラーニング(以下、AL)」を導入しようと考えている。

アクションラーニングは、グループで現実の問題に対処し、その解決策を立案・実施していく過程で生じる、実際の行動とそのリフレクション(振り返り)を通じて、個人、そしてグループ・組織の学習する力を養成するチーム学習法です

アクションラーニングとは | NPO法人 日本アクションラーニング協会

実践 アクションラーニング入門」は、平易ではあるものの
生真面目さが少しとっつきにくいところであった。
ALの本質を追及するにはうってつけだと思うが、
もう少しライトに全体像を把握する上では別の書籍を参照した。

以下ではこの「質問会議」を引用しつつ、
整理のためにALのポイントとなりそうな部分をまとめておく。

なお、僕はこれまでに二度ほどALを体験している。
実体験に基づくので多少偏ったまとめになるかもしれない。

アクションラーニングの概要

ALとはざっくりと言えば会議形式の一つである。
その大きな特徴は三つ挙げられるだろう。

1.「質問」と「回答」によってのみ情報がやり取りされること。
2.チームとしての学習にコミットしたALコーチの存在。
3.参加者が直面する現実の課題解決を取り扱うこと。

「質問」と「回答」のみで構成されるという点が特に面白い。
「問いを立てるのがリーダー、その問いに答えるのがマネージャー」
などという言葉もあるが、ALでは徹底的に「質問」を重視する。

様々な問題解決の指南書で指摘されているように、
問題発見とその明確化は問題解決の1stステップと言われている。
そして、良質な問いは問題の輪郭を明瞭にし、
問題の本質をつかむ補助線となるという信念がALにはある。

また、単に組織の問題解決を促すのではなく、
ALの過程においては参加者の学習と成長も主な関心事となる。
問題解決の中で問題解決体質を植え付けるといえばよいだろうか。
「成長」にコミットしたポジションを1人配置するという徹底ぶりである。

各々が、現場で抱える実際の問題を持ち寄り、
その問題を解決するための「質問」と「回答」を繰り返す。
そうして問題の精緻化と解決のための行動計画を策定する。
ALコーチはこのプロセスの中でメンバーの学習にコミットする。
これがALの基本的な構成となる。

アクションラーニングが求められる背景

そもそも、このような会議体がなぜ必要とされるのだろうか。

ある大手企業の方がこんなことを言っていました。
「20年前の上司なら、部下の疑問・質問には100%の回答をもって導いてくれた。課長であれ、部長であれ、何をたずねてもはっきりとした指示を出してくれたし、どうすればいいか迷ったときには、いつも頼れる人だった」
この言葉は、「現在はそうではない」ことを示唆しています。

質問会議 なぜ質問だけの会議で生産性が上がるのか?

変化が激しく、問題が複雑化しているのだから、
既に答えを知っている人などいなくなってしまった。

いま必要なリーダーシップとは、解決策をチームメンバーから引き出すことのできる力です。リーダーは自ら答えをもたなくとも、メンバーが答えを発見できるような場や雰囲気をつくり出す必要があります。

質問会議 なぜ質問だけの会議で生産性が上がるのか?

ALという手法は、良質な問いを立て、
それによってチーム活動を活性化し、問題解決を促す。
問題発見・問題解決のサイクルを
自発的に回す組織づくりにうってつけだと言う。

なぜ「質問」なのか、なぜ「質問会議」なのか

改めて、「質問」の意義とは何か。
「質問は思考を促す」というのがその端的な理由になる。
質問というインプットに対し、何らかのアウトプットを出そうとする。
逆に「意見」は聞く側を思考停止にさせる恐れがある。

この質問を会議体に持ち込むことの利点は、
誰かの質問が、質問された相手だけでなく、
その周りにいる人の思考も促すという点にある。

「自問自答」は思考が一人で閉じてしまうが、
「他問他答」は、「I think」を「We think」にする。

これはチームの関係性向上にも役立つ。
上司が会議を支配し、喋り続ける場では誰も口を出せない。
一方的な指示では背景の理解まで至らない。
質問とその回答にフォーカスすることで平等な場が生まれ、
円滑で安心できるコミュニケーションが可能となる。

