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学びとは何か:パラダイム変容に必要な理論を武装する

カテゴリ:読書の記録

ディープ・アクティブラーニング」を読みながら、これからの授業や学習の在り方を考えるためには人間が何かを学習するシステムについて知る必要を感じるようになった。そこで手に取ってみたのが本書である。心理学の研究成果が平易な表現で紹介されている。内容は専門的なので、読者は選ぶだろうが体系的にまとめられている安心感があるのが良い。

不満があるとすれば、用語や理論について出典がないことだ(参考文献は最後にまとめられている)。そのため、認知心理学などを修めていない読者は、必然的に本書の内容だけが唯一の体系だった理論として捉えてしまう恐れがあるように思う。

知識・記憶・スキーマ

本書は、「知識とは何か」「記憶とは何か」という問いから始まる。その問いへ答えるための道具として、筆者は「スキーマ」という概念を持ち出している。

私たちは日常で起こっている何かを理解するために、常に「行間を補っている」。実際には直接言われていないことの意味を自分自身で補いながら、文章、映像、あるいは日常的に経験する様々な事象を理解しているのだ。行間を補うために使う常識的な知識、これを心理学では「スキーマ」と呼んでいる。

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

このスキーマは心理学者のピアジェが提唱した発達理論の中に出てくる概念らしい(が本書ではその言及がない)。

人は、何か新しいことを学ぼうとするときには必ず、すでに持っている知識を使う。知識が使えない状況では理解が難しく、したがって記憶もできない。つまり、学習ができない、という事態に陥ってしまう。言い換えれば、すでに持っている知識が新しいことの学習に大きな役割を果たしているのである。

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

知識が知識をつくる。これは例えば英単語の単純暗記のような学習が前提とする知識習得のモデルとは異なる認識に立っているが、しかし一方で直感的に納得がいくところもある。個人的な経験でも、世界史の試験前に用語や人物名だけ反復して覚えようとするよりも、ストーリーとして事象のつながりを理解し、資料集のコラム欄にあるような試験に出ない知識までカバーした方が、結果的に記憶に残りやすく、試験時の再現性も高かった記憶がある。

新しい知識が習得されるとき、スキーマは具体的にどのような役割を果たすのか。外界からの情報を解釈するフィルターと捉えるとわかりやすい。

日常生活における記憶は「客観的な出来事の記録」ではなく、知識のフィルターを通して解釈され、構築されたものなのだ。

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

知識は個々人のスキーマによって理解のされ方が異なるということであり、したがって極端な話をすれば、あらゆる個人の知識は「思い込み」である、とさえ言えるのかもしれない。もちろん、思い込みの精度の違いはあるにせよ。

学習のプロセス

人は、思い込みを積み重ねて学習をするとしたら、知識はあらゆる人に共通した形で頭の中に収められるのではなく、その都度既存の知識を駆使して発見されるものと言える。しかし、ある時点で、既存の思い込みが新しい知識習得の妨げになるケースに遭遇してしまう。誤ったスキーマを克服しなければ、新しい知識が自分のものにできない、ということだ。その典型的な例が、子どもたちの多くがつまずく「分数」や「小数」の概念である。

「数はモノに対応する自然数である」という誤ったスキーマは、割り算の理解を難しくするだけでなく、比や割合、密度の概念などの理解も困難にする。

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

実体験をベースにしてスキーマは構築されるのだから、数は自然数以外にも存在する、という抽象的で目に見えない概念に至るのは難しい。それこそ学校等の現場で直感に頼らず体系的に学習することの重要な意義なのだろうが、とはいえ子どもたちがつまずいたままでは結局その後の学習に大きな影響があるということになる。

スキーマの書き換えが難しいのはなぜか。知識の習得がスキーマによる解釈を経て実現する以上、スキーマの構造を強化するように情報が加わる点にある。さらに「確証バイアス」、すなわちスキーマに都合の悪い情報は無視しがちになるのもその理由だ。だからといって「誤りのないスキーマをつくる」ことはできない。それはスキーマが「人の自然な世界の認識のしかたを反映して自分でつくるもの」だからだ。

人が科学や外国語を学び、発達していく上で大事なことは、誤ったスキーマをつくらないことではなく、誤った知識を修正し、それとともにスキーマを修正していくことだ。

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

まさにこれは「学びほぐし(unlearn)」の重要性を言っているように思う。

「知識」観と熟達

知識は常に変化をつづけている流動的なものだし、最終的な姿は誰にもわからない。最終的な姿がわからないのにシステムを構築するためには、要素を増やしつつ、それに伴ってシステムも変化させながら、成長させていくしかない。「生きた知識のシステム」を構築し、さらに新しい知識を創造していくためには、直感と批判的思考による熟慮との両方を両輪として働かせていく必要がある。

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

この知識観は既存のものと大きく異なることが分かる。ここでいう「生きた知識」とは、穴埋め問題は解答できるが記述式問題には太刀打ちできない、という丸暗記の世界とは真逆のものだ。つまり、既存の知識と関連付けられ、主観的な解釈により発見され、システムの中で息づき、身体の一部として使えるような知識のことを指すようだ。

変化し続けるシステムだからこそ、「熟達」というプロセスが可能なのかもしれない。思い込みを発揮して知識をどん欲に吸収しながら、一定の限界に達したときに思い込みを修正するというダイナミズム。「詰め込み教育」に代表される日本の伝統的な学力観に自然と疑問符が浮かぶ。

