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「きょうしつのつくり方」を読んで

カテゴリ:読書の記録


不思議な絵本だ。

子どもたちが自分たちで教室をつくりあげていく。
その様子がカラフルな水彩画で描かれている。

特徴的なのは、文字がないことだ。
「これは、○○をしているところです」といった解説は、
本編の後にまとめられている。

例えば、二、三人で一緒に読み進めながら、
どんな印象を持ったか話し合うのに向いていそうだ。

終盤には、鼎談が記載されている。
原案の学芸大准教授の岩瀬直樹氏、
プロジェクトアドベンチャージャパンの寺中祥吾氏、

」等の苫野一徳氏の3名。

気になる箇所がいくつかあった。

苫野・・・「みんなが同じでなければならない」「同じことをしなければならない」という、学校でよく見られる凝集性には、そこでひどく苦しい思いをしてしまう子どもたちが必ず存在してしまうという、深刻な問題があると思っています。
 でも、自発的な遊びを楽しんでいる時に感じるまとまり感は、むしろ助け合いや学び合いの土台になるんですね。
岩瀬・・・そのギュッとした感じをあまり味わったことがないまま、個別化を大事にしようと思うと、バラバラしたままになってしまいます。

きょうしつのつくり方

思い当たる節が多々ある。

岩瀬・・・凝集性の違和感みたいなことがぐっと来たときは、大きい変化を自分の中に感じました。「自分自身は割とそういう場は嫌なのに、先生である私はやれてしまう」みたいなところがつながったときに、自分の中に一つ核ができたという感じはあります。

きょうしつのつくり方

『先生である私はやれてしまう』。
それは公立塾のスタッフである僕も同様だと感じた。

 

本書は鼎談こそ多少抽象度が高いが、
全体としては子どもが読んでも差し支えない、と思う。
コミュニケーションのツールとして活用するとよいかもしれない。

こういう本もあるらしい↓


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カテゴリ:世の中の事


やる気の問題にする前に

勉強が苦手になるメカニズムについて考えてみる。

必要とされるレベルと自分の現状のレベルとがあり、
このギャップを自力で埋められなくなってしまうと、
いわゆる「つまずき」と表現される状態になる。

現行の学校教育の場合、多少の調整はあるものの
授業は個々の生徒の理解度とは無関係に進む。
どこかの時点でギャップが生じるのは避けられない。

ところが、構造的に生じるこのギャップを埋める方法を
学校の中で教えてもらった記憶がさっぱりない。

「ちゃんと復習しろ」「毎日こつこつやれ」と発破をかける以外は、
試験勉強のタイミングで頑張って穴を埋めることが
事実上の期待される唯一の手立てになっている。

しかし、「ギャップの埋め方」を知らないのに
「もっと頑張れ」と言われたところで、何ができるだろうか。
そもそもどこから手を付けたらいいのかわからないのだ。
やる気の問題?違う、これは「方法」の問題ではないか。

「方法」を割と軽視する社会で

「方法」を知らず戸惑っている状態を
「やる気の欠如」の問題にすり替えることが多いためか、
この社会は「方法」や「技術」を軽視している印象がある。

個人的には、むしろ「方法」や「技術」、あるいは
問題解決の「手段」を幾らかでも知っているということが、
社会と接点を持つきっかけをつくるのだと思う。

若者が政治に無関心(と言われる)のも、
例えばどういう基準で誰に投票すればよいのか、
社会に影響を与えるためにどう投票すればよいのか、
「How」の部分が欠けているだけなのかもしれない。
「What」はむしろ後からついてくる。

というような仮説を持ちながら、
今年度末まで生徒と関わってみたいと思う。

 

 


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カテゴリ:自分事


今年度に入ってから、勤務先では『学び合い』的な要素を取り入れ、
「学び合い」ができる自習スペースを用意するようになった。

その進歩の様子を見ると、自分が培ってきた教育の常識が
末端から徐々に更新されていくような印象を受ける。

数か月前だが、「エンパワーメント」という概念と、
その仕事の具体的な記述に出会った。

今、その2つが徐々に結びつこうとしている。
この記事では、その言語化の試みのはじめとして、
勤務先における「学び合い」の変化を記述してみたい。

消極的な「学び合い」のスタート

子どもたちが教えあう姿を見た当初を振り返ると、
実は違和感があったことを思い出す。

勉強は自分一人ひとりで淡々と進めていくもの。
静かで、集中できる環境こそが勉強に適しているもの。

自分が進学校でそうした認識を自然と身に付けており、
かつそれが成功体験と結びついているからなのだろう。

わいわいがやがやと勉強を進めるスタイル。
それは自分の常識にないものの一つだった。

スタッフの中でも懐疑的な見方があったのか、
「学び合い」スペースの設置は消極的なスタートを切る。

”早く一人ひとりが自立して静かに勉強できるようになってほしい”
”生徒の要望ではあるが、なるべく利用は最小限であってほしい”

