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「U理論」の15章までのメモ―”答え合わせ”のために

カテゴリ:読書の記録


いよいよ着手した「U理論」。そもそも600ページ近い分厚さなのでぼちぼち読み進めている。1ヶ月ほど経って15章まで。ちょうど15章がひとつのまとめになっていたので、一旦ここで区切って自分なりの捉え方をまとめ、その後を読み進める際の比較材料としたい。とにかく用語が多く咀嚼しきれていないものも多々あるので、一つ一つ細かく取り上げるようなことはしない。また、自分の理解のためのメモなので、本書では使われていない表現も用いている。

社会システムや構造はある状況(コンテクスト)の中にいる人々によって具現化され、一方その状況(コンテクスト)は人々の場に対する意識を決める。そしてどのようにそれが行われるかを決定するのは、意識を生み出している源(ソース)である。

U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術

ここから、「源(ソース)」が最も根本的なものということをざっくりと読み取った。そして、その「源(ソース)」は4つの異なる領域構造を持っている。

◆私の中の私[I-in-me]……自身が組織化した境界の内側にある中心から行動する(領域1)
◆それの中の私[I-in-it]……自身が組織化した境界の周縁から行動する(領域2)
◆あなたの中の私[I-in-you]……自身が組織化した境界の向こう側から行動する(領域3)
◆今の中の私[I-in-now]……自身が組織化した境界を越えて出現している領域から行動する(領域4)

U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術

領域(フィールド)1~領域4のどこに位置する源(ソース)から行動するかによって、それぞれ異なる形で社会に何らかの影響やパターンがもたらされる。本書で示される「会話の現実創造」の例に当てはめて考えると分かりやすい。

領域1においては、会話は「ダウンローディング」で行われる。ある事象に対して反射的に、あるいは習慣的に「いつものやり方」で反応する。

領域2は「討論(ディベート)」。討論(ディベート)は異なる意見が複数あって成り立つ。領域1においては「異なる意見」の差し込まれる余地がないのだから、それに比べて視野は広がっている。が、あくまで「あれかこれか」という対立的なやり取りに収まってしまう。

領域3は「対話(ダイアローグ)」。討論(ディベート)と異なるのは、「あれもこれも」という視点だ。その場にいる誰かの意見だけが正しいのではなく、それぞれがそれぞれの視点で事象を眺めていることに気づく。悪者探しをするのではなく、自分自身がそのシステムの中に組み込まれ、そして影響していることを自覚する。

そして、「プレゼンシング」の段階が待っているのが領域4だ。プレゼンシングというのは「presence(存在)」と「sence(感じ取る)」からなる筆者の造語であり、ここは僕自身もどういう状態なのかぐたいてきなイメージがない(が、そういう段階がある、ということはなんとなくわかる気がする)。この段階に到達すると、そこにいる人たちが集合的なつながりを感じ、「根本的なところからアイデンティティや自己を転換させる」。なんとなく、これまで「ダウンローディング」のときに用いられた習慣的に形成してきた”自分”という境界を崩す、ということなのかなと理解している。

この領域1~4のうち本丸はもちろん4だ。あらゆる事象が絡まり複雑化を増す現代の課題は、ほとんど過去から学ぶことで対応できるものではない。そうではなく、これから「出現する未来」に耳を傾けることが必要というのが本書の主張だ。ただ、一方でまずは3,4を目指すべき、というメッセージが本書の中に埋め込まれている要にも受け止めている(逆に1,2は批判的に書かれているように感じる)。この4領域の区別と、それらをどう行き来するかという方法がこの「U理論」の肝であるはずで、だからあえて自分なりの例えを用いた説明を試みたい。

領域1:「あれはあれ」
自分が眼鏡をかけていることを自覚できていない。自分と他人の眼鏡が同一だと思っている。あるいは、眼鏡の違いを恐れてみな同じ眼鏡であるかのように振る舞おうとする。

領域2:「あれかこれか」
異なる種類の眼鏡があることは認識しているが、どの眼鏡がベターかを争っている。

領域3:「あれもこれも」
眼鏡はある程度付け替え可能であることに気づき、眼鏡を取り替えてお互いの見え方を体感し始める。

領域4:「あれにもこれにも」
そこにいる人たちの眼鏡からそれぞれ見えるものを重ね合わせたり組み合わせたり結び付けたりすることで、これまで見えなかった(見ようとしなかった)ものが見える。