感想

「教授パラダイム」から「学習パラダイムへ」。
この転換を自分なりに追い続けているわけだが、その背景には心理学の研究成果が横たわっていること、これまでの知識観・学力観が時代の変化に追いついていないことが徐々に見えてきた。そろそろ「構成主義」や「社会的構成主義」についてもう少し具体的に踏み込む必要があると感じている。あと、動機づけについても。

とにかく、これからの教育について考えるならば、本書はその入門としてよいきっかけを提供してくれるように思う。

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アクティブラーニングなるものの取り扱いについて

カテゴリ:世の中の事

アクティブラーニングをどのようなものと捉えればいいのだろうか。(一斉講義と対立する意味での)授業手法のことなのか、思想の問題なのか。情報を得れば得るほど、全体像が掴みづらいものになっている。あたかも「地域活性化」のようなバズワードの宿命を辿っているようにもみえる。

一つ言えるのは、アクティブラーニングは手段であり目的ではない、ということなのだろう。アクティブラーニングは、それ自体が万能なものではない。結局は、限られた時間の中で学習者の学習を最大化するという目的を実現するための試みであって、それはもちろん長年の一斉指導の歴史の中でも同様に中心に据えられた目的だったはずだ。だから、アクティブラーニングを一斉指導と対立させる分かりやすさは、一方でアクティブラーニングというものへの誤解を生む温床にもなっている。

しかし、一斉指導が当たり前であり続ける以上は、教員の授業力の担保に限界がある、というのも良く分かる。アクティブラーニングというタグ付けをすることで、試験だけでなく普段の授業から「学生が知識や技能を習得し、能力を身に付けているかどうか」に注意を払うことが促されるかもしれない。それだけでも、学校教育は進化を遂げるはずだ。

もちろん、そんなことを言われる前からきちんと学習者を中心に据えて授業を実践してきた先生方からすれば、ここに何か真新しい議論があるようにも見えないのだろう。アクティブラーニングというものに対しては、だからこれくらいの期待値でよいのかもしれない。何も特別な話ではないのだ。

こんな動画もある。もし興味があれば、全体像を知るのにちょうどよいかもしれない。

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ディープ・アクティブラーニングのメモ:第5章・理解か、暗記か?

カテゴリ:読書の記録

本書は第5章から「第Ⅱ部・様々なフィールドでの試み」に入る。ディープなアクティブラーニングを追究する実践事例や様々な工夫が紹介されている。この章では初等物理学の授業で著者が実際に採用している「ピア・インストラクション」という手法がテーマだ。

ピア・インストラクションとは

ピア・インストラクションは以下のような流れで構成される授業手法である。

1.重要な単一のテーマ・トピック(キーコンセプト)に関する講義
2.概念的課題(コンセプテスト)の提示
3.課題について個人思考
4.課題について近くの学生とディスカッション
5.課題の回答の解説

この1~5は1サイクルが約15分というごく短時間に収まる。それくらいにトピックを絞り、このサイクルを講義時間中に何度か回す。2~4のコンセプテストの結果、学生の理解度が高まっていないと感じたときは5の部分にもう少し時間をかける。学生の理解に沿った柔軟な授業運営が前提になっており、著者はそのために扱うトピックも厳選し、振り返り用の時間をシラバスに組み込んでいるそうだ。

著者の問題意識は、初等物理学の授業が、概念の理解よりも公式の暗記やそれに基づく数理計算に偏っていることにあった。それは、教材の提示のされ方が一方向的で、学生の批判的な思考を養う前提でつくられていないことも大きく関与している。これは(ディープ・)アクティブラーニング導入のモチベーションとほぼ一致するし、何よりこれまで学校教育を受けてきた人の多くが実感するところだと思う。「教授パラダイム」の限界はすでに来ているのかもしれない。

ピア・インストラクションのポイント

この手法のポイントは、第一に良質なコンセプテストを十分に準備すること。数理計算のみでは解決されないような概念的な問題が望ましい。コンセプテストは多肢選択問題として出題される。例えば、以下のようなものだ。

水が縁いっぱいまで入っているバスタブがあるとしよう。その横にそれとまったく同じバスタブがあり、やはり水が縁いっぱいまで入っているが、そちらには戦艦模型が浮かんでいる。どちらのバスタブの方が重いだろうか。
1.最初のバスタブ
2.戦艦模型が浮かんでいるバスタブ
3.どちらも同じ

ディープ・アクティブラーニング

僕も高校のときは物理選択だったし、大学でも力学の授業を少しだけ受けたことがあるが、こういったシンプルな問題が物理の試験で問われた記憶はほとんどない。多肢選択式であっても、だいたいは公式の暗記ができているかの確認だった。この出題方式であれば自分の考えを持った上でそれを他者に説明するということがやりやすいと思う。

もう1つは「リーディング・アサインメント」、つまり事前にテキストやノートを読むよう学生に求めること。いわゆる「予習」だ。これは高校時代に僕もやっていたし、できるならばこの方が学習の効率は上がるはずだ。そういう意味で、「反転学習」まではいかないが、教員と他の生徒がいる「授業」という場の価値を重視したスタンスというふうに捉えることもできるのではないか。

感想

本書を読み進めるたびに、学校教育の「当たり前」として存在していた様々な課題に素朴な疑問を持ち、正面から真摯に取り組む実践者が増えてきているのだなと感じる。学生の成長を目的とすれば、ごくごく自然な方向性なのかもしれない。

また、このピア・インストラクションは第4章の「協同学習」を地でいっていることも分かる。本書の冒頭にあるように、「理論と実践を結び付け」ていく構成が、理解をより深める手がかりとなる。非常に読みごたえがある。引き続き、読み進めていきたい。

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