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【求人】島前高校魅力化PJで求人してます @ Wantedly

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隠岐島前高校魅力化プロジェクトで求人を出しています。

ご興味ある方、ぜひご連絡ください。

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「島前高校魅力化プロジェクト」の書籍が出版されました

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今更だが、島前高校魅力化プロジェクトの書籍が3月25日に出版されている。

2010年11月から関わり始めたこのプロジェクト。
5年にも満たない年月の中で大きな変化があった。
そして、これからも変化は起こり続けるのだと思う。

4月末には石破・地方創生担当大臣が来島した
地方への注目度が集まる中、海士町のまちづくりや
高校魅力化プロジェクトの取り組みに対する関心も、
今後ますます高まることが予想される。

このプロジェクトに微力ながら関わる人間として、
個人的な見解をここにメモしておこうと思う。

火が収まるのを待つ時間のない中で

プロジェクト発足当初、隠岐島前高校にとって、
「統廃合」という成り行きの未来は目前にあった。

全国から入学希望者が集まる高校となるために
本質的な魅力の追及を目指した一方で、
変化を待つだけの時間的な余裕はない。

炎の中に素手で手を突っ込むように、
本丸に飛び込んで変化を起こす。
そうして逆境を乗り越えていた部分は大いにあったと思う。

魅力化モデルの手段と目的

隠岐島前高校は小規模校の統廃合という全国的傾向に抗い、
むしろクラス数を2倍に増やして存続への道を歩みだしている。

しかし、言うなれば「自然な流れ」に逆らうことで、
当然のことながら数々の障壁に直面することとなった。

離島中山間地域にとって、このプロジェクトは一つの希望となる、と思う。
ただし、それが唯一解ではない、ということもまた念頭に置かねばならない。

「魅力化」の本質は高校の存続ではないし、もちろんクラス数増でもない。
魅力的な教育環境を整え、地域の教育力を向上させ、
地域の担い手を自ら生み出す循環をつくりだすことではないか。

端的に言えば「魅力化」とはただそれだけに過ぎず、
これまでの取り組みはそのための手段でしかない。

したがって、あらゆる地域の学校が今の規模を維持する、
あるいはもう少し規模を回復させる必要があるわけではない。
むしろ、なるべく大きく残そうとするほど抵抗もまた強くなる。
(少子高齢化のために全ての学校を維持できないのは明白だ)

「大きな学校」モデルのオルタナティブとは

規模の縮小を食い止めるモデルが唯一解ではない。
-100を無理に0以上にするだけが「魅力化」ではない。

むしろ、文科省や都道府県教委が喜ぶ「統廃合」の方向性に対し
ある部分では積極的に便乗しながら、しかし完全に同意するのではなく、
一定の品質が担保できる規模に縮小させるという手はないのか。

通称「魅力化本」と呼ばれる本書を通じて
改めてプロジェクトの歴史を振り返る際に思い巡らせたのは、
このプロジェクトのオルタナティブだった。
幸いにして、国土の広い中国やオーストラリア等で
参考になりそうな事例がいくつかあるようだ。

これまでと少し異なる「小さな学校」モデルを検討する。
それをこの1年間の自由研究のテーマとしてみたい、と思う。

 

※今春卒業した島前高校の生徒が書いた本も出ている。
もし興味があればこちらもぜひ。

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“give and give”の精神は多数の”take”から始まるかもしれない

カテゴリ:世の中の事

「日々、周囲への感謝を忘れないようにしなさい」

この耳障りの良い言葉には、見落とされているものがあると思う。
ある事象に対して感謝が先行するということはあるのだろうか。

周囲の人や自分が今いる環境に対して感謝するためには、
感謝するだけのものを受け取る必要がやはりある、と思う。

「日々、感謝する」という態度が表出する瞬間とは、
例えるならコップから水が溢れるときにも似ていて、
与えられ続けてきた蓄積が、ある時点から感謝に転移する、
そういう類のものなのではないかというのが最近の仮説だ。

“give”は”take”から始まるかもしれない

ビジネス書なんかでよく言われることに
「”give and take”ではない。”give and give”だ。」という言葉がある。

はじめから見返りを求めてはいけない。
見返りがなくとも与え続けることで初めてリターンが来るのだ。
そんな感じの解釈だったと思う。個人的には割と好きな言葉だ。

「感謝」について色々と考えているうちに、
“give and give”もまた、前提として”take”が必要ではないかと気づくに至った。
“give and give”する側になるには、
“take”する側(“give”される側)にまずなっておくべきなのではないか、と。

見返りを求められない好意を受けていたことが、
見返りを求めない”give”を提供する側の素養となる。

また、”give”は”take”のニーズによって成り立つ行為だ。
“take”したい人がいて、それに応じられる人が”give”をする。

与えることの喜びは、与えられる喜びから学ぶことができる。
そんなことを思っている。

まとめ:海士町・多井地区の事例から

この記事の結びとして一貫性を保てないかもしれないが、
ブログを書いている最中、頭をよぎっていたエピソードがある。
海士町第四次総合振興計画の別冊のコラムで紹介されている話だ。

2008年の夏、海士町の多井という当時わずか15世帯の地区に、
岡山県倉敷市にある福祉系大学の学生が約1か月間滞在した。

福祉を学ぶ彼らのモチベーションは、
地域に暮らし地域の人を助ける、お世話をする、そんなところにあったろう。

彼らは多井の公民館で生活していたが、
公民館には家電はなく、旧式の洗濯機の使い方などわかるはずがない。
食材をもらっても調理方法が分からない。
結局彼らは、当初の想定とは裏腹に地域の人に助けてもらう生活を過ごした。

それがかえって多井の人たちが「ありがとう」と言われる機会になったという話だ。
他人に施す、与えるということが高齢者にとってささやかな生きがい、やりがいとなり、
その機会を提供したのは”give”ではなく”take”の側にある学生だった。

このコラムは「福祉」の意味を問いなおす形で締めくくられる。
“give and give”という言葉の意義は、その先にあるような気がする。

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