U理論を読み進めて気づいたのだけれど、僕の頭の中のイメージでは「領域3」までが到達すべき点だった。細々と勉強しているアクションラーニングも、少なくとも「領域3」まではマストであることを示してくれている。アクションラーニングの中で出てくる”良い”問いはたいてい「領域3」に結びついており、質問者の前提を押し付けることをしない。むしろ、問題の当事者こそがその問題のへの回に最も近いはず、というリスペクトがある方が割とすんなりいく。それは、当事者自身も質問者も”眼鏡”をかけている、というわきまえからしか生まれないようなやり取りではないかと思う。

 

もうちょっとまとめようと思ったけど、やはりU理論難しい。あとは続きを読み進めて自分の理解を確かめてみることにする。


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受け手をバカにしないエンターテインメントのために

カテゴリ:自分事


娯楽の意義を考えたことがなかった

先日、五城目町から、実家の大仙市神宮寺へと帰省したときのこと。実家では意識せずともだらだらと時間を過ごすことになるのだけど、今回はWOWOWでたまたまやっていたミッション・インポッシブルの1と2を観た。元来、映画という娯楽に時間を費やすことにはどちらかというと消極的だった僕は、誰もが知るこのシリーズを、恐らく初めてほぼ通しで視聴したのだった。そして、実家から戻ってきたこの1週間の間に、Amazonプライムで視聴可能なMIシリーズをすべて観終わったのが、ついさっきのことだ。なんというか、率直に面白かった。単に消費者でいられることのありがたさにもたれかかることができて、おかげでハードな週の諸々からリフレッシュできたような気がする。

なんとなく避けてきた王道シリーズを制覇してみようと思ったのは、きっと、6月から受講を始めたオンラインの文章講座の影響だと思う。その講座で提供されているライティングの技術は、これまで僕がブログ等で培ってきたそれとは、似ても似つかぬものだった。不慣れな書き方に当初は悪戦苦闘していたのだけれど、段々とコツをつかめてきている。テニスで例えるなら、一発で勝負を決めようと欲を出せばすぐミスをするが、多少はラリーがつながるようにはなった、という段階だろうか。

その文章講座が目指しているものを一言で表すとすれば、それはきっと「エンターテインメント」、つまり娯楽なのだと思う。一方、僕がブログで日々書く文章は、娯楽性に欠けたものが多い。いや、むしろ、僕という人間の性質がそもそも、これまで娯楽を好んでこなかった。純粋に楽しく面白いだけの小説は、もちろん「面白い」のだけれど、それだけでは物足りないのだった。僕は、その後に自分の中に残るものに重きを置いているのだから。

そして、テレビゲームよりも受動的でかつ純粋な娯楽をスルーしてきたために、僕はエンターテインメントの意義というものを考える機会を逸していたということがわかった。それを気づかせてくれたのは、その文章講座と、MIシリーズだった。

エンターテインメントの難しさ

エンターテインメントの価値について、素晴らしい文章をたまたま見かけたので、引用してみる。

そもそも、エンターテイメントをはじめ、娯楽というものは、受け手が自分自身の価値観を肯定するために存在する。
娯楽とは、そのための手段のようなものだ。

作品を通じて私たちは、自身の中にある感情や価値観は正しいのだと認識(肯定)し、自身の価値観や人格を作り手と共有する。
それにより満足や充実感を得る。
「楽しい」とか「面白い」とかいう感覚は、その結果として生まれる副産物みたいなものだ。

音楽をはじめ、あらゆる娯楽が存在する理由 MY GREATEST TRACKS

エンターテインメントは、自己肯定を深めるものであり、その副産物として「楽しさ」「面白さ」がもたらされる。どれだけfunnyあるいはinterestingであっても、自己肯定につながらないコンテンツはエンターテインメント足り得ない。

そこで、僕は根本的な問題にぶち当たることになった。エンターテインメントとして、純粋に読んでいて楽しめる文章にしようという試みが、自分の中でしっくりこないのだ。書いていて楽しくない。今はスタンスを矯正している途中だから、修行みたいなものだ、楽しくなくてもしょうがない。そんなふうに思いながら、書いていた。