ダニエル・キム氏が提唱する「成功の循環」がある。

関係性の質→思考の質→行動の質→結果の質

ALでは前の二つに重きを置くことで、
チームとして結果を出し、関係性がさらに向上する、
そうしたサイクルを生み出す仕掛けと言える。

特に視点を変える質問は有効だ。
これを「質問会議」では「共鳴質問」と呼んでいる。

Aさんの視点を変える質問
 →Bさんは返答を考える
 →他のメンバーがBさんと同様に返答を考える
 →新しい視点を受けてさらに異なる視点の質問を考える

このようにチームとしての働きを促進し、
問題発見・問題解決の力を育むのが質問というわけだ。

学習を促進するALコーチの役割

ALコーチの役割についてもごく簡単に触れたい。
一言で言えば「質問会議」の学習効果を司るのがALコーチだ。

ALコーチに求められるのは、チームが信頼を基盤に、円滑なコミュニケーションとチームワークをはかれる場や雰囲気をつくる知恵を備えていることです。自らの問題の解決策を提示するのではなく、チームが一緒に考え、行動することを促進し、メンバーみんなでそれができる場をつくることが役割です。

質問会議 なぜ質問だけの会議で生産性が上がるのか?

ALコーチは会議の問題解決に介入するという形でなく、
メンバーにリフレクション(内省、振り返り)を促し、
気づきを生む機会を与える、という形で役割を果たす。

やり取りが閉塞的であるとか、思考に偏りが見られるとか、
セッションの中でメンバーの学びと成長に問題を感じたとき、
ALコーチはいつでもセッションを中断させ、
メンバーにリフレクションを求める権利をもつ。

問題解決でなく、チームの成長にコミットする。
そうした役割が一人いることはALの大きな特徴だ。

ALコーチはある程度の専門性が求められるが、
メンバーが順に回していくのでもよい、と言う。
その経験自体がメンバーの学習の契機になる。

 

終わりに

ALの概要を本当に簡単にだがまとめてみた。

具体的な実践の方法については、
海士町での勉強会の企画書という形で紹介してみたい。

 


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「コミュ障」の原因と克服の方法を自分でなく他者に求めてみる

カテゴリ:世の中の事


「コミュ障」を「信頼」の問題と捉えてみれば

コミュニケーションに何らかの困難を抱えている人に対して
やや揶揄的に(あるいは自嘲的に)「コミュ障※」というタグが付くようになった。

「コミュ障」の特徴については読者のイメージするところに委ねるが、
こうした状態はより端的にこう言い換えられるのではないか。

コミュニケーションする自分も相手も信頼できていない状態

「コミュニケーション能力がないと思われるのではないか」
「相手は自分に興味を持ってくれないのではないか」

冒頭のツイートに戻ると、「黙る」から「喋る」への移行を通じて、
コミュニケーションする二者への信頼は高まったのかが問題となる。

※「コミュニケーション障害」の略。
ここでは学術用語の射程外にある用法について扱っています。

「自分を変える」は不信から始まる

「黙るコミュ障」、「喋るコミュ障」という表現に注目してみると、
コミュ障の克服のために「自分」を変えようとしているのだと読める。

「面白い話ができる」「相手の興味・関心を引くことができる」
そんな自分になるために「黙る」から「喋る」への移行という試み。

これはコミュニケーションする二者への不信から始まっている。

「黙っている自分は無価値だ」、そんな価値観が見て取れる。
それはつまるところ「自分」への不信だ。

「面白く喋らないと、相手は自分の話なんて聞いてくれない」
ここには「相手」への根本的な不信が存在している。

根っこの部分にネガティブな感情があると辛い。
変化の結果によってポジティブな状態に到達できればよいが、
そうでなかった場合のダメージ、揺り戻しもまた大きくなる。

このやり方はダメとは言わないし、選択肢の一つとは思うが、
万人に推奨する方法としてはリスクが大きいかもしれない。

聞き手を変えてみる

「自分」と「相手」への不信が原因であるとすれば、
逆に信頼してみることから始めるのもありではないか。

もちろん、深く根差した不信を変えるのは難しい。
そこで「信頼できそうな相手を見つける」という方針をとる。
話を聞いてくれそうな他者を探してみるのだ。

そもそも、本来なら家族や友人など
身近な人に話を聞いてもらうことを通じて、
人はコミュニケーション能力なるものを身に付けていくのだと思う。

話を聞いてもらえたという経験がないから、
「自分に問題があるのか」、「相手にとって自分は価値がないのか」、
そんな不安を抱え込んでしまうのだと思う。
聞き手であった他者に原因を求めるとは、そういうことだ。