10数名が入ればいっぱいになるような空間をあてがい、
管理面の懸念から利用に多少の制限をかける方針が定まった。

そうして始まった「学び合い」スペース。
学校でも『学び合い』やアクティブラーニングが始まり、
入学当初から順応しつつあった高1生の利用者が目立った。

「思ったよりは悪くない」

普段は静かな学習の時間に、にぎやかさが生まれる。
生徒の動きに戸惑ったのは、ほかならぬ僕自身だった。

”教えあうことが目的なら具体的な問題を持ち寄るはずだ”
”時間制限をかけないとだべる生徒が増えるのではないか”

その想定から利用時間を最大50分に設定。
しかし、それにもかからわず延長を申し出る生徒が出てくる。

利用希望者でスペースは頻繁に埋まり、
人数に従って声のボリュームは大きくなる。

危惧していた事態ばかりだ、と思った。

が、会話を聞く限り、教科に関することが思いのほか多い。
脱線するのは休憩からしばらく経ったころとか、
1グループの生徒数が5~6人に膨れる場合は
やはりノイズが混じりやすいが、頻繁にではない。

「思ったより悪くないぞ」

恐る恐る蓋を開けてみたわけだが、
スタッフの間ではちょっとした発見が共有された。

ただ、「意外に勉強が成り立っている」が、
「効果的な学習ができている」かはわからなかった。
スタッフが日々振り返りルールを調整していっても、
「学び合い」スペースの劇的な改善にまでは至らない。

「化学の点数が上がった!」という声も生徒から挙がったが、
いまいちピンとこないでいた。手応えがなかった。

生徒発信の「学び合い」スペースへ

転機は、教育工学の権威の来島と共に訪れる。

せっかくの機会ということで、Y先生に助言を仰ぎつつ、
高1生たちが学習時間における施設の使い方を検討。
生徒間の人気投票で勝ち残った案を実際に試行することとなった。

選ばれたのは、環境の静かさのグラデーションをより細かくし、
「学び合いスペース」をより広く確保するもの。
そして、生徒考案の学習環境が試行される。

個人的な感想を先に述べると、
生徒の自律性が高まったという点で前進したと感じている。

・生徒が自分で望ましいと思う環境を選ぶようになった

これまでは「静かに一人で学習するのが理想」という
スタッフの意図を反映させた学習環境が主だった。

これは、「生徒が望む環境」が必ずしも効果的ではない、
という認識に基づいている、とも言える。

今回、学習環境が複数用意されることによって、
生徒が自分で勉強のスタイルを選べるようになった。

結果的に、自分に合うやり方は生徒本人もわかっており、
こちらの理想と必ずしも一致しない、という見方を提供してくれた。
(それが効果的かどうかはもう少し観察が必要だろうが)

・生徒に委ねても、目的を逸することは思ったより少ない

「学び合い」スペースの席数が拡充された結果、
利用者数が増え、声のボリュームも少し大きくなっている。

恐らく、何も知らずに見学に来た人がいたら
「こんな状況で勉強しているわけがない」と思うだろう。
しかし、彼らのやり取りの9割が学習内容に関することだ。

ただ、集中を保ち続けるのはそう容易ではないらしい。
あくまで感覚だが、休憩を取らずにいると
後半になるにつれてだべっている時間が増える印象がある。

「学習する」という行為については
とはいえ大人の方が一日の長があるので、
ガイドライン化してもよいのかもしれない。

今後の発展的課題

手応えのある変化があったことで、
次の試験期間が楽しみになってきている。

とはいえ、試験勉強というものの成果は
試験期間中の学習の量と質はもちろんのこと、
なんにせよ平常時の学習状況がものを言う。

個人的には、まだ漠然としてはいるが
「方法」を知らないことが問題になっている木がしている。

生徒の勉強する手が止まってしまうときは、
「現在の単元を理解するために必要な知識量」と
「現在の自分の知識量」との差が広がりすぎてしまい、
その大きなギャップを埋める方法がわからないから。

御しきれないギャップがありながら、
授業は無情にも試験に向けて淡々と進む。
こう書いてみると、割と難易度が高いと思えてくる。

こんなことを頭の片隅に入れながら、
また次の試験期間の生徒の様子を見てみたい。


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