あるとき、知り合いに、「この講座で書いている文章より、普段のブログの方が、僕は好きだな」と言われた。なるほど、確かに、ブログを書いているときのほうが、個人的にワクワクすることが多い。それは、自分の自己顕示欲を満たせるから、というのもあるが、どうもそれだけではないような気がする。もっとシンプルに、書いている文章に自分で納得感があるかないか、という問題がある。

そこではたと気づいたのだった。そうか、読む人を楽しませよう、読む人をまるっと肯定するような文章を書こう、そういう意識が、知らず知らずのうちに、読み手の知識量や理解力を低く低く見積もろうとしていたのではないか、と。言葉を選ばずに言えば、僕は、エンターテインメントを意識するあまり、受け手をバカにしてしまっていたのかもしれない。

ブログは、率直に自分のために書いていた。自分の土俵だからだ。広く一般に読まれなくてもいい、そういうスタンスだったから、自由に書けた。今は、広く読まれる文章を意識して書いている。不慣れなチャレンジを通じて、僕はどこかで大きな誤解の中に迷い込んでしまっていたのではないか。

それは、これまで自分自身がエンターテインメントを敬遠していた理由でもある。思えば、僕が受け手として喜んで享受していたエンターテインメントとは、受け手の知性を信頼するものであったと思う。ブログも、好き勝手に書きながら、わかる人に届いたらいい、くらいのつもりで書いた。それは、書いている自分としては、相手をバカにしなくて済んでいたから、納得感があった。

そもそも自己満足に書いていた文章だから、まずは相手のために、というスタンス変更で時間をくった。しかし、次に、楽しませようということばかりに目がいき、まるで子どもだましのように相手の知性を低く見るようなスタンスをとってしまっていた。

その後の結果は明らかだった。読み手の知性を信頼して書いた文章が、やはり良い評価を得た。

肯定と否定の間

エンターテインメントが自己肯定するためのものというのは、確かにその通りだろう。だけど、否定的な状況まで肯定するのは、倫理に反しているような気がするし、書いている側が楽しくない。大事なのは、コンフォートゾーンとストレッチゾーンのバランスとか、ほどよく想像力や創造性をかきたてるコンテンツをつくりだすことなのかな、と今は思う。人は、変化を拒み、現状を維持したいと思う一方で、自分の成長を願うものだから。

そういう意味で、学びや気づきのある、つまり、ささやかながら変化を起こせるような、そういう文章を書けるようになりたい、と思う。強い変化を求めるコンテンツは、きっと傲慢で、つまりコンテンツ足り得ない。そういうバランス感を身に付けていきたい。

 


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学びとは何か:パラダイム変容に必要な理論を武装する

カテゴリ:読書の記録


ディープ・アクティブラーニング」を読みながら、これからの授業や学習の在り方を考えるためには人間が何かを学習するシステムについて知る必要を感じるようになった。そこで手に取ってみたのが本書である。心理学の研究成果が平易な表現で紹介されている。内容は専門的なので、読者は選ぶだろうが体系的にまとめられている安心感があるのが良い。

不満があるとすれば、用語や理論について出典がないことだ(参考文献は最後にまとめられている)。そのため、認知心理学などを修めていない読者は、必然的に本書の内容だけが唯一の体系だった理論として捉えてしまう恐れがあるように思う。

知識・記憶・スキーマ

本書は、「知識とは何か」「記憶とは何か」という問いから始まる。その問いへ答えるための道具として、筆者は「スキーマ」という概念を持ち出している。

私たちは日常で起こっている何かを理解するために、常に「行間を補っている」。実際には直接言われていないことの意味を自分自身で補いながら、文章、映像、あるいは日常的に経験する様々な事象を理解しているのだ。行間を補うために使う常識的な知識、これを心理学では「スキーマ」と呼んでいる。

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

このスキーマは心理学者のピアジェが提唱した発達理論の中に出てくる概念らしい(が本書ではその言及がない)。

人は、何か新しいことを学ぼうとするときには必ず、すでに持っている知識を使う。知識が使えない状況では理解が難しく、したがって記憶もできない。つまり、学習ができない、という事態に陥ってしまう。言い換えれば、すでに持っている知識が新しいことの学習に大きな役割を果たしているのである。