だから、自分がしたい話を聞いてもらえる相手を見つけてみる。
共通の趣味をもつ人でもいいし、誰にでも優しい人でもいいし、
顔も合わせたことがないWEB上のつながりでもいい。
依存的になると相手に負担がかかるので、とりあえず1回だけでいい。

話すという行為のカギを握るのは聞き手である

僕自身、とあるロールプレイを経て強く実感したのだが、
話すという行為は、聞く人の姿勢や態度に大きく左右される。

話を聞いてもらえる、安心して話したいことを話せる。
そのためには自分でなく聞き手を変えた方が手っ取り早い。

良い聴き手の代表例であるカウンセラーは「聴く」専門家だ。
逆に言えば、カウンセリングに通うクライアントの語りというものは
専門性をもつ聴き手によって成り立つとも言える。

「自分の話には価値がないのではないか」と感じるならば、
それは聞き手がそういう聞き方をしてしまっているに過ぎない。

人間不信、コミュニケーション不信がいきすぎる前に、
自分ではなくコミュニケーションする相手を変えてみる。
話し手に安心感を与えてくれる聞き手を見つけてみる。
(或いは、そういう他者がどこかにいるはずだと考えてみる)

そうして救われる人は、割と多いのではないかと思う。

仮説:「コミュニケーション能力」という嘘

コミュニケーションにおける聞き手の影響力を考えると、
「コミュニケーション能力」が個人に問われているということが、
「コミュ障」というタグ付けが起こる要因であるように思う。

繰り返しになるが、コミュニケーションは相手がいて成り立つ。

相互作用で育まれるものの見た目上の欠如の原因を
個人の責任や努力不足に求めることが果たして適切だろうか。

「コミュニケーション能力」の有無が「障害」と呼ばれるほどに、
ある人にとってその発達がとても困難なものとなっているのは、
そもそもの捉え方が間違っているからではないか。

「コミュニケーション能力の低下」を認めるならば、
それを育む聞き手の不在という社会全体の問題に帰結する。

そもそも「コミュニケーション能力」なるものが
個人の努力以外の影響からも左右されるとすれば、
「コミュニケーション能力」なるものは個人の課題ではなく、
それはむしろ社会的なものとして、或いは社会そのものの”能力”として
再定義されねばならない、という踏み込んだ見方もできる、と思う。


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抽象的思考、または知る前に分かろうとする態度について

カテゴリ:自分事


読書という趣味

僕は身の周りの人と比べればよく本を読む人間で、
読む本の種類も、偏りはあれど幅広い、というささやかな自負があった。

「なぜそんなに本を読むのか?」

僕の蔵書にある類の本を普段あまり読まない人、
またはそもそも読書が趣味ではないという人からたまにそう聞かれる。

「本がつながっていく感覚がたまらないから」

例えばそんなふうに答える。
これは実際に僕が今のような選書のスタイルをとりはじめた経緯でもある。

読み終えたときに次の関心や参照すべきテーマが見えてくれば、
あとは引用や参考図書の欄だろうが、誰かのブログだろうが、
その関心やテーマに沿った本との出会いを待てばいい。

興味・関心がホットであれば出会い頭に購入するし、
とりあえずストックしておいて、ふと思い出したときに買う、ということもある。
一度ストックしておいた本に、また別の文脈で再会するのも嬉しい。
そうして時機の熟成を待つという楽しみ方もあったりする。

知識としての記憶、理解としての記憶

たいていの場合、本の内容についての記憶はほとんど残らない。
特に知識として残っているものは断片的で、
サマリーとしてのぼんやりとした理解しか残らないことが多い。

知識として残すためにはもちろんそれなりの作業が必要で、
一冊一冊にそれだけの時間を投入していないのだから、
残っていないのは当然で、それでよいと思っていた。

ところが、ここ数日は自信が持てなくなっている。
理解に偏った読み方をするとわかりやすく都合がよい情報しか残らない。
それは今まで読んできた本の価値を損ねることになりかねず、
自分の中のストックにならない行為ではないか、と。

ブログに書評を残す意義

それでも何らかのインプットの軌跡として、
ブログに書評のようなものを書けるものなら書く努力はしていた。

しかし、自分の書評記事を読み直すと、
いかにその本を自分なりに解釈するかに関心が向いているように思える。

もしかするとその本自体を知識として身の内に収め、
著者の言わんとすることに真摯に向き合っていないという見方もできる。

結局のところ、本のエッセンスを読み解くことにばかり気を取られ、
一語一語、一文一文を軽視しているのかもしれない。

抽象的思考の果てに

つまり、いかに具体の事柄を抽象化するか、にだけ目がいっている。

思えば、小学生の頃から人の話を最後まで聞くということが苦手で、
2割だけ聞いて全体を推測し、サマリーだけ頭に収めるという
雑な授業態度をとっていた自覚はある。それは今でもあまり変わらない。