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

知識が知識をつくる。これは例えば英単語の単純暗記のような学習が前提とする知識習得のモデルとは異なる認識に立っているが、しかし一方で直感的に納得がいくところもある。個人的な経験でも、世界史の試験前に用語や人物名だけ反復して覚えようとするよりも、ストーリーとして事象のつながりを理解し、資料集のコラム欄にあるような試験に出ない知識までカバーした方が、結果的に記憶に残りやすく、試験時の再現性も高かった記憶がある。

新しい知識が習得されるとき、スキーマは具体的にどのような役割を果たすのか。外界からの情報を解釈するフィルターと捉えるとわかりやすい。

日常生活における記憶は「客観的な出来事の記録」ではなく、知識のフィルターを通して解釈され、構築されたものなのだ。

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

知識は個々人のスキーマによって理解のされ方が異なるということであり、したがって極端な話をすれば、あらゆる個人の知識は「思い込み」である、とさえ言えるのかもしれない。もちろん、思い込みの精度の違いはあるにせよ。

学習のプロセス

人は、思い込みを積み重ねて学習をするとしたら、知識はあらゆる人に共通した形で頭の中に収められるのではなく、その都度既存の知識を駆使して発見されるものと言える。しかし、ある時点で、既存の思い込みが新しい知識習得の妨げになるケースに遭遇してしまう。誤ったスキーマを克服しなければ、新しい知識が自分のものにできない、ということだ。その典型的な例が、子どもたちの多くがつまずく「分数」や「小数」の概念である。

「数はモノに対応する自然数である」という誤ったスキーマは、割り算の理解を難しくするだけでなく、比や割合、密度の概念などの理解も困難にする。

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

実体験をベースにしてスキーマは構築されるのだから、数は自然数以外にも存在する、という抽象的で目に見えない概念に至るのは難しい。それこそ学校等の現場で直感に頼らず体系的に学習することの重要な意義なのだろうが、とはいえ子どもたちがつまずいたままでは結局その後の学習に大きな影響があるということになる。

スキーマの書き換えが難しいのはなぜか。知識の習得がスキーマによる解釈を経て実現する以上、スキーマの構造を強化するように情報が加わる点にある。さらに「確証バイアス」、すなわちスキーマに都合の悪い情報は無視しがちになるのもその理由だ。だからといって「誤りのないスキーマをつくる」ことはできない。それはスキーマが「人の自然な世界の認識のしかたを反映して自分でつくるもの」だからだ。

人が科学や外国語を学び、発達していく上で大事なことは、誤ったスキーマをつくらないことではなく、誤った知識を修正し、それとともにスキーマを修正していくことだ。

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

まさにこれは「学びほぐし(unlearn)」の重要性を言っているように思う。

「知識」観と熟達

知識は常に変化をつづけている流動的なものだし、最終的な姿は誰にもわからない。最終的な姿がわからないのにシステムを構築するためには、要素を増やしつつ、それに伴ってシステムも変化させながら、成長させていくしかない。「生きた知識のシステム」を構築し、さらに新しい知識を創造していくためには、直感と批判的思考による熟慮との両方を両輪として働かせていく必要がある。

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

この知識観は既存のものと大きく異なることが分かる。ここでいう「生きた知識」とは、穴埋め問題は解答できるが記述式問題には太刀打ちできない、という丸暗記の世界とは真逆のものだ。つまり、既存の知識と関連付けられ、主観的な解釈により発見され、システムの中で息づき、身体の一部として使えるような知識のことを指すようだ。

変化し続けるシステムだからこそ、「熟達」というプロセスが可能なのかもしれない。思い込みを発揮して知識をどん欲に吸収しながら、一定の限界に達したときに思い込みを修正するというダイナミズム。「詰め込み教育」に代表される日本の伝統的な学力観に自然と疑問符が浮かぶ。

感想

「教授パラダイム」から「学習パラダイムへ」。
この転換を自分なりに追い続けているわけだが、その背景には心理学の研究成果が横たわっていること、これまでの知識観・学力観が時代の変化に追いついていないことが徐々に見えてきた。そろそろ「構成主義」や「社会的構成主義」についてもう少し具体的に踏み込む必要があると感じている。あと、動機づけについても。

とにかく、これからの教育について考えるならば、本書はその入門としてよいきっかけを提供してくれるように思う。


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