事物のエッセンスを抽出することには熱心だから、
無関係な事柄の共通性を無理やり見出してつなげる、という芸当は得意だ。
素養としては「アイデア出し」や「デザイン思考」に適性があるはずなのだと思う。

選書の方法も、抽象化の産物である、と思う。
あまり人が手を出さないような書籍も本棚に並んでいるのはそのせいだ。

抽象的思考偏重は、僕の中で限界を迎えつつある。
ストックが蓄積される実感がだんだんと持てなくなり、
出会ったものにはすぐにグルーピングやラベリングをしたがる。
目の前の具体のものから得られる情報量も減っているかもしれない。

世界を新鮮に見る姿勢に欠けるのは、僕自身の責任によるものなのだ。

4. “同じ”にするとは抽象化するということ

 人の”同じ”にしてしまう能力はいわゆる”抽象化”という言葉で表現できる。抽象化とは対象から重要な要素を抜き出して他は無視すること。人は抽象化によって、あらゆる物や現象に対応する言葉を作ってきた。世界に全く同じ物や現象は存在しないが、それら個々の小さな差異を無視する(抽象化)ことによって言葉が生まれる。

鈍感な人は抽象的な思考ができる人 – Floccinaucinihilipilification

まさに僕のことを言っている、そう素直に受け取った。

抽象化の罠から抜け出すために

西村さんが「かかわり方のまなび方」の中で、「風姿花伝」という本に触れている。

この本は明治42年にある大学の教授によって現代語に直され、以来多くの人に読まれるようになった。が、それ以前は秘本で、能のお家元の人たちも若いうちは読むことを許されなかったという話を以前聞いたことがある。歳月を重ね、芸については十分研鑽したと思える頃になって初めて紐解く。そんな書物だったようだ。
秘本とされていた理由は何だろう。経験が十分でないうちに他人が整理した言葉や視点、価値観や要所を得ると、むしろそこで失われてしまうものがあるということ。たとえ内容が本質的で真理を突いていて、きわめて普遍性の高いものであっても、他人の言葉を通じて知ることと、自分の経験を通じて感じ、掴み取ってゆくことの間には大きな隔たりがある。場合によっては、それは損失にもなりかねないということを、あの書物を受け継いでいた人々は重視していたんじゃないか。

かかわり方のまなび方: ワークショップとファシリテーションの現場から

抽象化思考の危うさを感じ始めている今、この文章は胸に刺さる。

実際に体験したことからはテキストの何倍もの情報量を得られる。
もしかしたら洗練された言葉に比べてノイズが多いかもしれない。
だからこそ、プロセスとしての抽象化にリアルな厚みが出てくるし、
抽象化自体の精度が上がるような道程をたどれるとも言えるだろう。

「もやもやした体験」は、語られることで他人と共有され、社会化され、意味がはっきりしてきます。ここでは私は、「体験」という言葉と「経験」という言葉とを区別して使っています。「体験」→「経験」の間に「語る」という作業が入ることによって、語る相手の人と共有されるのです。「体験」は、まだ自分だけのなかに留まっています。それは、誰か他人に語ることによって他人と共有される「経験」になります。他人に語るということは、他人に自分の「体験」をわかってもらえるように語らないといけませんね。そこには、他人に伝わるように、わかるように語ることによって、自分の「体験」を他者と共有し、社会化していくという意味が含まれます。相手にわかるように語られてはじめて「体験」は「経験」になるわけです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

高垣氏がいう、「体験」→「経験」の見立てにも通ずるものがある、と思う。
抽象化されたテキストとは、自分の内から言語化された「経験」ではなく、
「体験」を経由していないという意味で借り物のの言葉にならざるをえない。

読書であっても、それを体験として素直に受け止めること、
あるいは受け取れなかった際の違和感を大事にすること、
そんな些細なところに抽象化の罠を避けるヒントがあるように思う。

世界から受け取る情報をはじめからフィルタリングしている場合じゃない。
そう思いながら、少しずつでも日々の彩りを自ら取り戻していきたいと願う。


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